まんのう町文化財協会の秋のフィールドワークで、重要文化財となっている金刀比羅宮の別宮・本宮・旭社を巡ってきました。今回は本宮についてお話しします。テキストは、帰りに手に入れた次の報告書です。
金刀比羅宮本宮地域建造物調査報告書 2024年 金刀比羅宮
本宮は四段坂の階段を登ってくると、その正面に姿を現します。
金刀比羅宮本社 拝殿正面図
拝殿前から振り返ると四段坂の最後の急勾配の石段が見えます。本宮は参道ゴールに鎮座していることを押さえておきます。お参り後に、移動してから拝殿の北側を見てみます。
金刀比羅宮 本宮拝殿北側

⑥の拝殿の正面向拝
金刀比羅宮 本宮拝殿内部
金刀比羅宮本宮 左から「本殿 + 中殿 + 拝殿」
ここからは施主である金刀比羅宮の指導者たちが、インド・中国的な異国の仏教的な要素を排して、「大神に釣り合う」復古調的な神道様式を望んでいたことがうかがえます。例えば、旧本宮は屋根は檜皮葺でしたが、袖部は極彩色や動物などの彫刻で飾られていたことが上の「天保三年御本社圖」からは分かります。これらを仏教風なものとして排除し、総檜の素木造として木肌の美しさで清静さを表現しようとします。

金刀比羅宮 本宮
屋根には新たに千木・堅魚木を置くなどして、神社建築の伝統的な要素が加えられます。そして本殿と中殿の連結の仕方に工夫を凝らし、各所に目隠しとし脇障子を多用するなど伝統にとらわれない新しい感性がみられます。

さらに阿波街道で結ばれていた阿波の美馬・三好郡には明治期神社の本殿に肘木のみ角形とするものが数多くあり、肘木・木鼻とも角形とする例も次のように報告されています。
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金刀比羅宮本宮地域建造物調査報告書 2024年 金刀比羅宮
左奧が別宮・手前が本宮です。明治の再営時には、観音堂と旧本宮(金大権現本社)は、それぞれ旭社への下り道と、御前四段坂の参道の前に線を揃え東面して並び建っていました。この配置を踏襲して、同位置に別宮、新本宮が造営されます。別宮が完成し、明治9年に仮遷宮が行われると旧本宮は取り壊され、その跡地に新本宮の造営工事が開始されます。そして、1年間の短期間で明治11年に正遷宮が行われます。
本宮・別宮ともに本・中・拝殿が連結された複合社モデルです。それぞれ左右に神殿と直所が渡殿や渡廊下で繋がるよく似た形式でが、本宮は建築面積にして別宮の二倍を超える大規模なものです。それにもかかわらず仮遷宮後、2年で正遷宮を迎えています。短期間で工事を終えることが出来た要因については、旧本宮の基本的な構成と配置を大きく違えることなく、地盤面の石材などを再利用し、大規模な基礎工事を避けたためと研究者は考えています。
本宮は四段坂の階段を登ってくると、その正面に姿を現します。
785段の石段のゴール・四段坂の正面にたつ金刀比羅宮本宮
金刀比羅宮本宮 拝殿正面
お参りしたのは11月末でしたが、正月の参拝客に備えて高い拝殿への階段には木の板が張られ、注連縄も新しくなっていました。正面から見るとシンプルに見えます。金刀比羅宮本社 拝殿正面図
拝殿前から振り返ると四段坂の最後の急勾配の石段が見えます。本宮は参道ゴールに鎮座していることを押さえておきます。お参り後に、移動してから拝殿の北側を見てみます。
金刀比羅宮 本宮拝殿北側
正面から見る印象と、横から見る印象が違います。屋根には千鳥破風と軒唐破風が乗っていて複雑です。この屋根を造ったの檜皮師たちは、下表のように摂津国兵庫の職人と、讃岐・備前連合の2つのグループだったことは、前回お話しました。
金刀比羅宮 御本宮再營諸職人 檜皮師
報告書40Pには、本宮拝殿について次のように記します。
金刀比羅宮 御本宮再營諸職人 檜皮師
①高2,3mの高床建築で桁行三間、三関の横長の平面。②円柱を礎石建てとし、切日長押、内法長押、頭、台輪を回し③組物は各間の中央にも配した三手先詰組で基本は角形、組物間には通射本を多用する。④軒は二軒角繁垂木とし小天井を備える。⑤屋根は入母屋造で、正背面には大棟と棟を揃えた大きな千鳥破風を備え、両側中央に軒唐破風を備える。⑥妻飾りは本屋・千鳥破風とも花狭間格子とする。正面向拝を設け、軒とする。
③④の拝殿組物

⑥の拝殿の正面向拝
金刀比羅宮 本宮拝殿内部
これを断面図で見ると次のようになります。

金刀比羅宮本宮の断面図

金刀比羅宮本宮の断面図
3つの建物がつながっていることが分かります。また、先ほど見たように拝殿は高床式で、縁の下に通路が2本あるのも確認できます。この縁の下の通路は何のために設けられたのでしょうか?


本宮拝殿正面の縁下通路
幕末の金毘羅参詣名所図会には、拝殿について次のように記します。金毘羅大権現その祭神は未詳であるが、三輸大明神、素蓋鳴尊、金山彦神と同心権化ともされる。拝殿
その下を通行できるようになっていて、参拝者はここを通って、拝殿を何回も廻って参拝する。拝殿右の石の玉垣からの眺望は絶景で、多度津、丸亀の沖、備前の児島まで見渡すことができる。
①桁行三間、梁間一間の縦長平面。②礎石建ての拝殿とは異なり土台建てだが、軒桁の高さは拝殿に揃える。③両側面は桁行に切目長押、内法長押、頭貫、台輪で固める。④第一間は拝殿脇間との境を開放し、第二間は双折戸を両外開に構え外に切目縁を備える。⑤第三間は腰板壁と格子窓とする。⑥組物は組の平三斗の上にさらに通肘木3段及び通実肘木を連斗を介して重ねた
①三間社入母屋造で、向拝は設けずに正側面の三方に緑を回す②正面中央間の軒下部分は両側面のみを閉ざして中殿から一連の内部空間とする。③身舎円柱に切目長押、内法長押、木鼻付き頭台輪を回す。④頭賞木鼻は形のない簡素な角形ながら入八双金物で飾る。⑤身組物は角形の財木を用いた三手先の話組で、丸に金の神紋を中備とする。⑥軒は二軒角繁垂木とし、正面中央間では組物は前面の天井桁を受け、軒を現さない。⑦屋根は入母屋造とし、大棟に千木・堅魚木を置き、正面には大棟と高さを揃えた大きな千鳥破風を飾る。⑧妻飾りは本屋・千鳥破風とも花狹間格子とし大きな鰆付きの猪目懸魚を飾る。
素木のままの天井板と桜樹木地蒔絵を描いた天井板とを交互に市松文様状に配っている。絵柄は拝殿では円形にデザインされた桜樹、中殿と本殿では1本から数本の桜の折枝とし、一枚ごとに変化を持たせている。
明治 8年1月22日 開始明治 9年4月15日 仮遷宮明治10年4月15日 本宮上棟祭明治11年4月15年 本遷宮
旧社殿の造り様は彩色や彫刻など仏教風が強く異国風(インド・中国的)であり、大神に釣り合っていなかった
ここからは施主である金刀比羅宮の指導者たちが、インド・中国的な異国の仏教的な要素を排して、「大神に釣り合う」復古調的な神道様式を望んでいたことがうかがえます。例えば、旧本宮は屋根は檜皮葺でしたが、袖部は極彩色や動物などの彫刻で飾られていたことが上の「天保三年御本社圖」からは分かります。これらを仏教風なものとして排除し、総檜の素木造として木肌の美しさで清静さを表現しようとします。

金刀比羅宮 本宮
屋根には新たに千木・堅魚木を置くなどして、神社建築の伝統的な要素が加えられます。そして本殿と中殿の連結の仕方に工夫を凝らし、各所に目隠しとし脇障子を多用するなど伝統にとらわれない新しい感性がみられます。

以前に見たように先行する別宮新宮では、頭買などの木鼻を角形として絵様形を排除する方向性が見えました。しかし、肘木下端には曲面を残し、向拝や木鼻や虹梁は旧来と変わらない彫物や絵様形が残されて華やかな細工になっています。これに対して、本宮工事では肘木も角形になっています。そして、彫刻的細部は向拝中備など最小限にとどめ装飾的細部を、さらに削ぎ落としています。
別宮も本宮も、大工棟梁は琴平高藪町の綾坦三であったことは前々回にお話ししました。
同じ棟梁が担当しながらも、2年しか経っていないのに、別宮と本宮で様式的な変化を造りだしています。これは別宮の完成後に脱神仏混淆様式の追求を、本宮ではさらに推し進めるようにとの要望が施主側の金刀比羅宮からあったからかもしれません。どちらにしても本宮には、前例のない新しい様式が取り入れられています。これは金毘羅大権現の造営を担ってきた地元大工集団にとっては挑戦にもなりました。このような宮大工の研究心が19世紀末から始まる善通寺の11師団の建築群工事や、旧制丸亀中学の学校建築などにも活かされていくことは以前にお話ししました。
同じ棟梁が担当しながらも、2年しか経っていないのに、別宮と本宮で様式的な変化を造りだしています。これは別宮の完成後に脱神仏混淆様式の追求を、本宮ではさらに推し進めるようにとの要望が施主側の金刀比羅宮からあったからかもしれません。どちらにしても本宮には、前例のない新しい様式が取り入れられています。これは金毘羅大権現の造営を担ってきた地元大工集団にとっては挑戦にもなりました。このような宮大工の研究心が19世紀末から始まる善通寺の11師団の建築群工事や、旧制丸亀中学の学校建築などにも活かされていくことは以前にお話ししました。
また、装飾的要素を全面的に否定したわけではありません。
絵様形と彫物に代わって、銅金物がその役割を担うようになります。本宮では錫金物が各所に多用されて華やかさを増し、さらに桜樹木地蒔絵が施されています。装飾のモチーフとして選ばれたのは、丸に金の神紋と葛紋・花狭間・桜樹です。そこには動物の姿は見えません。旧本宮や旭社(旧金堂)にみられた三つ巴紋も姿を消します。これに代わって金毘羅灯籠などに広く用いられてきた丸に金の神紋が各所に多数現れるようになります。
絵様形と彫物に代わって、銅金物がその役割を担うようになります。本宮では錫金物が各所に多用されて華やかさを増し、さらに桜樹木地蒔絵が施されています。装飾のモチーフとして選ばれたのは、丸に金の神紋と葛紋・花狭間・桜樹です。そこには動物の姿は見えません。旧本宮や旭社(旧金堂)にみられた三つ巴紋も姿を消します。これに代わって金毘羅灯籠などに広く用いられてきた丸に金の神紋が各所に多数現れるようになります。
こうして象頭山には、明治の新しい神社建築様式をもつ本宮と別宮が並んで登場します。
これは物見高い民衆の評判にもなり、参拝客はますます増えるという「集客力向上」にもつながります。また、金刀比羅宮の新しい本宮・別宮モデルは、人々には新鮮なものとして好印象で受け止められます。すると、香川県西部や徳島県西部では、角形射木など金刀比羅宮の影響を受けた様式が、この時期の神社建築に見られるようになります。
髙松の石清尾八幡宮の下拝殿(明治14(1881年)は金刀比羅宮本宮に酷似
例えば、旧高松城下町の氏神とされた石清尾八幡宮の下拝殿は、金刀比羅宮の本宮完成後の3年後(明治14年/1881)に出来上がっています。その姿を見ると角形の肘木・木昴、多角形手挟が使用され、花狹間格子の特徴的な妻飾も取り入れられていて、金刀比羅宮拝殿に酷似していると研究者は指摘します。
髙松の石清尾八幡宮の下拝殿(明治14(1881年)は金刀比羅宮本宮に酷似
例えば、旧高松城下町の氏神とされた石清尾八幡宮の下拝殿は、金刀比羅宮の本宮完成後の3年後(明治14年/1881)に出来上がっています。その姿を見ると角形の肘木・木昴、多角形手挟が使用され、花狹間格子の特徴的な妻飾も取り入れられていて、金刀比羅宮拝殿に酷似していると研究者は指摘します。
多度津町白方の熊手八幡神社本殿(明治23年/1890)
岩清尾八幡社絵馬堂(明治26年/1893)や多度津町白方の熊手八幡神社本殿(明治23年/1890)、拝殿(明治21年/1888)では、角形肘木を用いる一方で木鼻は彫物とするなど金刀比羅宮の様式を選択的に取り入れています。この様式は、多度津では戦前まで地域の神社建築様式として長く影響を与え続けたと研究者は報告しています。(1.「多度津伝統的建造物群保存対策調査報告書」令和2年3月多度町教育委員会)さらに阿波街道で結ばれていた阿波の美馬・三好郡には明治期神社の本殿に肘木のみ角形とするものが数多くあり、肘木・木鼻とも角形とする例も次のように報告されています。
①三好市井川の馬岡新田神社(明治16年)②つるぎ町半田の石堂神社本殿(明治24年)③美馬市美馬弁財天神社本殿(明治28年)④杉尾神社本殿(明治35年)
「郷土研究発表会紀要』第38号1992.3、第44号1998.3.「阿波学会紀第49号2003.3、第53号2007.7.55号2009.7.第57号2011.7)。
ここからは、かつては「四国の道は金毘羅に通じる」と言われたようですが、金毘羅は神社建築などでも文化情報の発信地であったことが見えてきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献は、巫女がお持ちの「金刀比羅宮本宮地域建造物調査報告書 2024年」です。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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