まんのう町文化財保護協会の秋のフィルドワークで、今年も金刀比羅宮を訪ねました。昨年は宝物館を中心に見学しましたが、今年は重要文化財に指定された本宮・別宮(三穂津姫社)・旭社を見てまわりました。その報告記を載せておきます。
最初に「四国新聞・2024/05/18」で事前学習をしておきます。
(前略)
大銀杏が色付き初めています。まずは正面の祓除殿に向かいます。
金刀比羅宮本宮地域建造物調査報告書の表紙 2024年 金刀比羅宮
四段坂の階段を登った所に本宮、旭社(旧金堂)への下口前に別宮が鎮座します。山上の本宮と別宮をを回廊が結んでいます。まず山上の一番南の建物から見てまわります。
金刀比羅宮 別宮拝殿から本殿への階段
金刀比羅宮 別宮拝殿内部 (三穂津姫祭)
この別宮が建てられる前には、ここには何が建っていたのでしょうか?
明治維新の神仏分離によって、金刀比羅宮は金毘羅大権現を追放し、新たな国家神道の宗教施設としての道を歩み始めます。しかし、山上には今までの神仏分離の仏教色の強い本宮や、旧観音堂(松尾寺の旧本堂)が、そのまま残っていました。これらの宗教施設を一掃し、近代的な国家神道に相応しい宗教施設群の建設を金刀比羅宮は目指そうとします。ちなみに、幕末から明治にかけての金毘羅信仰の高まりはすざましく、経済的基盤にはめぐまれていたことは以前にお話ししました。こうして、山上におけるリニューアル工事が明治8年にはじまり、旧本社や旧観音堂は撤去されることになります。

金刀比羅宮 別宮拝殿で奉納される三穂津姫舞
ちなみに、この建物が三穂津姫社とされるようになるのは、いろいろな経緯を経て後年のことになるようです。そこにはいろいろな内部での意見対立などもあったようです。最後に、別院は三穂津姫を祀るために造られたのではなく、別院として造られた。そのために、別院は面積的には本宮の半分の規模だが、本宮と同じように、直所や神饌所などの付属施設を持っているのです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
金刀比羅宮本宮地域建造物調査報告書紙 2024年 金刀比羅宮
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最初に「四国新聞・2024/05/18」で事前学習をしておきます。
(前略)
明治初頭の神仏分離で仏教色を排し、神社として再興するため境内を再編しており、明治政府の宗教政策への対応を示す貴重な事例。複合社殿の本宮と別宮は独自の細部意匠を備え、両宮をつなぐ渡り廊下など一連の施設と共に優れた景観を形成していることも評価された。(中略)
県内では明治以降の建造物が重文指定されるのは初めてで、今回答申された建造物は次の12棟。
「本宮本殿・中殿・拝殿」
「本宮神饌殿(しんせんでん)」
「本宮直所(じきしょ)」
「別宮本殿・中殿・拝殿」
「別宮神饌殿」「別宮直所」
「祓所殿(ばつじょでん)」
「南渡殿(みなみわたどの)」
「神楽殿」「御炊舎(みかしぎしゃ)」
「神輿(しんよ)庫」
「神庫」
いずれも1874~78(明治7~11)年に建てられた。金刀比羅宮はかつて「金毘羅大権現(こんぴらだいごんげん)」として神仏混交の寺院でもあったが、1868(同元)年の神仏分離令から神社として再興。組織の再編に合わせ、境内も大規模に改編した。
県教委などによると、1878(同11)年建築の本宮は仏教色をなくし、壁面や天井に木地蒔絵(まきえ)を施した複合社殿。拝殿から本殿に向かって床高を上げることで格式を高め、破風(はふ)を多用した屋根も荘厳で優美な雰囲気を醸し出している。本宮本殿などを修理する際に本宮からご神体を移す別宮も本宮に準じた高い格式で、神饌殿や直所など付属施設を伴う構成も同じという。また、両宮をつなぐ全長42メートル、高さ2・2メートルの長い渡り廊下「南渡殿」は金刀比羅宮独特の形式。同時期に建てられた神楽殿、御炊舎など各殿舎も残り、同審議会は「優れた社頭景観を呈するとともに、神仏分離による境内改編の様相を伝え、歴史的に価値が高い」としている。それではまんのう町役場から町のマイクロバスで出発です。
金刀比羅宮山上から望む阿讃山脈と大川山
昨年と同じ学芸員の森下さんに御案内していただきます。大銀杏が色付き初めています。まずは正面の祓除殿に向かいます。
金刀比羅宮本宮地域建造物調査報告書の表紙 2024年 金刀比羅宮
四段坂の階段を登った所に本宮、旭社(旧金堂)への下口前に別宮が鎮座します。山上の本宮と別宮をを回廊が結んでいます。まず山上の一番南の建物から見てまわります。
金刀比羅宮 別宮の南側より 左が祓除殿・右が直所
金刀比羅宮 祓除殿
祓除殿(ばつじょでん:はらえでん)」は、穢れや災厄を取り除く儀式である「祓い」を行う場所だそうです。殿上に上がる時には、ここで「祓い」受けます。この施設は、神仏混淆の金毘羅大権現時代にはありませんでした。神仏分離後の明治10年(1877年)に建立されたものです。この建物も重要文化財に指定された12棟の文化財の一つです。もともとはガラス扉はなく、開放的な空間だったようです。
金刀比羅宮 祓除殿(左)と直所(右)
金刀比羅宮 祓除殿(左)と直所(右)
金刀比羅宮 祓除殿内部 ここで穢れや災厄を取り除く「祓い」を行います。


「夜間出仕一人奉仕して警衛の任に当たる」
かつては祓除殿の南側には隣接して絵馬堂がありましたが、今は更地になって広々した空間になっています。
ここは神域の景観が大きく変わったとこです。そのために南方の景色がよく見えるようになりました。
大銀杏の下を通って、別宮の南側から正面に移動していきます。
別宮の正面が見えて来ました。
別宮は、旭社への下り参道の正面に建っています。振り返ると別宮の正面です。ここは神域の景観が大きく変わったとこです。そのために南方の景色がよく見えるようになりました。
大銀杏の下を通って、別宮の南側から正面に移動していきます。
別宮の正面が見えて来ました。
金刀比羅宮 別宮拝殿の正面
①拝殿から後方は地盤を0.7mほど高めて、周囲に切石2段の石積上に葛石を回し、②この石を布基礎として透塀を回して中及び本殿を開い。内部に拳大の玉石を敷き詰める。③拝殿・中・本殿が接続して複雑な屋根の構成をみせる④総欅の素木造、総檜皮葺の複合社殿形式
⑤拝殿は高床の建築で、切石二段布積の布基礎上に上部梓付きの角柱を土台建て⑥組物は大斗財木で柱間の使い正背面両脇は疎組だが、柱間中央では大木を配って詰とする。⑦軒は二軒で角垂木を疎らに配る。⑧屋根は入母屋造檜皮葺で、飾は前の上に三を組み、中に神紋を備えた彫物を配し、絵様を施した虹の上に笈形付大東を立て、破風の拝みに鯖付き無懸魚を釣る。
⑨正面千鳥破風は大棟に高さを揃えて前方に棟を延ばし、妻は花狭間格子、拝懸魚は大屋根と同様とする。
①桁行三間、梁間二間で、正面中央間特に広く12尺(3.6m)②疎垂木を16枚(1枚=7寸5分)に割り付け、両脇は9枝と狭くし、側面は11枝等間③拝殿中央間の柱は、正面向拝並びに後方に続く中殿及び本殿の間口に揃えた重要な基準間④正面及び両側面は各間に双折れ唐戸を両外開に構え、正面中央間は長押を一段切り上げる⑤背面は中殿に続く中央間を開放とし、両脇間は両外開きの唐戸を構える。
金刀比羅宮 別宮拝殿から本殿への階段
金刀比羅宮 別宮拝殿内部 (三穂津姫祭)
この別宮が建てられる前には、ここには何が建っていたのでしょうか?
金毘羅大権現の観音堂(讃岐国名勝図会)
讃岐国名勝図会には、別宮がある所に松尾寺の本堂(観音堂)が描かれています。明治維新の神仏分離によって、金刀比羅宮は金毘羅大権現を追放し、新たな国家神道の宗教施設としての道を歩み始めます。しかし、山上には今までの神仏分離の仏教色の強い本宮や、旧観音堂(松尾寺の旧本堂)が、そのまま残っていました。これらの宗教施設を一掃し、近代的な国家神道に相応しい宗教施設群の建設を金刀比羅宮は目指そうとします。ちなみに、幕末から明治にかけての金毘羅信仰の高まりはすざましく、経済的基盤にはめぐまれていたことは以前にお話ししました。こうして、山上におけるリニューアル工事が明治8年にはじまり、旧本社や旧観音堂は撤去されることになります。
さて、ここで学芸員の方から出されたクエスチョンです。本宮と別宮では、どちらが先に建てられたでしょうか?
重要文化財と書かれた別宮と三穂津姫社の看板の大きさに注目
かつては、この建物の看板には三穂津姫社と大きく書かれ、そこには祭神である大国主命の妻を夫婦で祀ってあることになると書かれていた記憶があります。しかし、重要文化財指定後は「御別宮」と大きくあり、三穂津姫社の説明版は小さくなっています。ここには、この建物が遷宮祭の際に使用される「別宮」であることの方をを強く打ちだしているように感じます。
金刀比羅宮 別宮拝殿で奉納される三穂津姫舞
ちなみに、この建物が三穂津姫社とされるようになるのは、いろいろな経緯を経て後年のことになるようです。そこにはいろいろな内部での意見対立などもあったようです。最後に、別院は三穂津姫を祀るために造られたのではなく、別院として造られた。そのために、別院は面積的には本宮の半分の規模だが、本宮と同じように、直所や神饌所などの付属施設を持っているのです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
金刀比羅宮本宮地域建造物調査報告書紙 2024年 金刀比羅宮
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