貧道と君と淡交にして玄度遠公なり。絹素区に別れたれども、伴佐昆季なり。
ここには、「(大)伴と佐(佐伯)は昆季(兄弟)なり」とあり、空海が大伴と佐伯を、同祖兄弟氏族と思っていたことが分かります。空海が佐伯氏の同祖を思っていた大伴氏とは、どんな氏族だったのかを今回は見ていくことにします。テキストは「菅野雅雄 大伴氏の系図」です。
大伴氏について語るときに、引き合いに出されるのが「万葉集巻第十八4094」の 大伴宿祢家持の歌です。
海行かば水漬(みづ)く屍(かばね)
山行かば草生(くさむ)す屍
大君の辺(へ)にこそ死なめかへり見はせじ
意訳変換しておくと
海に戦いに行ってわたしの屍が水に漬かろうとも
山に戦いに行ってわたしの屍に草が生えようとも
大君のおそばでこそ死のう迷うことはするまい
この歌は戦前には「忠君愛国」の歌として国定教科書に取り上げられていて知らない人はいませんでした。大伴氏というとこの歌が思い浮かべられたようです。

この歌は、大伴家持の長歌の一部ですが、家持のオリジナルではないようです。大伴氏の祖先が戦いに臨んで唱い舞ってきたフレーズの一部とされてきました。
『続日本紀』には、聖武天皇が大伴氏に向けた詔書に、つぎのようにこの歌が引用されています。
おまえたちの祖先はこのように歌って歴代の天皇に忠誠を尽くしてきてくれた。今後もその心がけを忘れてくれるなと。
これに対しての家持の『万葉集』の長歌は、その返答なのです。家持は、さらにこう詠んでいます。
大伴と佐伯の氏は 人の祖(おや)の立つる言立て人の子は親の名絶たず 大君にまつろふものと言ひ継げる
意訳変換しておくと
大伴氏と佐伯氏は祖先の立てた誓い「子孫は親の名(=代々の家名)を絶えさせず大君に従うものだ」を言い伝えてきたのです
ここに大伴氏と並んで佐伯氏が登場してきます。出陣の際には、この歌を大伴氏の長が詠い、佐伯の長が舞ったとされます。最初に見たように、このことを空海は知っていたから「(大)伴と佐(佐伯)は昆季(兄弟)なり」と記したのでしょう。ここでは空海の頃には、大伴氏と佐伯直氏は同祖で、大王のそばに仕え、行動を共にしてきた軍事(護衛)集団であるという誇りが出来上がっていたことを押さえておきます。
この歌は「久米歌(くめうた)」と呼ばれていて、 ウィキペディアは次のように記します。
記紀の 神武天皇のヤマト征討したとき久米部がうたった歌で、大和国平定記事に組まれた宮廷歌曲群であり、『日本書紀』に8首、このうち6首が『古事記』にも書かれている。大和王権に服した久米氏が、近衛軍団の伴造、あるいは膳夫(かしわで、調理人)となり、戦闘後の酒宴の合唱と舞いとで、宮廷儀礼の場で大王(天皇)に忠誠を誓って奏したものである。」((https://ja.wikipedia.org/wiki/久米歌 参照 2026年1月11日))
ここで注意しておきたいのは、この歌がもともとは大伴氏のものではなかったということです。久米歌は、久米部(くめべ)という部民が歌った軍歌・戦闘歌であったと記します。それでは久米氏(部)とは、どのような氏族だったのでしょうか?
『古事記』では天孫降臨の場面に、久米氏は次のように登場します。
『古事記』では天孫降臨の場面に、久米氏は次のように登場します。
故に天津日子番能邇邇芸命に詔りたまひて、天の石位を離れ、天の八重多く雲を押し分けて、伊都能知和岐知りたたして和岐豆、天の浮橋に宇岐士摩理、蘇理多多斯豆、竺紫のはゆぎ日向の高千穂の久士布流多気に天降りまさしめき。故天忍日命、天津久米命の二人、天の石を取り負ひ、頭椎の大刀を取りき、天の波士弓を取り持ち、天の眞矢を手挟み、御前に立ちて仕へ奉りき。故、其の天北中天津久米命等の此は久米直等のなり。
ここでは久米氏の祖先は、忍日命と記載されて、久米氏天津久米命は大伴氏祖天忍日命と共天孫を先導する役割を務めています。ところが日本書紀では、大伴氏が久米氏を率いる立場として描かれます。
天孫降臨についての書紀と古事記のちがいを挙げると
A 古事記 大伴・久米の併立状況B 書紀 久米部を帥いる大伴氏の姿を描いている
日本武尊の東征については、古事記には大伴氏の出番はありません。ところが「書紀』景行天皇四十年七月条の文末には「天皇、則ち吉備武彦と大伴武日連とに命せたまひて、日本武尊に従はしむ。七脛を以て夫とす。」
こうして見ると、久米氏はもともとは天皇の直属軍事氏族として活躍していたのが、どこかで勢力を失い、後発の大伴氏にその地位を取って代わられたことがうかがえます。
紀記の中で、大伴氏の活躍する伝承は次の項目です。
①天孫降臨先導伝承②神武東征従軍伝承③日本武尊東征従駕伝承④継体天皇擁立伝承⑤壬申乱参戦伝承
①大和盆地東部に位置する大王家・物部氏が前方後円墳の密集地帯であること 物部氏の勢力の大きさ②大王家を挟むように北に物部、南に大伴氏の勢力があること③大伴氏の勢力内の初瀬川左岸(西南部)流域には前方後円墳がないこと
③からは大伴氏について、次のようなことが推察できます。
A 大伴氏は首長墓である前方後円墳を築くだけの力を持つ氏族ではなかったこと
B 大伴氏は前方後円墳造営終了後に、台頭した新興勢力であったこと
C 大伴氏が、奈良盆地のヤマト王権メンバーの中では、軽量級であったこと
D 大伴氏は物部氏とともに大王家を挟む位置にあり、強いライバル関係にあったこと
D 大伴氏は物部氏とともに大王家を挟む位置にあり、強いライバル関係にあったこと
Bの大伴氏=新興勢力説をもう少し見ておきましょう。
新興の軍事氏族である大伴氏は、継体天皇を擁立してヤマト政権の中で確実な地歩を占めるようになります。 大伴氏の台頭背景には、大伴氏が渡来した新しい武器 + 鉄を手に入れるルートを持っていたことが考えられます。
5世紀は高句麗の騎馬戦術に対応するために、軍事兵器の革新が最重要政策となった世紀です。蘇我氏と同じように、そのルートや方策を大伴氏が握ったことが考えられます。それが久米氏に代わって、大伴氏が新興軍事集団として政権内で台頭した背景にあると研究者は推測します。そして、8世紀初頭の紀記編集時代になると、久米氏と大伴氏は同祖で兄弟氏族だという論法を展開したようです。
同祖氏族化の手法には、「A 地縁に基づく擬制」と「B血縁に依る擬制」がありました。
Aについて、久米氏と大伴氏の本貫を見ておきましょう。
久米直氏は大和国久米(橿原市久米町)の地を本貫
大伴連氏は、別業は「竹田」「跡見庄」(橿原市東竹田=竹田庄、桜井市外山跡見庄)
久米と竹田とは近接していて、地縁関係があったようです。
Bの血縁的擬制については先ほど見たように、大伴氏が久米氏と姻戚関係にあったことが何カ所かで主張されています。こうして、久米氏と隣接し、地縁をもとに同祖氏族であることを唱え、更に同族関係を固めるため、血縁=婚姻を重ね「大伴氏+久米氏=同祖兄弟氏族」伝承を作り上げたと研究者は考えています。
最後に、大伴氏が渡来人と密接な関係にあったことを見ておきましょう。
最後に、大伴氏が渡来人と密接な関係にあったことを見ておきましょう。
『万葉集』に八十四首の歌を残している大伴坂上郎女は、大納言安麻呂の娘で旅人の異母妹、家持の叔母に当たります。その経歴は、穂積皇子に嫁しますが皇子の死後に、藤原麻呂の寵を受けます。やがて麻呂と別れ、異母兄宿奈麻呂の妻となり坂上大嬢・二嬢を生む。さらに安倍虫麻呂とも親密な関係を結ぶなど恋多き女性のようです。神亀年間に大宰府に下り、天平二年十一月に帰京、坂上の里に居住したので坂上郎女と呼ばれたようです。
坂上の地(奈良市法華寺町西北辺り)は、渡来人の居住地でした。
ここを本貫としたのが坂上直氏です。坂上氏は、壬申の乱で次のような活躍をしています。
坂上の地(奈良市法華寺町西北辺り)は、渡来人の居住地でした。
ここを本貫としたのが坂上直氏です。坂上氏は、壬申の乱で次のような活躍をしています。
是の日(天武元年六月二十九日)に、大伴連吹負、密に留守司坂上直熊毛と漢直等に謂りて曰はく、「我詐りて高市皇子と称りて、数十騎を率て、飛鳥寺の北の路より、出でて営に臨まむ。乃ち汝内応せよ」といふ。既にして兵を百済の家にひて、南の門より出づ。
ここからは壬申の乱の際に、大伴氏が坂上氏・漢直と供に挙兵したことが記されています。三者の親密な関係が見えて来ます。それもそのはずで、坂上直氏は、東漢氏のリーダー的な存在で、次のように改姓を重ねた渡来系氏族なのです。
天武十一年五月 連同十四年六月 忌寸天平宝字八年九月 大忌寸延暦四年六月 大宿禰
「新撰姓氏録」右京諸蕃上には「坂上大宿禰出自後漢霊帝男延王」
「坂上系図」の「姓氏録」逸文には「阿智王(阿知使主)の孫の志努直は坂上大宿禰らの祖」
と記されています。坂上氏(東漢氏)と大伴氏との強いつながりが見えて来ます
「坂上系図」の「姓氏録」逸文には「阿智王(阿知使主)の孫の志努直は坂上大宿禰らの祖」
と記されています。坂上氏(東漢氏)と大伴氏との強いつながりが見えて来ます
大伴坂上郎女は『万葉集』巻三に、尼理願の死去を悲嘆して歌(460)を残しています。
これに注して、次のように記します。
右、新羅国の名は理願といふ。遠く王徳に感けて、聖朝に帰化ぬ。時に大納言大将軍大伴卿の家に寄生しすでに数紀を経たり。ここに、天平七年乙亥をもち忽ちに運病に沈み、すでに泉界に趣く。ここに、大家石川命婦、餌薬の事によりて有間の温泉に行きて、この喪に会はず。ただ郎女ひとり留まりて、屍を葬り送るとすでにりぬ。よりてこの歌を作りて、温泉に贈入る。
新羅の人が大伴の家の「寄生」していたと記します。
これ以外の史料からも大伴氏は渡来人との関わりが非常に強かったことがうかがえます。従来は、八神代以来の名族といわれる大伴氏ですが、その台頭の背後には渡来系氏族の影を見えて来ます。
以上を整理して起きます
①大伴氏は、大王直属の軍事集団とされるが、大伴氏以前には久米氏がいた。
②大伴氏は、百済との強いパイプを持つことで馬飼育方法や馬具制作・鉄製品の供給などの先端ハイテク技術の供給体制を握ることによって、政権内部での地位を急速に高めた。
③そして久米氏にとって代わり、佐伯氏と共に大王直属の軍事氏族という立場を築いた。
④そのため大伴氏の周りには渡来系氏族との関係がうかがえるものが多数ある。
⑤大伴・佐伯=同祖兄弟説も、このような中で6世紀に生まれてきたものである。
こうして見ると空海の実家の佐伯直氏も、大伴氏に従軍し、瀬戸内海航路を行き来し、九州や朝鮮半島で活発に活動していたことが考えられます。そのような環境の家に空海は生まれたことになります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 菅野雅雄 大伴氏の系図
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これ以外の史料からも大伴氏は渡来人との関わりが非常に強かったことがうかがえます。従来は、八神代以来の名族といわれる大伴氏ですが、その台頭の背後には渡来系氏族の影を見えて来ます。
以上を整理して起きます
①大伴氏は、大王直属の軍事集団とされるが、大伴氏以前には久米氏がいた。
②大伴氏は、百済との強いパイプを持つことで馬飼育方法や馬具制作・鉄製品の供給などの先端ハイテク技術の供給体制を握ることによって、政権内部での地位を急速に高めた。
③そして久米氏にとって代わり、佐伯氏と共に大王直属の軍事氏族という立場を築いた。
④そのため大伴氏の周りには渡来系氏族との関係がうかがえるものが多数ある。
⑤大伴・佐伯=同祖兄弟説も、このような中で6世紀に生まれてきたものである。
こうして見ると空海の実家の佐伯直氏も、大伴氏に従軍し、瀬戸内海航路を行き来し、九州や朝鮮半島で活発に活動していたことが考えられます。そのような環境の家に空海は生まれたことになります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 菅野雅雄 大伴氏の系図
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