菅原道真は仁和三(886)年正月に讃岐守に任命され、2月に赴任しています。彼が国司として直面したものはどんなものであったのかを見ていくことにします。テキストは「新編丸亀市史Ⅰ 428P 律令体制下の人と村落」です。


国司編成表
職員令によると、国には大・上・中・下の四等級がありました。等級は、公田や戸の数によって決められたようです。国司は上表のように四等官で構成され、国の等級によって人数が定められていました。讃岐は上国守一人、介一人、掾一人、目一人、史生三人になります。その他の主な職務は、次の通りです。
国司の長官である守の職掌は職員令の規定には、次のような項目が挙げられています。介は守が不在のとき、守の職務を代行、掾は国内の治安維持や文書の審査目は文書の作成・点検および読み上げ
史生は公文書の書写や四等官の署名を取ってまわることなど、書記官として雑務遂行務
①国内の民政(戸籍・計帳による人民の把握とその生活の維持②農業の指導③田地・宅地の把握④人民の身分区分の把握)⑤財政(租税の徴収や徭役(ようえき)〔雑徭(ぞうよう)や歳役など力役〕の徴発、⑥調庸の運搬⑦租税を収納する倉庫その他の官庫の管理)⑧軍事・警察・裁判(国内の治安維持、裁判、兵士の徴発、軍団の人事、兵器や軍事施設の管理)
⑨交通行政(駅や伝馬(てんま)の監督⑩関所通行証としての過所(かしょ)の発行)⑪宗教行政(神社や僧尼名簿の管理)⑫学生(がくしょう)の推挙⑬道徳的にすぐれたものの表彰⑭牧・馬牛・遺失物の管理・調査
これを見るとすべての権限が、国司の内の守に任されていたことが分かります。
こうした職務は文書で行われたので、事務処理能力を持った人間の養成が求められました。そのため官人養成機関として、中央に大学、地方諸国には国学が設置されます。国学では、郡司の子弟などから選ばれた学生を国博士などが教えました。国医師も国学に勤務し、医生を教授したり、医療にもあたったりしています。
国司の収入はというと、国司には季禄が支給されませんでした。その代わりに、史生以上に職分田(職田)と職分田の耕作にあたった事力(じりき)が支給されています。大宝令では公廨田(くがいでん)とよばれていた職分田は、田租を納めることを免除された田で、国の等級や官職によって、支給された面積に差がありました。
それでは国司としての菅原道真は、このような広範な職務をどんなふうに対応・処理していたのでしょうか?
彼の在任中に詠んだ詩が『菅家文草』におさめられているのは以前にお話ししました。着任した886年、最初に詠んだ「金光明寺百講会有」には「一か月以上早天が続いていたが、金光明寺で行われた仁王会の霊験によって雨が降った」と記します。金光明寺は、三豊郡仁尾町の金光寺の古名だとされます。そうだとすると、道真は仁尾の寺で行われた仁王会に参会したことになります。小まめに讃岐国内の巡視活動を行っていたことがうかがえます。
九月九日の重陽節の日には、里長(部長)らが菊の花をプレゼントされています。そのお礼に、国府の役人や郡司らと酒宴を催しています。その時には、彼らと租税とりたての方法を論じています。その合間には訴訟の判決文を書いています。
この年の冬には、寒さが身にしみる貧しい庶民を思いやって、「寒早十首」という詩を詠んでいます。

元日に郡司らを集めて宴をひらくのは、国司の重要な務めだったようです。
そして、別の機会には旅亭に郡司等を招いてい親睦のために宴会を催しています。招かれた郡司や郷長たちは礼儀知らずの田舎者で、酔っぱらって車にさかさまに乗ったりするものも現る始末です。それを道真はとがめだてせず、努めて明るく振る舞います。戦前の内務省から派遣されてくる県知事と同じで、地元の有力者との顔つなぎが円滑な統治運営の鍵と認識していたのでしょう。
国内の巡視に出かけると、行く先々で、人々が面会を求めてきます。
それは断って出席することはありません。しかし、郡司らの送迎を断るわけにはいきません。わずらわしいが、がまんしなければなりません。巡視の道々、府庫を修理し、溝やあぜの崩れているのがあれば修理を指示し、罪人の判決を正し、貧乏人や老人を救済し、農民に作柄を聞いています(行春詞)。
彼の在任中に詠んだ詩が『菅家文草』におさめられているのは以前にお話ししました。着任した886年、最初に詠んだ「金光明寺百講会有」には「一か月以上早天が続いていたが、金光明寺で行われた仁王会の霊験によって雨が降った」と記します。金光明寺は、三豊郡仁尾町の金光寺の古名だとされます。そうだとすると、道真は仁尾の寺で行われた仁王会に参会したことになります。小まめに讃岐国内の巡視活動を行っていたことがうかがえます。
九月九日の重陽節の日には、里長(部長)らが菊の花をプレゼントされています。そのお礼に、国府の役人や郡司らと酒宴を催しています。その時には、彼らと租税とりたての方法を論じています。その合間には訴訟の判決文を書いています。
この年の冬には、寒さが身にしみる貧しい庶民を思いやって、「寒早十首」という詩を詠んでいます。
「寒さは誰に早く来るのだろうか」の問いかけに、十の連句で具体的な人々を詠った詩文です。そこには次の10人の庶民の姿が詠われています。
寒早十首
これは、国司として国内巡視する菅原道真が目の当たりにした人々の生活なのでしょう。これらの詩文を読み込んでみると、詠う対象の背景に、海上輸送労働者を雇う船主や、零細な製塩業者を押しのけて大規模製塩をする豪族の姿が透けて見えてきます。彼らは、それぞれの地域を経営し開発等を進め、讃岐国の国力を高めていった存在で、郡司に連なる一族もいたはずです。その筆頭が綾氏ということになります。 こうした豪族らによる開発で田数や人口を増加させる一方、税を負担すべき零細民の生活を圧迫します。道真は現実を見つめる中から、どう豪族層を取り込むのか、そして、どのようにして税収を上げていくのか、その案配を考えていたのかもしれません。

菅家文草 寒早十首 国司の見た讃岐 坂出市史資料編24P
元日に郡司らを集めて宴をひらくのは、国司の重要な務めだったようです。
そして、別の機会には旅亭に郡司等を招いてい親睦のために宴会を催しています。招かれた郡司や郷長たちは礼儀知らずの田舎者で、酔っぱらって車にさかさまに乗ったりするものも現る始末です。それを道真はとがめだてせず、努めて明るく振る舞います。戦前の内務省から派遣されてくる県知事と同じで、地元の有力者との顔つなぎが円滑な統治運営の鍵と認識していたのでしょう。
国内の巡視に出かけると、行く先々で、人々が面会を求めてきます。
それは断って出席することはありません。しかし、郡司らの送迎を断るわけにはいきません。わずらわしいが、がまんしなければなりません。巡視の道々、府庫を修理し、溝やあぜの崩れているのがあれば修理を指示し、罪人の判決を正し、貧乏人や老人を救済し、農民に作柄を聞いています(行春詞)。
ここに詠われている内容を見ると、菅原道真が民衆想いの優れた国司であったと思います。 しかし、最初に国司の職務一覧で見たように、これらは戸令に定められた国司の職務で義務だったのです。
①年に一度、国内を巡行し百姓の生活を視察②生業を奨励③刑の得失をしらべ④郡司の務めぶりを監督⑤好学孝養などの人を顕彰
それを道真は忠実に実行しているのです。
「寒早十首」や、巡行の上で出会った老人に生活や国政のあり方などを聞いた「路遇白頭翁」の詩には、菅原道真がまじめに民情を問い、国司の務めを果たそうとしていたことがうかがえます。彼は器を売りにきた老人に米を与え、病気の下役人に薬を分けています。
任期3年目の仁和四年(888)に、讃岐は旱魃に襲われます。
「風は春の山に巻きて、雲は谷に宿る。火は夏の日焼きて、地は種を生ず」
道真が赴任以来、国内の28か寺に配って仏の供養としていた国府の北の池も枯れます。寺や神社の請雨祈願も功なく、見回りの馬も疲れて道に倒れてしまった。」
祀城山神文は次のように記します。
道真は、五月六日(旧暦)、城山の神に捧げる祭文をつくり、八か郷二〇万口の讃岐の人民の一郷も損することなく、一口もえることがないよう、心をつくして降雨を祈った」
その至誠が天に通じ、七日七夜の祈願の満願の日、空がにわかにくもって、三日三晩大雨が降り続いた。歓喜した農民たちは、当時滝宮にあった道真の館の前に集まって、感謝の心をこめて踊りくるった。これが滝宮に伝わる念仏踊りの起こりだということである。
しかし道真は、この祈雨のことも、降雨のこともなにも詩にのこしていません。
秋には、のんびりと江(綾川?)のほとりにたたずんで、秋のの景色をながめ、あるいは重陽の菊を賞しています。旱魃の危機は去ったようです。
ここまで見てきたように菅原道真が国守として直接的政務にたずさわる姿はあまり見えてきません。
描かれたシーンは、庶民の生活を見聞したり、郡司や国府の下級役人との人間関係に心をつかったりする場面が多いようです。これは詩であることや、道真の人柄にもよるのかもしれません。もともと4~6年ぐらいの任期で、中央から派遣されてくる10人ほどの都人が、自分たちの力だけで多くの国務を執り行うのは、不可能なことだったのかもしれません。次のような国政の実務は、綾氏などの在地の豪族出身の郡司、里長の手によって行われていたのです。菅原道真を担いだ郡司層を見ておきましょう。

描かれたシーンは、庶民の生活を見聞したり、郡司や国府の下級役人との人間関係に心をつかったりする場面が多いようです。これは詩であることや、道真の人柄にもよるのかもしれません。もともと4~6年ぐらいの任期で、中央から派遣されてくる10人ほどの都人が、自分たちの力だけで多くの国務を執り行うのは、不可能なことだったのかもしれません。次のような国政の実務は、綾氏などの在地の豪族出身の郡司、里長の手によって行われていたのです。菅原道真を担いだ郡司層を見ておきましょう。

郡司の編成
各郡では、郡司とよばれる役人たちが郡衙(郡家(ぐうけ))で、職務にあたりました。
郡司も国司と同じで上表のように4クラスで構成されていました。
大領(たいりょう) 長官少領(しょうりょう) 次官主政(しゅせい)主帳(しゅちょう)(正式採用ではない) 四等官のもとで働く雑任(ぞうにん)とよばれる下級職員
国司が中央から派遣されるのに対して、郡司は現地採用でした。官人に位階や官職を授けるさいの規定を定めた養老選叙令(せんじょりょう)には次のように記します。
「大領・少領には職務を的確に処理できる人を、主政・主帳には身体が強靭で、頭脳は聡敏、書と計算にすぐれた人を任用せよ「大領・少領」(郡領)に関しては、個人の才能が同じ場合は「国造」を採用せよ。
讃岐でも佐伯直氏のように、大領には国造一族が撰ばれることが多かったようです。
その子弟は兵衛(ひょうえ)として、姉妹または娘は采女(うねめ)として、中央政府に出仕した。また、その任期は終身であった。郡領の任務は郡内の以下のような行政・警察・裁判であり、主政・主帳はそれを補佐しました。
その子弟は兵衛(ひょうえ)として、姉妹または娘は采女(うねめ)として、中央政府に出仕した。また、その任期は終身であった。郡領の任務は郡内の以下のような行政・警察・裁判であり、主政・主帳はそれを補佐しました。
租庸調などの徴収雑徭の徴発出挙の出納戸口調査治安維持産業育成など、
律令体制成立以前の国造は、地域の君主としてクニとその成員を支配してきた伝統と力を持っていました。天武政権は、国造や村落共同体の首長たちを郡司や里長に任命して、地方支配の末端権力を形作っていったのです。その際に、国造家の伝統的権威は、地方支配に有効的に機能しました。
これを地方の郡司たちから見ると、菅原道真など中央から派遣されてやって来る国司たちは、自分たちが担ぎ上げている「神輿」ということになります。道真が讃岐をうまく統治していくためには、郡司や里長たちを確実に掌握し、彼らの協力を得ることが第一でした。道真のころには、奈良時代よりも国守の権限が強くなり、その政治力が国政におよぼす度合も大きくなっていたようですが、基本的には変わりがありません。道真の心づかいは、讃岐の豪族や民衆の信頼を得るに十分であったはずです。そういう意味でも名国司だったと云えそうです。参考文献 「新編丸亀市史Ⅰ 428P 律令体制下の人と村落」
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