ここは①熊野のお札を配っていたころの拠点だった伝えられる。この社の近くに②大熊氏の城があった。大熊氏も(熊野別当の)湛増の子孫であることはすでに述べたとおりである。この大熊備後守清助、どうしたことか男子に恵まれなかった。嗣子がないとは残念なりと、紀州熊野に祈願をこめた。「何卒、男子を授け給え」と祈念した。その霊験あらたかに男子を授かった③清助は、神恩報謝のためと熊野の分霊をお受けし、元山郷の氏神として奉祀した。境内には百間馬場があったと言う。また、近くには二王田というところがあるが、かっての仁王門の跡だと言い、熊野神社の西のあたりには社僧も住んでいた。備後守清助の一子が善兵衛。これが熊野権現の申し子で、体躯偉大にして武芸に秀でたと「木田郡誌」にある。とにかく、尋常な人ではなかったと伝えられている。大熊亀田池戸を領した大熊氏は、十河氏の麾下として鳴らした。琴電長尾線の元山駅あたりにかっての大熊はあったと言う。熊野のお札を配っていたとか、そのお陰をいただいたという小社は意外に多い。神仏分離のとき、名称は変更されながら「権現堂」などの地名は今に残されている。元山権現からさらに東植田よりに権現堂というバス停がある。新道がついてむかしの権現堂からは離れているものの、地名はそのままである。
農作物の虫封じの神である吉田神社の社殿が大きく、熊野大権現のお堂は小さくなってしまった。地元の人たちは、「片間貸して本間とられた権現さん」と言っている。後からやってきた吉田さんに片間を貸したところ、だんだん大きくなり、今では吉田神社の方を信仰する人が多くなったのである。鳥居や玉などはかっての大庄屋が寄進している。旧街道沿いの権現堂は、道路拡張によりだんだん敷地が狭くなってしまった。なお、近くには東林山光清寺があり、四つ辻には疣(いぼ)を取ってくれるという薬師堂がある。薬師堂のわき水をくんで岩を洗い、疣を洗うと落ちると言い、むかしから多くの人が参詣した。これらは比較的人々の往来が盛んな街道に位置するが、香地池を越え東植田町に入りこむと人通りはまばらになる。わずかに阿波越えをした旅人たちが通ったであろう山道が細々と続いている。(香川県史14巻464P)
この南には十河氏が拠点とした十河城跡があり、そのテリトリー内になります。十河氏は阿波三好氏の一存が養子として入り、東讃へ支配浸透の拠点となった所です。戦国時代末期には、軍事的な緊張関係のまっただ中にありました。
熊野神社をつなぐ街道沿いには、修験者の痕跡が残っています。それを県史14巻465Pは次のように記します。
熊野神社をつなぐ街道沿いには、修験者の痕跡が残っています。それを県史14巻465Pは次のように記します。
その十字路のほとりにヒジリ(聖)ゴという塚があった。ヒジリの墓というだけで一人の墓なのか、幾人もの人を葬ったものかさだかではない。ここも道路改修のため塚は別の地点へ移転した。石を三つばかり重ねたと、手洗石めいたものが仙尾の墓場に移されている。ヒジリゴのそばには、妙見屋敷というたんぼが残されているが、この地へ妙見さんを祀るはずであったという。だから、この地を不浄にすると障りがあると、聖なる地として取り扱っている。
この聖郷の前を行くととんぼ越えとなる。この坂道は多くの①験者(ゲンジャ)が通った道でもあった。②ゲンジャというのは少々風体の違った山伏も拝み屋も、山で修業する人たちも言い表わしたようである。カマド祓いや牛屋はらいなどの風体の異なる人も含まれていた。③石鎚参りの集団も多く通行した道で、④お山(修行)をして帰る行者があると、子供たちはその前へ横たわってまたいでもらった。夏痛みせず元気になるというので、子供たちはこぞって三尺道へ横になっていた。このように験者が越える道には、目のぎょろりとした恐ろしいトンボがいたとも言う。眼光光々とした験者を指したものか、恐ろしい山伏くずれの者が通行人を脅かしていたものか。里人たちにとっては恐怖の道であった。平家の残党が人々を襲っていたのを奥美濃の旧家の力持ちが退治したという話もある。とんぼ越えの恐ろしいものを退治した刀を蜻蛉切りの名刀とした。とんぼ越えは現在も町境となっている。
城池には、かって植田美濃守がよった戸田城があった。岡の城とも呼ばれている。城の内堀のような形で残されたのが①山伏池である。そのほとりに②山伏の塚がひっそりと祀られ、植田美濃守の子孫たち数名が現在もお祀りしている。③山伏の御神体を近くで拝んでみると、まるで生首のように目があり鼻がある。鼻が張ったふしぎな石の御神体である。(県史14巻466P)
岡の城跡の後方には、④戸田城の守護神宝権現が祀られてある。戦勝を祈願した社で、祭神は伊弉諾命、速玉男命、事解男命、菅沢町の熊野三所権現の分霊を受けたものである。正式名称は宝神社であるが、地元では昔のままに権現さんと呼んでいる。祭りの日のも宝大権現と染めぬかれてある。秋の大祭は特別な行事はないが、毎年の大晦日にお火焚き祭りが行われている。
ここからは次のような情報が読み取れます。
①植田氏の戸田城(岡の城)は、残った堀が山伏池と呼ばれていること。
②その池の畔に山伏の塚があり、植田氏の子孫がまつられていること。
③同時に山伏が御神体としてまつられていること。
ここからは植田氏の一族の中にも、入道と呼ばれ熊野信者や天狗信者として活躍していた人物がいたことがうかがえます。
④戸田城の宝権現(神社)は、菅沢町の熊野三所権現の分霊で、もともとは植田氏が勧進した熊野権現であったこと
この地域の中世武士団が熊野信者となって、居館や城の近くに熊野神社を勧進していたことが見えて来ます。同時に、熊野行者などの修験者の痕跡が濃厚にうかがえます。
④の菅沢の熊野神社について香川県史14巻470Pには次のように記します。
菅沢氏の勧進した熊野神社(髙松市菅沢町)
東植田と菅沢は、高松市に合併するまでは同じ町に属していた。菅沢町の産土神として宮谷に熊野神社が祀られてある。熊野神社は、菅沢甚兵衛という人が600年も昔に紀州熊野からお迎えして祀りはじめたものと言う。その時に一緒に持って帰った赤樫の木が境内で大木に育っている。この菅沢氏の先祖は、十河存久の次男存常が別家して、菅沢へ住むようになったのが初めと言う。 二六代目の菅沢官兵衛義長は、仙石秀久の配下に属し、生駒家に仕えて360石を賜わる。さらに、二七代の菅沢甚兵衛義は、生駒家の弓師範として家禄をつぐ。寛永十五年には高俊公より100石を加増されたとある。この甚兵衛が、紀州から熊野神社の分霊を受けてきたことになる。熊野の分霊をお受けして帰ったという由緒により、現在も菅沢熊野氏をカンヌシと呼んで秋の祭礼を行う。ミタマウツシのとき、チョウノザに座るのはカンヌシと呼ばれる熊野氏、そして神職、宮代と並んで神事を行う。祭神は、伊弉諾尊、速玉男命、事解男命で熊野権現と呼ぶ。社宝には菅沢義が生駒高俊公から拝領したとという馬具があった。
むかし、松平の殿さんが馬に乗ったまま熊野神社の前を通ると、馬が暴れ困ったと言う。この熊野神社の由来は、源頼光の子孫が祀り始めたものとも言う。頼光の子孫は、松原氏とも赤松氏とも伝えられている。不動の滝にある蔵王権現を祀りはじめたのは平宗盛なのだ、とも伝わっている。平家の落人だった平宗盛自身が祀られたところだとも言い、蔵王権現が好んだという桜の古木も共に残されている。蔵王権現は熊野神社となり、現在も丁寧な祭礼が行なわれている。熊野のひじりたちが行き交ったであろう古道には、屋島おさめた源氏の話、敗北を喫した平家の伝説が草の実のようにこぼれ落ちている。
ここからは次のような情報が読み取れます。
①塩江の熊野神社の建立者は源頼光の子孫である松原氏や赤松氏とされる。
②熊野神社はもともとは蔵王権現であり、蔵王権現信仰から熊野信仰に取り替えられた気配がある。
こうしてみると、髙松平野から塩江にかけては熊野行者たちの活発な動きが見えて来ます。
前回とまとめて整理し、推察しておきます
①髙松平野への熊野信仰の浸透は、東讃の水主神社や屋島寺の熊野行者たちによって進められた。
②熊野行者たちは髙松平野の武士団に熊野詣でを進め、彼らを熊野に誘引した。
③熊野参拝で熊野信仰を高めた武士たちは、熊野三社を氏神として勧進する者が現れた。
④植田町や塩江周辺部には、多くの熊野権現が武士・熊野行者たちによって勧進された。
⑤その周辺には、熊野行者や修験者・聖たちが住み着き、修行やお札配布・芸能活動も行った。
⑥修験者たちは武装化し、僧兵的な役割を担って居館や山城周辺に住み着いていたことも考えられる。
⑦このような修験者集団を配下に置いた水主神社や屋島寺は、宗教的にだけでなく、政治・軍事的にも大きな力を持つことになった。
以上です。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「髙松市東植田地区 古道」香川県史14巻450P
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