瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

まんのう町文化財協会の秋のフィールドワークで、金刀比羅宮の重要文化財の建物めぐりを行いました。別宮・本宮をめぐって、下りの石段を下りていきます。石段の途中から大きな建物が見えてきました。
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金刀比羅宮の旭社(旧金毘羅大権現の金堂)
逆光の中で建物が浮かび上がってくるように見えます。
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 金刀比羅宮 旭社 特徴は軒下の欅板に掘られた渦巻き文様
 ケヤキの大きな板一枚一枚に渦巻き文様が彫られています。この軒下の彫り物が、この金堂の特徴だそうです。組物も豪快です。

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金刀比羅宮 旭社の内部は空っぽです。太鼓がみえるだけです。

旭社は、神仏分離の前は何だったのでしょうか?

金毘羅参詣名所図会 旭社・二天門・観音堂
金毘羅参詣名所図会(1848年)  
金毘羅参詣名所図会は、金堂(旭社)について次のように記します。
金堂  観音坂の下、南の方にあり。境内中、第一の結構荘厳もっとも美麗なり。
本尊  薬師瑠璃光如来 知日証人師の御作
金毘羅参詣名所図会からは、次のような情報が読み取れます。
①観音堂の下の空間には巨大な「金堂」があった。
②金堂(旭社)の下には多宝塔があった。
③金堂は1845年に完成したばかりで、多宝塔横の参道は石段や玉垣が未整備で、燈籠もない。
④本尊が薬師如来像であった。

讃岐国名勝図会に描かれた金堂も見ておきましょう。

金堂・多宝塔・旭社・二天門 讃岐国名勝図会
讃岐国名勝図会の金毘羅大権現金堂(1853年)
金毘羅参詣名所図会の5年後に描かれた讃岐国名勝図会です。これを見ると金堂周辺整備が進み、石段や玉垣・燈籠なども石造物の整備が進んでいることが分かります。旭社は金毘羅大権現の金堂として、1845年に完成したことを押さえておきます。 

旭社正面 神社明細帳附図
金毘羅大権現金光院金堂(現旭社) 正面
金堂上梁式の誌には、次のように記します。
①文化十酉より天保八酉にいたるまて五々の星霜を重ね②弐万余の黄金(2万両)をあつめ
②今年羅久成して 卯月八日上棟の式美を尽くし善を尽くし其の聞こえ天下に普く男女雲の如し」。
ここからは次のような情報が読み取れます。
①1806年の発願から1845の完成まで約40年がかりの建築工事だったこと
②建設資金は約2万両で勧進講で集めたこと
ちなみに、式では投げ餅が一日に7500、投銭が15貫文使われています。そのにぎわいがうかがえます。建立当時は中には本尊を初めとする多くの仏像が並び、周りの柱や壁には漆が塗られその上に金箔が施されたといいます。

旭社 神社明細帳附図
            金毘羅大権現金光院金堂(現旭社) 側面
 それではこの金堂には、どんな仏さまが本地仏として安置されていたのでしょうか?
松尾寺の本尊は、十一面観音だったので観音堂が本堂でした。それに対して、金堂に安置されたのは、金光院の本地仏である薬師如来像でした。そのため薬師堂とも呼ばれています。どうして薬師如来だったのかというと、次のように考えられていたようです。

金毘羅大権現の本地仏は薬師如来

1十二神将12金毘羅ou  
薬師十二神将

「金毘羅大権現の本地仏=薬師如来説」に対して、次のような熊野行者勧進説もあります。
山林寺院の中には熊野行者によって開かれた寺院が多く、熊野神宮の本地仏のひとつが薬師如来でした。そのため薬師如来を本尊とするところが多いとされます。後に薬師堂となる本地堂に薬師如来が安置されていたのは松尾寺の熊野行者や熊野信仰との結びつきを示すものと考える研究者もいます。このあたりは、今の私にはよく分かりません。

1 善通寺本尊2
善通寺東院金堂の本尊 薬師如来坐像
ちなみに象頭山周辺で薬師如来を金堂の本尊とするが善通寺東院です。東院金堂には、江戸時代になって勧進活動で得た資金で京都の仏師に発注した薬師さまがいらっしゃることは以前にお話ししました。金光院は善通寺をライバル視していて仲が悪かったので、善通寺金堂を意識していたはずです。「善通寺さんよりもよりも大きく高いものを!」と。しかし、どんな薬師さまが安置されていて、それが廃仏毀釈によって、どこに売却されたかは今の私には分かりません。

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金刀比羅宮 旭社(旧金堂)

 明治の廃仏毀釈で金堂はどうなったのでしょうか? 金刀比羅宮が県に提出した「金刀比羅宮神仏分離調書」を見てみましょう。

[境内仏堂]
 仏堂に於ては素より仏式の作法なりしが、神仏分離に当り、仏堂は全部廃され、其建物は概ね境内神社の社殿に充当せらるヽと共に、仏式作法廃滅せり。
     (『中四国神仏分離史料』第九巻四国・中国編)
意訳すると
 仏堂は、もとから仏式作法であったが、神仏分離に当り、仏堂は全部廃された。その建物は、境内神社の社殿に充当した。共に、仏式作法は廃滅した。

ここには境内仏堂の廃止と、その跡建物を利用した神社の整備・変更などを行なったことが報告されています。
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旭社の柱に掘られた江戸の寄進者の名前

金堂も旭社と名前を変え、祭神は天御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神、伊邪那岐神、伊邪那美神、天照大御神、天津神、国津神、八百万神 などを祀るようになります。しかし、今は空っぽに見えます。

旭社平面図 神社明細帳附図
旭社平面図
旭社(旧金堂)は、神仏分離後には神道の「教導説教場」として使用されるようになります。

旭社内部 天井 神道
現在の旭社内部の「素木の講壇」
明治の金刀比羅宮は、讃岐における神道の指導センターの役割を果たすようになります。そのため神道の教えを教導するための教習場となり、県下から神官が集まってきました。その時の講習会場として、この建物は使われるようになります。その際に、仏式に荘厳されていた天井や壁などから金箔がそぎ落され、素木とされたようです。記録には「明治6年6月19日 素木の講檀が竣成」とあります。
 しかし、神官による説法は僧侶に比べると面白くなく、教導効果を上げることが出来なかったようです。そのため明治15年(1882)には説教指導は取りやめられます。その時に講演に使われていた講檀も撤去されます。そして、明治29年(1896)1月に、社檀を取り除いて殿内に霊殿を新築し、現在に至っているようです。

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           旭社の扁額
この建物が完成したのが1845年のことで、180年前のことになります。近年南側の欅の軒下の松材が白蟻の被害を大きく受けていることが分かりました。そのため大改修が来年から始まるようです。金刀比羅宮のHPには次のような「旭社 令和の大改修プロジェクト御奉賛のお願い」が載せられています。
今般、二階の屋根材木に白蟻被害が確認され、一部の柱に圧壊も認められたことから、半解体による大規模な修理工事が必要となりました。
調査の結果、修理には、工事用道路、覆屋の建設、解体、修理、復元とさまざまな工程を18年に亘り進める必要があり、約50億円の経費が必要であることが分かりました。旭社は国の重要文化財に指定されておりますので、修理費の一部は国や地元自治体からの補助をいただく予定ですが、事業規模がこれまでになく大きく、「令和の大改修プロジェクト」として、旭社の建築時と同様、多くの方々から御奉賛をいただきながら、事業を確実に進めていきたいと考えております。
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           金刀比羅宮旭社 南面部 この軒下部が白蟻被害部分
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                      その拡大
渦巻きの掘られた檜板は被害を受けていませんが、その内部の松材が被害甚大だそうです。
完成から200年後の2045年頃まで改修工事が続くことになるようです。私が生きているうちには、改宗後の姿は見られないようです。大切なものを未来に残していく作業が、ここでも始まろうとしています。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
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