古墳時代の三野湾には、首長墓と言われる前方後円墳がひとつも登場しません。その理由の一つが早い段階で、畿内豪族の直接的な支配下に置かれたためでないかと考えられています。そして、中央の勢力によってハイテクの宗吉瓦窯に先行する三野古窯群などの「殖産興業」が行われていきます。このような古代三野湾の開発を担った勢力は、何者なのでしょうか?

『 先代旧事本紀』の「天神本紀」には、三野物部のことが記されています。
それによると、三豊湾から庄内半島にかけてを三野物部が本拠地としていたことがうかがえます。三野物部は、「天神本紀」に筑紫聞物部、播磨物部、肩野物部などと一緒に記されています。ここからは、中央の物部氏が瀬戸内海の港津を拠点として掌握していたことがうかがえます。もっと具体的に言うと、朝鮮半島や九州の海上ルート維持のために三野湾に物部氏の拠点が置かれていたことになります。そして、三野物部が庄内半島や三野湾を拠点に、交易・軍事・政治的活動を行ったとも言い換えられます。この説によると、三野物部によって三野古窯群も、朝鮮からの渡来技術者を入植させることで「殖産興業」化されたことになります。また、首長墓とされる前方後円墳が三野湾に登場しないのも、物部氏の支配下にあったからだと説明が出来ます。
 物部氏は用明天皇2年(587)に、蘇我馬子・厩戸皇子と争いに敗れ滅びます。
その後の三野湾の周辺の支配権はどうなったのでしょうか? 敗者である物部氏の所領は、勝者である蘇我氏が接収したようです。しかし、蘇我氏も、皇極天皇4年(645)の乙巳の変(大化の改新)のクーデターによって、蘇我蝦夷・入鹿が倒され滅亡します。後に成立した養老律では、謀反人などの財物は、親族、資財、田宅を国家が没収すると規定 されています。そして没収財産は、内蔵寮、穀倉院など天皇家の家産機構にくりこまれることになっています。蘇我本宗家の滅亡の場合も、 同じような扱いになったのではないかと研究者は考えているようです。ここまでの三野湾一帯の所領変遷を、整理すると次のようになります。

古代三野湾の物部氏から支配権推移は?

7世紀末に三野湾には、物部三野が残した大規模な三野窯跡群が残り、その周辺にヤマト政権の所領があったことが想定できます。
 三野湾以外にも、中央の有力豪族は瀬戸内海ルート確保のために、潮待ち風待ちの拠点として、配下の部民を各地に置いていたようです。その部民たちの痕跡が、鵜足郡や那珂郡にも見えますので追いかけて見たいと思います。テキストは「新編丸亀市史 鵜足・那珂郡の古代氏族 311P」です。

丸亀市史は、鵜足・那珂郡の古代豪族たちを次のように一覧化しています。

鵜足・那珂郡の部民一覧

   鵜足郡には大伴部、吉士(きし:吉志:吉師)・宗我部らの名前があります。彼らは大伴氏、蘇我氏、吉士氏らの畿内豪族が支配所有した部民で、部曲とよばれた民の子孫と研究者は考えています。

部民の由来

ヤマト政権の豪族たちは、その地位を示す姓をあたえられて、それぞれの職務に世襲的に従事していました。その職務遂行のために支配下に組み込んだのが部曲です。彼らは必要な労力や物品を負担・提供しました。それが時が経つにつれて「擬似的血縁関係」で結ばれていきます。
部民と伴部
伴部と部民の概念図

 大伴氏は、物部氏とともに大和政権の軍事力をになう大豪族で、5世紀後半にヤマト政権の支配勢力が全国に拡大するようになると、大伴部を各地に設置しています。雄略天皇が亡くなる時に、大伴室屋大連と東漢直菊は、「大連等、民部(部曲)広く大きにして国に充ち満ち」と云っています。その力で、皇太子清寧天皇を補佐してくれるよう頼まれたとされます。こうしてみるt、鵜足郡に大伴部が置かれたのも、5世紀後半ということになります。

大伴部は、鵜足郡のほかに多度郡にもいました。
多度郡の大伴部は、空海の実家である善通寺の佐伯直氏とつながりがあるようです。
佐伯氏の出自については、次のような3つの説があります。

佐伯直氏について

佐伯部は、大王の宮の警護にあたった軍事的部民で、大伴氏の管理下に置かれていました。佐伯連は中央豪族なので、讃岐の佐伯氏とはもともとは血縁関係はありません。上の表の佐伯直(あたい)説を多くの研究者は支持しているようです。佐伯氏自身も「佐伯(さえき=さえぐ=進軍を阻止する)」で、もともとは渡来系の軍事集団として多度郡に定着したことが考えられます。それが中央の佐伯連の編成下に置かれ、同属意識をもち佐伯氏を名のるようになります。また中央の佐伯連は大伴氏配下にあったので、次第に佐伯直氏も大伴氏の一族と「疑似血縁意識」が形成されていきます。9世紀に佐伯直氏が佐伯への改姓を朝廷に申請したときも、その世話をしているのは大伴氏であることは以前にお話ししました。
以上を整理しておくと 
①古墳時代の多度郡の首長は、佐伯直氏の祖先だった。
②空海自身が述べているように、佐伯直氏は中央の大伴氏と同属意識で結ばれていた。
③そこで、佐伯氏の支配していた民を割り取って大伴部とした
④鶏足郡の大伴首は、その地方における管轄者、下級伴造である。
⑤彼らの任務は、中央の大伴主家の命に従って、上京して朝廷の警備にあたり
⑥大伴軍団の一員として朝鮮半島にも従軍した
   先ほど見たように、物部氏が三野湾に三野物部が置いたのは、南瀬戸内海航路の拠点確保のためでした。そうだとすると大伴氏が多度郡や鵜足郡に大伴部を置いたのも同じ目的であったことが考えられます。当時の多度郡の湊は、弘田川河口の白方津であったことは以前にお話ししました。

白方 古墳分布
       多度津町奧白方の古墳分布図と白方湾 弘田河口は大きく湾入していた
多度郡の大友部は、その白方湾を拠点としていたと私は考えています。善通寺の佐伯直氏は、白方湾を外港として、自らも瀬戸内海で活動していました。佐伯直氏の経済基盤は大伴氏から受け継いだ外港白方を通じての交易活動に負うことが強かったと推察できます。
 また、鵜足郡の拠点は、大束川の当時の河口である川津や津之郷(鵜足郡の津)が考えられます。

古代の坂出市福江と宇多津・川津
古代大束川河口復元図
 吉士氏も新羅系渡来人系の豪族のようです。紀記には、吉士氏の一族が次のように登場します。
①良馬をもたらした「阿知吉士」
②論語十巻・千字文一巻をもたらした「和迩(わに)吉士」
その他の活動をまとめると
A 新羅や百済、唐との外交交渉に活躍し、半島派遣軍の将としても活動
B 屯倉の税の徴税・管理責任者
ここからは吉士氏も海上交通に携わる典型的な渡来系の「海の民」であったことがうかがえます。
吉士は「吉師、企師、吉」などとも表記されます。新羅では「吉士、吉次、吉之」などと記します。彼らは、ヤマト政権の役人となって、外国使節の接待、通訳など主に外交に携わったり、白村江の戦いには、倭国軍の道案内をつとめています。記紀には「難波吉志」が数多く登場します。ここからは大阪を本拠とし、磐井の乱、朝鮮半島の動乱などの緊張などに関与して、頭角を現したことがうかがえます。

大阪府 (吹田市) 吉志部神社 | みぞかつのぶらり散歩

吹田市には「吉志部神社」があります。ここも朝鮮からの渡来人「吉志」一族の氏神です。
吉士氏は外交使節や軍事部隊を乗せて朝鮮半島に向かい、また当時のヤマト政権の最大の戦略物資である鉄製品や鉄原料などを積み込んで瀬戸内海を上下しています。そうだとすれば鵜足郡の海岸線のどこかにその拠点を持っていたことが考えれます。想像を膨らませると、沙弥島の千人塚が思い浮かびます。その埋葬主が、鵜足吉士部の始祖と私は想像しています。どちらにしても対馬海峡を自由に行き来できる「海の民」たちが島嶼部や河口部に住み着いて、交易活動や製塩を開始します。その一族が鵜足郡を拠点とする吉士氏一族のようです。

さらに紀氏(きし)と吉士(きし)は、同祖同族関係で、両者共に新羅系の氏族と伝えます。
観音寺市大野原には、6世紀後半の巨石墳群がならびますが、その東に「紀伊(きい)」という地名が残ります。ここはもともとは紀氏の拠点地とされ、大野原古墳群も紀氏に関わるものではないかという説もありますます。この紀氏は、紀伊(和歌山)を本拠にして瀬戸内海を舞台に活躍した「海の民」です。
 『伊予国風土記』逸文には、愛媛県野間郡の熊野の地名の由来として、かつてここで「熊野」という船を造ったからだと伝えられています。この熊野は紀氏の本拠地である紀伊熊野に由来するもので、紀氏の活動痕跡と考えられます。そういう視点で、今治から西條・四国中央市、そして讃岐の観音寺市から仁尾までの燧灘沿岸を見てみると、そこには色濃く紀氏=吉士の痕跡があることに気がつきます。それが中世の熊野水軍の活動につながり、熊野行者の活動 → 石鎚山開山・石手寺創建などの動きになっていくと私は考えています。
 渡来系氏族である紀氏と越智氏が密接な関係をもつようになったは、どうしてでしょうか?
  その背景には推古朝の朝鮮半島をめぐる厳しい対外的緊張があったと研究者は考えています。この時期に紀氏と深いかかわりをもつ吉士が朝鮮半島問題で活発な活躍を展開しています。彼らの活動を支えたのが瀬戸内海・対馬海峡の海上航路を握る紀氏であったというのです。海の民である紀氏(吉士)が伊予国で伝統的な水軍兵力を持っていたとされる越智氏と結びつくことは自然だったのかもしれません。ここでは「吉士=紀氏」と在地系の越知氏が結びついていくことを押さえておきます。これが中世の芸予の海賊衆につながっていくのかもしれません。
 蘇我氏は、6世紀になってヤマト政権で台頭してきた新興豪族で、渡来系諸豪族の代表者的な性格がします。
葛城氏や物部氏の没落後は、内政・外交に絶大な権力をふるうようになります。そして、葛城氏や物部氏のように、阿波、讃岐、土佐、播磨、備前、備中・周防・筑前など瀬戸内海沿岸諸国に多く設置していきます。 讃岐の蘇我部は、鵜足郡と山田部に置かれています。

屋嶋城と備讃瀬戸

両郡は、後に屋島城や城山が築かれます。当時の支配者たちが鵜足郡や山田郡を戦略的な要衝と考えていたことがうかがえます。讃岐の蘇我部も、蘇我氏の瀬戸内海海上ルート確保のために置かれたとしておきます。ちなみに蘇我氏に水軍や海上輸送の便を提供して成長するのが先ほど述べた紀伊氏とされます。大野原に突然のように大きな巨石墳が登場するのも、燧灘の東の拠点として紀伊氏が打ち込んだ楔と考える研究者もいます。その背後には蘇我氏がいたことになります。

 建部は、『日本書紀』によると、日本武尊の名代とされています。
しかし日本武尊を実在の人物とはできません。「建部=楯部」とすると、やはり軍事的部民として、各地に置かれた集団と考えるのが妥当な線です。空海の実家で佐伯直氏も「佐伯=さえぐ=防ぐ」で軍事的な部民出身とされることは先ほど見た通りです。
   こうしてみると、6世紀ころの鵜足・多度郡には、軍事的部、あるいは朝鮮半島にかかわりをもっている海の民出身の部が集中していたことになります。これは綾(東)氏などにも共通する点です。最近のDNA分析からは、古墳時代にそれまで日本列島に在住していた人口を超える人達が大陸から渡来してきたことを明らかにしています。稲作・鉄器・陶器などの先端技術を持ち込んだ「海の民」たちは、ヤマト政権の豪族として、讃岐の沿岸部を拠点として定着し、その後、弘田川や大束川を遡って、内陸にさらなる拠点地を築いて、勢力を拡大していきます。

古代の綾氏

多度津の佐伯直氏や阿野・鵜足郡の綾氏以外にも、そのような動きを見せていた海の民たちがいたようです。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献