前回は筑前志摩郡の郡司・肥君猪手の戸籍を見ました。

筑前国嶋郡の大領(郡司)・肥君猪手の家族構成

志摩郡の郡司の戸籍には124人もの構成員が記されていました。ここからは、当時の家は大家族制であり、多度郡の郡司とされる佐伯直氏も、このくらいの
規模であったことがうかがえます。さて、それではその居館はどうであったのでしょうか?   今回は古墳時代後期(6世紀半ば)の有力者の居館を見ていくことにします。
古墳時代の家族構造がよく分かるのは、6世紀半ばに榛名(はるな)山の噴火で埋もれてしまった群馬県黒井峯(くろいみね)遺跡 です。
黒井峯・西組遺跡復元模型4

噴出した厚さ2メートル前後の軽石層下に埋没した集落跡が出てきています。黒井峯遺跡では、村を埋めた軽石層下の調査によって、村の構成や建物の構造、さらには屋根の形の他に、次のような事が明らかにされました。

群馬県黒井峯西組遺跡の屋敷地(石井克己・梅沢垂昭『黒井峯遺跡』
        群馬県黒井峯西組遺跡の屋敷地(石井克己・梅沢垂昭『黒井峯遺跡』)

黒井峯・西組遺跡復元模型2
上記復元模型
①垣根で囲まれた屋敷地
②数棟の平地住居や納屋・作業小屋・掘立柱の高床(たかゆか)倉庫・家畜小屋
③踏み固められた中庭のような作業空間(広場)
④畦をもつ畠
⑤垣根の外の大型の竪穴住居
⑥垣根の外には水場や村の祭祀場
⑦それぞれ道でつながり、さらに村の周囲には畠、低地には水田
これを見るとひとつの「ムラ」のように見えます。しかし、前回見た戸籍に登場する「戸」の実態がこの「ムラ」だと研究者は指摘します。律令制にもとづく支配の最小単位は「戸」とよばれ、その内部に戸主の下に、親族のほか、非血縁の寄口(きこう)や奴婢(ぬひ)も含んでいました。
そのため全体の構成員数は、平均30人前後で、志摩郡の郡司の戸は124人でした。このような構成員が、この空間の「平地式建物」の中に分散して住んでいたのです。ある意味では、ここに見える「ムラ」が生産単位であり、消費単位で「郷戸」であったのです。
肥君猪手の戸籍

 7世紀の律令政府は、このムラを「戸」と名付けて課税単位としたようです。そのためにムラ単位で戸籍をつくり、この単位で課税を行いました。私はかつては「公地公民」というのは、小家族に均等に口分田を与える平等主義にもとづく「疑似社会主義的政策」と早合点していたことがありました。しかし、実態はちがいます。このような血縁関係で結ばれた生産単位を「戸」として、戸籍を作り、そこに様々な課税と、一戸に一人の「国民皆兵制」を課したと捉えることもできます。

戸籍と郷戸

整理しておきます。
口分田も「家(小家族)」毎ではなく、一戸(一族)毎にまとめて支給されました。全部で何町何段という形でやってきた土地を、自分たちで分けろということです。そして秋が来て税の取り立ての際には、戸単位に徴税します。戸主と呼ばれる戸長が税を集めました。納めることのできない人が出たら、戸主が「今回は、わしが代わりに納めておこう」という感じです。役人にしてみれば、とにかく税が納まればいいし、口分田は戸毎に支給するので仲間内(戸内)で分けてくれたらいいんだというわけです。これで入りと出とが決まります。
 もともと生活の単位、地域の人々の結び付きの単位があったのです。その戸単位に、土地を分けたり税を集めたりするシステムです。地方役所としては、一族や地域の人を束ねて決められたものを納めてくれればいいわけです。こうして、だんだん人が増えてきて五十戸ぐらいになったら郷が成立します。その郷名は、代表的な一族の名前を付けたり、その土地で昔から呼ばれている地名が付けたりしたようです。復元模型に登場する柴垣に囲まれた数軒の家屋は、一つの単位集団(複数の家族)が生活するワンセットで、律令時代には「戸」として掌握されたことを押さえておきます。
別の角度から見ておきましょう。

黒井峯・西組遺跡復元模型
群馬県黒井峯西組遺跡の屋敷地

①隣接する地域に畑や小屋があり、他の一角には祭祀場とみられる区域がある。
②住民の家屋は竪穴住居と平地住居とがあり、両者ともカマドが付設されている
③竪穴住居は、地表に屋根が密着し煙突がみえる。家屋本体はすっぽりと地下に納っている。
④外周の畑地に接して、物置、食糧庫などの小屋がある。
⑤馬の足跡や家畜小屋もみつかっている。
こうしてみると、母屋の竪穴住居、〝離れ〟の平地住居、穀物倉庫、天屋の作業場や器材置場、家畜小屋、野菜畑、祀祠など、米づくりためのの屋敷原形が古墳時代にはできあがっていたことが分かります。また、馬+カマド+半地下住居=渡来系住人の家屋であったことがうかがえます。

群馬県黒井峯西組遺跡の屋敷地5

群馬県黒井峯西組遺跡の屋敷地4

このムラ=屋敷=戸をベースに、讃岐の空海の実家佐伯直氏の家を想像しておきます。

①百人を超える大家族構成でも大邸宅であったわけではなく「母家+いくつもの離れ」で構成されていたこと
②高床式の穀物倉庫が何棟もあったこと
③水が湧き出す湧水があり、水の儀式の祭場があったこと
④周囲に畑や水田が拡がっていたこと

それではどこに佐伯直氏の屋敷はあったのでしょうか?

旧練兵場遺跡 詳細図
善通寺周辺遺跡図
①病院地区が平形銅剣をシンボルとする「善通寺王国」の拠点エリア
②古墳時代になると東側の試験場地区に遺跡が多くなる
③この勢力が6世紀末に、横穴石室を持つ前方後円墳・大墓山古墳と菊塚古墳を造営
④続いて7世紀後半に仲村廃寺を造営(この時点では、南海道・条里制未着工)
⑥南海道が伸びてきた以後に、その近くに2町四方の善通寺建立
⑦四国学院の南側に、多度津郡衙建設
これらの事業を進めたのが佐伯直氏と研究者は考えています。そして、佐伯直氏が国造から多度郡郡司へと成長していきます。そうすると、③の時点での佐伯直氏の舘は、仲村廃寺周辺にあった。そして、⑥⑦の白鳳時代には、郡衙周辺に舘は移ったと私は考えています。
以上を整理しておきます。
①群馬の黒井峯遺跡からは、垣根で囲まれたムラが出てくる
②このムラが当時の最小の生産単位であり、消費単位でもあった。
③首長を中心に血縁関係で結ばれたいくつかの家族が、各家屋に分散して生活していた。
④7世紀の律令国家は、このムラを課税・均田制支給、徴兵の最小単位としてとらえようとした。
⑤そのためムラの首長を戸主とし、責任者とした。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
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