空海の誕生場面を弘法大師行状絵詞では、次のように記します。(意訳)
「讃岐国屏風ヶ浦の大師の生家。佐伯直氏の屋敷。多度郡郡司らしい地方豪族の館。広い庭には犬が飼われています。けたたましい鳴き声で鳴き立てる犬の声に「何事ぞ 朝早くからの客人か」といぶかる姿板戸を開けて外をうかがうのが大師の父田公のようです。その奥に夫婦の寝室が見えます。枕をして寝入るのが大師の母(右上)」
これが後世の画家達がイメージした多度郡司佐伯直氏の家です。しかし、戸籍に残された郡司の家は、これとは、まったくちがう様相をしていたことを教えてくれます。最近まで「日本で一番古い」とされてきた「 筑前国嶋郡川邊里戸籍」から、佐伯直家を今回は見ていくことにします。
「筑前国嶋郡川邊里」の戸籍の一部です。 縦27cm、横64.5cmの和紙に、縦書きで28家族438人分の情報が一人一行ずつで記されています。
どうして白鳳時代の戸籍原本が、今に伝えられたのでしょうか。
大宝律令(701年)によって、全国に律令の周知徹底が進みます。そんな中で翌年の大宝2年(702年)に、この戸籍は作られています。当時の戸籍は三通作成され、一つは地元(国)に保管、残り二つは中央に送られるように命じられます。そこで郡衙では、50の戸(=家)が集まった郷(ごう)ごとに一巻の戸籍がつくりました。それが国府に集められて、国府印を隙間がないほどベタベタ押して、中央政府に送られたのです。これも農民達が背負って都まで運んだのでしょう。
全国から集まった戸籍の数は、一万巻にもなりました。戸籍は6年毎に作られたので、政府の倉庫はいっぱいになります。そこで保管期限を30年として、期限を過ぎると反故(ホゴ)として、東大寺などに払い下げました。紙は貴重なものでしたから、寺や写経所では巻物になっていた戸籍を、手頃な大きさに切ってメモ用紙にしました。そのため残っている戸籍の裏には、当時のメモや写経が書かれているものがありますし、大きさもバラバラです。戸籍として、つなぎ合わせてみると途中が無い部分もあるようです。以上をまとめておくと、反故にされた戸籍は、寸断されメモ用紙として使われ、その一部が正倉院に残ったことになります。正式名称は「重要文化財 表 筑前国嶋郡川辺里大宝二年戸籍断簡、紙背(裏)千部法華経校帳断簡」です。
全国から集まった戸籍の数は、一万巻にもなりました。戸籍は6年毎に作られたので、政府の倉庫はいっぱいになります。そこで保管期限を30年として、期限を過ぎると反故(ホゴ)として、東大寺などに払い下げました。紙は貴重なものでしたから、寺や写経所では巻物になっていた戸籍を、手頃な大きさに切ってメモ用紙にしました。そのため残っている戸籍の裏には、当時のメモや写経が書かれているものがありますし、大きさもバラバラです。戸籍として、つなぎ合わせてみると途中が無い部分もあるようです。以上をまとめておくと、反故にされた戸籍は、寸断されメモ用紙として使われ、その一部が正倉院に残ったことになります。正式名称は「重要文化財 表 筑前国嶋郡川辺里大宝二年戸籍断簡、紙背(裏)千部法華経校帳断簡」です。
それでは、この戸籍はいつ作られたものなのでしょうか。
大宝律令(701年)が出されて、国郡里(郷)の行政区分が定められます(国郡里制)。その翌年に、この戸籍は作られています。実際に戸籍が作られ、一人ひとりを古代国家が掌握し、土地支給を行う「個別人身支配体制」が始まっていたことが、この戸籍からは裏付けられます。それでは戸籍を見ていくことにします。まず概要を挙げておきます。
①記載方法1行1名で、戸口(個人)の配列は血縁順②戸の終わりには与えられた区分田総数が記される③文字のある部分と紙の継目の裏には「筑前国印」を捺している。④文字は六朝風で整然と書かれている。⑤筑前国嶋郡川辺里は、今の福岡県糸島郡志摩町馬場あたりで、嶋郡の郡衙所在地⑥裏は天平20年(748)の『千部法華経校帳』の断簡になっている⑦戸籍の保存期間が過ぎて、写経所に払い下げられ裏面利用されたもの
川邊里(郷)の中で、最も人数の多い戸(大家族)の「肥君猪手(ひのきみのいで)」を戸主とする家族です。
まず右から1行目
A「①戸主 追正八位上勲十等②肥君猪手 年伍拾参歳 ③正丁大領 ④課戸」
① 戸主は「正八位上勲十等」位を持つ肥君猪手で、年齢は53
② 大領(郡司)の肥国猪手は、熊本(肥国)の「火の君」の流れを汲む嶋郡で最有力の豪族です。多度郡の空海の実家である佐伯直氏と同格クラスでしょう。大領職にあるので、その職田として6町(6㌶)が別に支給されています。
③の「正丁」は21歳以上60歳以下の男子
⑤口分田は全体で13町6反120歩(約14ヘクタール)
2行目B「庶母 宅蘇吉志須弥豆賣(やかそのきし すみずめ) 年陸(六)拾伍(65)歳 老女」
「庶母」とは実の母ではなく義母のこと。とすると妻の母か、父の後添え?
C 3行目は「妻 哿多奈賣(かたなめ) 年伍拾貳(52)歳 丁妻」
52歳の正妻。姓がないので、2行目の庶母と同姓の宅蘇吉志(やかそのきし)
D 4行目。「妾 宅蘇吉志橘賣(たちばなめ) 年肆拾?(47)歳 丁妾」
妾47歳も同じ姓の宅蘇吉志
E 5行目「妾 黒賣(くろめ) 年42歳」で二人目の妾。
F 6行目「妾 刀自賣(とじめ) 年35歳」三人目の妾。
黒賣も刀自賣も姓がないので、これも宅蘇吉志?
黒賣も刀自賣も姓がないので、これも宅蘇吉志?
以上を整理しておくと、
庶母 宅蘇吉志の須弥豆賣 65歳妻〃 哿多奈賣 52歳妾橘賣 47歳妾〃 黒賣 42歳妾〃 刀自賣 35歳妾
姓がみな宅蘇吉志となります。これをどう考えればいいのでしょうか?
吉士氏は渡来人系であることを前回お話ししました。紀記には、吉士氏の一族が次のように登場します。
①良馬をもたらした「阿知吉士」②論語十巻・千字文一巻をもたらした「和迩(わに)吉士」
その他の活動もまとめると、新羅や百済、唐との外交交渉に活躍し、半島派遣軍の将や、屯倉の税の徴税・管理責任者として活躍する海の民だったようで、各地に吉志部が置かれていました。
以上の読み取った情報からは、次のような事が推察できます。
①5人の女性がいずれも宅蘇吉志(やかそのきし)の出身であること②彼女らの年齢構成から考えると姉妹であったこと③ケース1 庶母と正妻が姉妹であり、妾3人は別の姉妹。姓が一緒なのは親戚筋か。④ケース2 年齢的には庶母と正妻が親子とは考えにくいので、正妻と妾3人が4姉妹。⑤ケース3 戸主の肥君猪手は53歳。庶母が産んだとは考えにくいので、庶母の須弥豆賣は父の妾であった可能性。⑥少なくとも、肥君家は親子2代に渡って宅蘇吉志家と婚姻関係にあったこと
ここからは、古代の女性たちが嫁いでも旧制を名のり続けていたことが分かります。結婚で姓が変わるというのは、後世になってからのようです。また、姉妹を妾にするというのは、日本書紀の天皇家にはよく見られます。天武天皇は兄天智天皇の娘4人を妻にしています。聖徳太子のあの入り組んだ複雑な姻戚関係も事実であったことに納得がいきます。古代では、このような婚姻関係は中央でも、地方でも一般的であったことがうかがえます。さらに⑥からは、肥君家と宅蘇吉志家が婚姻を通じて、強く結びついていたことがうかがえます。
肥君猪手の戸籍は、第7行目から彼の「子」「子の妻」「孫」へ、それから戸主の「弟」「妹」へ、男から女へと記述されます。
第7行は長男の「肥君興呂志(よろし) 29歳 嫡子」とあり、正妻との間の長男。
第8行目には「勲十等 肥君泥麻呂(ひじまろ) 27歳 妾橘賣男」とあります。泥麻呂には18歳の妻との間に男女2人の子供があります。
ここで注目したいのは、妾の子・泥麻呂が勲十等の位階をもち、嫡子である興呂志が無位であることです。どうしてなのでしょうか? 何かの論功行賞・売官・国家への寄付などが考えられますが、このあたりは私には分かりません。ただ思い出すのは、空海の父佐伯直田公も無冠でした。
こうしてみると肥君猪手は、妻や妾たちとの間に次のように子をもうけています。
正妻と2男1女第一妾と5男2女第二妾と1男第三妾との間には子供がない。
肥君猪手には、子が12人、孫が10人いたことになります。それが一緒に生活していたことになります。現在では考えられないものですが、古代にあってはこれが普通だったようです。当時の家族は、この構成単位くらいまでは、一つの屋敷内に同居していたのだろうと研究者は考えています。
しかし、一緒に生活していたのは、これだけではありません。次のような一族もいました。
■ 寄口(きこう)
古代戸籍の親族呼称は「いとこ」までで、それより遠い親類や縁者を寄口(きこう:よりく)呼びました。彼らも一族として住む労働力の担い手でした。肥君家には3家族14人が記されています。
■ 奴婢(ぬひ)
有力者の家には奴隷がいました。奴(やっこ)は男、婢(めやっこ)は女です。彼らは牛馬同様に主人の持ち物で、売買や贈与される存在でした。魏志倭人伝の中に卑弥呼が、魏へ生口(せいこう)と呼ばれる奴婢を送っています。川邊里の戸籍が造られた8世紀初頭でも、奴隷制度は残っていたようです。肥君猪手の戸籍には「戸主奴婢」10人、「戸主母奴婢」8人、「戸主私奴婢」18人、所属不明1人、計37人と記されています。
こうしてみると郡司の家族構成は、大家族制度だったことが分かります。空海の佐伯直家もこのような大家族制だったはずです。このような大家族になると、普通の広さの家屋では入りきれません。おそらく、古墳時代の豪族の家のような大きな家だったことが推察できます。それでも百人近くの家族が一軒の家に住めたとは思えません。広い敷地の中に、いくつもの家が建ち並び、それぞれの小家族が生活していたことが考えられます。そして、その中には結縁者以外の寄口や奴婢たちもいたことを押さえておきます。
郡司は役人としてだけでなく、口分田を耕作し、収穫した種籾を周辺の農家に貸し与えて利息をとることなどでも富を蓄積していきました。また開墾が奨励されると、親族や周辺の農民なども動員しながら開墾を行い、私有地(初期荘園)を広げていきました。国司の下であっても、郡司である地方豪族は役得の「中間利益」も多く一定の力を保持していきます。
河辺里(郷)のその他の戸と人数を見ておきましょう。各戸の人数(戸口)の多い順に並べたものです。

以上のような視点で佐伯直氏の系図を見てみます。


この時代の戸主とは戸籍の筆頭者で、戸の最年長者がなるのが普通で、戸口の租・庸・調の責任を負いました。それがここでは佐伯直氏の場合は道長と記されています。彼の戸籍にも、妻や妾・そして兄弟や自分の息子たちの家族が含まれ、総数は百人近くの戸口の名前が並んでいたことが推測できます。その中の一人に、空海の父である田公もいたと考えられます。つまり、戸主が空海の父親や祖父であったとは限らないのです。道長は、田公の叔父であった可能性もあります。ここでは、戸籍に戸長とある道長が空海の祖父とは云えないことを押さえておきます。
また、空海と弟の真雅が年齢が離れているのも、父田公に何人かの妾がいて、異母兄弟だったと考えれば不自然ではなくなります。「筑前国嶋郡川邊里」の戸籍は、佐伯直氏の家族構成を考える上でもいろいろな情報を与えてくれます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 伊都国から見えてくる日本の古代
https://ameblo.jp/kennosukeban/entry-12697394682.html
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