金刀比羅宮 本宮
金刀比羅宮 本宮 

本宮工事の時に「御本宮再營諸職人」という板札

本宮建設に関わった職人240名のリスト
明治の本宮造営の時には「御本宮再營諸職人」という板札が残されています。ここには本宮建立に参加した職人たち240名が職種別に記されています。これを見ていくことにします。テキストは金刀比羅宮本宮地域建造物調査報告書 2024年 金刀比羅宮」です。前回に上段の大工たちは見ましたので、今回は中段からになります。
その筆頭に来るのが「御宮材木調進方」です。    

「御本宮再營諸職人」という板札
金刀比羅宮 御本宮再營諸職人 御宮材調進方
 「御宮材調進方」の主事は、別宮・本宮ともに小原林右衛門です。出身地を見ると手附3名を含めて全員が土佐国高智(高知)です。別宮・本宮は、両方とも総檜造でした。そのため檜の調達が最優先となるので、檜の産地である土佐出身者が臨時職員として採用されたと研究者は考えています。「御本宮再警竣功之記」には、次のように記します。
①宮材となる檜の良材は土佐国船戸山の峡谷(高岡郡津野町船戸)のものが使用された
②檜の無節にこだわり、渡殿や廊下などでは僅かに節が混じるものは丹念に取り除いて木を撰んだ。
小節ひとつといえども許さない心意気だったことが伝わってきます。

2段目の次に記されるのが蒔絵師です。
江戸時代、蒔絵を施す蒔絵師。細かい作業をする職人に眼鏡は欠かせない(『和国諸職絵尽』より) - 江戸ガイド|江戸ガイド
蒔絵師
本宮の本殿画面板壁と脇障子、本殿・中殿・拝殿の各格天井には、檜の柾目板の木地に高蒔絵の桜の木が描かれています。
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金刀比羅宮本宮の 本殿画面板壁 桜が描かれている。
白木の上に金色に輝く桜の木の蒔絵を作成した職人たちを見ておきましょう。

金刀比羅宮「御本宮再營諸職人」 檜皮師
           金刀比羅宮 御本宮再營諸職人 蒔絵師 
 
蒔絵師頭取は東京の山形治郎兵衛で、配下の手附も東京です。山形治郎兵衛率いる東京の絵師集団が作成したことが分かります。さらに拝殿の格天井には、西京2名と大阪1名の蒔絵師が加わっています。蒔絵技術を持つ職人は、琴平にはいなかったようです。

続いて金物師を見ておきましょう。
本宮では、素木造の社殿に対して銅金物が各所に多用されています。そこには丸に金の神紋や紋を打ち出しや、地金に葛紋を線刻した意匠で統一されています。板札には、それぞれのグループが担当した部位も詳細に記しています。
金刀比羅宮本社2
           金刀比羅宮本宮の金具

金刀比羅宮「御本宮再營諸職人」 金物師
            金刀比羅宮 御本宮再營諸職人 金物師

別宮棟札には、金具師は琴平の藤本茂吉だけしかみえませんでしたが、本宮では藤本茂助に加えて大阪の大西仙助が頭取として加わっています。そして、次のように2グループ合計32名の名前があります。
頭取 琴平の藤本茂助 その手附に、西京8、近江国2名、大阪4名、高松1名、当村2名の計17名
頭取 大坂の大西仙助 その手附に、大阪から11名、西京から4名の計15名
さらに鉄金物については琴平村の金物師田村榮吉1名、鋳物師は備中国阿曽の林友三郎1名で拝殿擬宝珠を製作しています。こうしてみると金具も京都や大阪の職人が中心となっていたことが分かります。 

2段目の一番最後に出てくるのが檜皮師です。

檜皮師
檜皮師の作業

金刀比羅宮「御本宮再營諸職人」 檜皮師
            金刀比羅宮 御本宮再營諸職人 檜皮師

別宮では、水野宗三郎の頭取1名の1班体制でした。それが本宮では次のように編成されています。
A 檜皮師頭取 摂津国兵庫 小泉 為七 手附は摂津国兵庫から1名、西京から6名の計7名
B 檜皮師頭取 琴平村   岡内小四郎 手附は伊豫国西条から1名、当国丸亀から4名、備前国岡山から2名の計7名
Aの京都職人とBの讃岐・備前・伊予連合の2班体制になっています。檜皮も他国職人に発注しなけらばならなかったようです。

最後の下段には、石工が並びます。
最初、本宮のどこに石が使われているのかと私は疑問に思いました。しかし、報告書には本宮の特色を次のように記します。
本宮本殿・中殿・拝殿は、四段坂の参道に軸線を揃えて旧本宮とほぼ同位置に再営されている。大規模な高床の拝殿の脇間背面通りから後方は、地盤を1、4m高くして、中殿と本殿が建つ神城とする。正面や両側面の壁には延石、地覆石、羽目石、葛石からなる化粧石が施され、擁壁の縁に沿って葛石を布基礎とする透塀を回し、透塀の場内に拳大の玉石を敷き詰める。拝殿・中殿・本殿が接続して後方に高まりながら複雑な屋根の構成をみせる総檜の素木造、総檜皮葺の複合社殿形式になる

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建物の下には大量の石材が使用されているようです。これを扱った石工集団を見ていくことにします。

「御本宮再營諸職人」 石工
2つの石工グループ
金刀比羅宮「御本宮再營諸職人」 石工 琴平在住
           手伝頭・香原政吉が率いる琴平の「引受」石工56名
①最初に来るのが丸亀の石工集団で、頭取の小野利助と小野藤吉が率いる総勢9名
②次に、地元琴平の佐々木儀三郎が頭取を務める備前・長門の12名
③その後に地元の手伝頭・香原政吉が率いる琴平の「引受」石工56名
 別宮や本宮で使用された石材はほぼ全てが花崗岩です。花崗岩は讃岐でも産出しますが、職人の出身地は大きな広がりを見せます。地元讃岐だけでは間に合わなかったのかもしれません。丸亀や備前・長門から運び込まれた石材を修正して設置したのが③の「琴平村の手伝頭・香原政吉が率いる「引受」石工56名」ということになるようです。
ここで疑問に思うのは、琴平にどうして石工が56名もいたかということです。
それは大工が沢山いたことと同じ要因が考えられます。次の表は境内に、いつごろ玉垣が整備されたを示すものです。
4 玉垣旭社前122
ここからは次のような情報が読み取れます。
①18世紀以前には石造の玉垣はほとんどなく、朱色の木造玉垣が主であった。
②石造物の玉垣が造られ始めるのは、1840年頃からである。
③1845年の金堂完成に併せて周辺整備が進められ玉垣・石段・敷石が急速に普及した。
④幕末から明治にかけて、玉垣など石造物で埋められ白く輝く境内に変身した
⑤同時に、石造物需要が高まり、石工が琴平に数多く定住するようになった。
このように明治初頭の琴平には、大工や石工などが数多くいたのです。彼らに仕事を与えるためにも新しい神道様式の本宮・別宮は求められていたのかもしれません。ある意味で、住民に仕事を確保する公共事業的な役割もあったのでしょう。
以上を整理しておきます。
①別宮・本宮造営については大工については、琴平在住の大工で対応ができた。
②しかし、金物師、檜皮師(ひわだし)、石工のなどの各職種については、地元の職人だけでは対応できずに、他国の職人に発注しているものもある。
③一方、琴平出身者がリーダーとなりながら他国者を入れた混合の班編制をして運用している職種もある。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
金刀比羅宮本宮地域建造物調査報告書 2024年 金刀比羅宮
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