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金刀比羅宮 別宮
金刀比羅宮の重要文化財に指定された建築物の中の別宮について、いろいろとみています。今回は別宮建設に関わった技術者集団について見ていくことにします。テキストは「金刀比羅宮本宮地域建造物調査報告書 2024年 金刀比羅宮」です。

金刀比羅宮 別宮5
金刀比羅宮別宮
まず明治時代の別宮造営時の棟札を見ていくことにします。

金刀比羅宮 別宮棟札2
別宮 棟札(明治8年)

まず工期と宮司と権宮司を確認します。
明治8年1月22日 新始式
    10月12日 上棟
明治9年(1876)4月10日 落成・仮遷宮
宮司  深見逸雄(鹿児島県出身 明治政府の派遣) 
権宮司   琴綾宥常(旧金毘羅大権現の金光院主)
禰宜 松岡調(讃岐国名勝図会の絵図製作者・多和文庫創設者)
拡大して、一番下の職人集団のリーダーたちの名前を見ておきましょう。

別宮棟札13の拡大

一番下段には小さな文字で、次のような職人集団の指導者の名前が記されています。
大工棟梁 1名 綾 担三
大工副棟梁 2名 川添清八郎 白川駒造
大工世話方 4名 箸方興平 大西貞蔵 高島久吉 綾儀三郎  
檜皮師、金具師、石工、宮材主事 各1名
棟梁は綾担三、副棟梁は川添清八郎と白川駒造で、琴平村在住の大工たちです。明治8年の別宮上棟に綾担三自身が書いた板札には次のように記されています。

「父ハ綾九良右衛門豊章 金堂今旭社教殿之棟梁也」
意訳変換しておくと
「私の父は綾九良右衛門豊章で、 金堂(現旭社)教殿の棟梁を務めた」

綾担三の父、豊章は旭社を建てた棟梁だと記します。綾担三は、若い頃には豊矩と名のっていて高燈寵を建てています。明治になると名を豊矩から坦三と改めて、金刀比羅宮本宮や別宮の棟梁を務めたことになります。
副棟梁の川添清八郎(明治25年1月没)は、先代の長兵衛の代からの宮大工で、屋号は「西屋」でした。川添家は長宗我部元親の讃岐侵攻の際に土佐から移り、寛文8年(1688)に琴平町に定住したと伝えられます。
 大工棟梁を務めた綾氏は、もともとは山下姓だったようです。 
 
4 塩飽大工
高倉哲雄・三宅邦夫「塩飽大工」成29年(2017)年3月 塩飽大工彰会
以前紹介した「塩飽大工」には、本島泊浦の大工山下家の流れについて次のように記します。

「塩本島泊浦の大工山下家から江戸初期に西讃地方に移った三兄弟がそれぞれ仁尾町、高瀬町、三野町を拠点に宮大工として活躍しするようになる。その高瀬山下家の流れを汲むのが琴平で活躍するようになる綾氏」

そして綾氏(改姓前は山下)が残した建築物を、次のように挙げています。


名前 住所   建設年     建設所在地
山下太郎右衛門  苗田村  1760 宝暦10  善通寺五重塔  
山下理右衛門豊春      1823 文政6  石井八幡宮拝殿  琴平町
山下理右衛門豊春      1824  文政7  石井八幡宮    琴平町
 山下から綾へ改名
越後   豊章 高藪町  1837 天保8  金刀比羅宮旭社  琴平町
綾九郎右工門豊章 高藪町  1849 嘉永2  金刀比羅宮寵所  琴平町
綾九郎右工門豊章 高藪町  1841 天保12  金刀比羅宮表書院 琴平町
綾九良右工門豊章 高藪町  1852 嘉永5  金刀比羅宮米蔵  琴平町
綾九郎右衛門豊章 高藪町  1852 嘉永5  金刀比羅宮通夜堂 琴平町
綾九良右工門豊章 高藪町  1852 嘉永5  金刀比羅宮法中部屋琴平町
綾九郎右工門豊章 高藪町  1854 嘉永7  金刀比羅宮廻廊  琴平町
綾九郎兵衛門豊矩 高藪町  1857 安政4  金刀比羅宮宝蔵  琴平町
綾九郎右衛門豊矩 高藪町  1859 安政6  金刀比羅宮奥殿  琴平町
綾九良右衛門豊矩 高藪町  1859 安政6  金刀比羅宮高燈寵 琴平町
綾坦三(豊矩が改名)高藪町 1875 明治8  金刀比羅宮別宮・神饌所 
綾坦三      高藪町  1877 明治10  金刀比羅宮本宮  琴平町

ここからは次のような情報が読み取れます。
①1760年頃に、高瀬から琴平の苗田にやって来て善通寺五重塔に関わったのが最初
②19世紀初頭に、豊春が苗田村の石井神社拝殿・本殿を担当
③これを契機に、豊章は旭社・表書院などの棟梁を務めるようになり、住所を高藪に移した。
④天保2(1831)年2月に金光院棟梁役を仰せつかった際に、金光院院主を輩出する山下家との混同を避けて綾氏に改名
⑤19世紀中頃から豊章の後を豊矩(後の担三)が継いで、高灯籠などを担当
天保2(1831)年の金毘羅大権現の旭社(旧金光院松尾寺金堂)の初重上棟の脇棟梁に綾九郎右衛門豊章の名前があります。綾と名のっていますが、これは山下理右衛門豊章が金光院院主を輩出する山下家との混同を避けるために「綾氏」に改名した名前だとされます。二重の上棟時には棟梁となり、以後は金毘羅大権現のお抱え大工として華々しい活躍をするようになるのが上表からも分かります。彼の居住地は金毘羅さんの高藪町になっています。豊章という名前からは、豊春の子ではないかと推測できますが、確証できる資料はないようです。豊章の子が豊矩で幕末に高燈寵を建て、明治になると名を坦三と改めて、別宮や本宮の棟梁を務めることになります。 次の綾坦三の棟梁任命書が、それを裏付けます。
 「綾坦三 御別宮棟梁申付候事 明治七年七月十七日 (讃岐国金刀比羅宮印) 
  「綾坦三 御本宮御造営棟梁申付候事 明治十年四月 (讃岐国金刀比羅宮印)」

高灯籠版画
高灯籠 綾担三(豊矩)は、高灯籠の棟梁も務めた

19世紀は金毘羅信仰の高まりと共に、参拝客が激増して財政的に金光院は潤ったことは以前にお話ししました。その経済力を背景に境内整備が進められ、大工たちにとってはいい仕事が続いてあったことを押さえておきます。
別宮の棟札にもどります。大工たちの出身地を見ておきましょう。
「大工世話方係」は班長格の大工で、4名すべてが地元琴平村出身、その配下となる大工80名中69名も琴平出身者です。琴平以外は大阪1名、塩館10名です。別宮や本宮は、地元琴平の大工の手によって建てられたと云ってもいいようです。私は、神仏混淆様式を排した近代的な神道建築のためには、京都から宮大工を招いたのかと思っていましたが大外れです。それに対応できる大工集団が琴平にはいたようです。思い返してみれば、19世紀前半の金毘羅大権現は金堂工事が期間30年間・経費2万両の大工事を行っていました。その後には、7500両の経費がかかった高灯籠も綾担三(豊矩)が務めたことは先ほど見たとおりです。さらに、善通寺の五重塔も同時進行で建設中だったことは以前にお話ししました。そのため腕のいい大工集団が集まっていたようです。

金刀比羅宮 本宮
金刀比羅宮本宮
 次に本宮の建設に関わった大工たちを見ていくことにします。
本宮工事の時には「御本宮再營諸職人」という板札が残されています。ここには今宮建立に参加した職人たち240名が職種別に記されています。これを見ていくことにします。

本宮工事の時に「御本宮再營諸職人」という板札
          御本宮再營諸職人 本宮建設に関わった職人240名のリスト

本宮工事に「御本宮再營諸職人」という板札
               金刀比羅宮 御本宮再營諸職人(一部拡大)

三段になっていますが上段に並ぶのが大工たちの名前です。筆頭部分を拡大してみます。
金刀比羅宮「御本宮再營諸職人」 大工
金刀比羅宮 御本宮再營諸職人の大工筆頭部 大工棟梁は綾担三


大工棟梁   綾担三
大工副棟梁  川添清八郎 白川駒造
大工世話方  箸方興平 大西貞蔵 高島久吉 綾儀三郎 綾弥三蔵 綾喜三郎
先の別宮スタッフに加えて新たに大工世話係に、「綾弥三蔵 綾喜三郎」の2名が加えられています。綾家の三人は名前からして、担三の子息か親近者のようです。以下、出身地を「同村(琴平村)」と表記された大工たちが70名並びます。その中には、綾姓が8名、箸方姓が7名います。琴平以外では、塩飽大工が10名、大阪府が1名のみです。こうしてみると、別宮と同じように、本宮も琴平在住の大工集団で建てられたことが分かります。それだけの技術力や経験を金刀比羅宮の宮大工たちは持っていたことになります。
 大工棟梁の綾坦三に金刀比羅宮が求めたものは何なのでしょうか?
「御本宮再管竣功之記」には、金毘羅大権現の旧本宮について次のように記します。

  旧社殿の造り様は彩色や彫刻など仏教風が強く異国風(インド・中国的)であり、大神に釣り合っていなかった

金刀比羅宮 旧本社天保3年(1832)8月「天保三年御本社園」
金毘羅大権現本社(旧本宮) 天保三年御本社圖
ここからは施主である金刀比羅宮の指導者層が、インド・中国的な異国の仏教的な要素を排して、大神に相応しい復古調的な神道様式を望んでいたことがうかがえます。旧本宮は、袖部は極彩色や動物などの彫刻で飾られていたことが上の「天保三年御本社圖」などからは分かります。脱神仏混淆色のために、動物デザインなど仏教風なものを排除し、総檜の素木造として木肌の美しさで清静さを表現しようとします。屋根には新たに千木・堅魚木を置いて、神社建築の伝統的な要素を加えます。そして本殿と中殿の連結の仕方に工夫を凝らし、各所に目隠しとし脇障子を多用するなど伝統にとらわれない新しい工夫を見せます。
 先に工事を行った別宮では、頭買などの木鼻を角形として絵様形を排除する方向性を取りました。しかし、肘木下端に曲面を残し、向拝やの木鼻や虹梁は旧来と変わらない彫物や絵様形が描かれて華やかな細工になっています。これに対して、続いて行われた本宮工事では、肘木も角形になっています。彫刻的細部は、向拝中備などにしかありません。装飾的細部をさらに削ぎ落としています。
 別宮も本宮も大工棟梁は綾坦三でした。2年しか経っていないのに、次のような様式的な変化が見られます。
A 別宮では伝統的な様式を残し、神仏混淆様式からの脱却が徹底していない
B 本宮では脱神仏混淆色を、より進めて徹底した。
 そのような要望が施主側の金刀比羅宮からあったのかもしれません。それを実現するだけの技術と創意が大工たちにあったようです。どちらにしても、本宮の細部様式は、前例のない新しい様式でした。これは、金毘羅大権現の造営を担ってきた地元大工集団にとっても新しい挑戦にもなりました。 このような宮大工の研究心が、19世紀末から始まる善通寺の11師団の建築群や、旧制丸亀中学の学校建築などにも活かされていくことは以前にお話ししました。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 金刀比羅宮本宮地域建造物調査報告書 2024年 金刀比羅宮
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