前回は空海の生家・佐伯直氏と大伴氏の関係を次のようにお話ししました。

大伴・佐伯=同祖兄弟氏族を裏付けるもの

ここからは佐伯直氏が大伴氏の同族として、軍事行動をともにしていたことが見えて来ます。そうだとすれば大伴氏の活動には、佐伯直氏が付き従っていたことになります。もっと云えば、大伴氏の活動を追いかければ、佐伯直氏のうごきもある程度は見えてくるのではないかという推察です。そこで、大伴氏の全盛期を築いたとされる大伴金村の動きを今回は追ってみたいと思います。テキストは「小嶋 篤(九州国立博物館)  筑紫・大伴・大伴部     「大宰府前夜 ─筑紫の大宰と豪族」です。

まず大伴金村に至る大伴氏の系譜を見ておきましょう。
大伴氏系図1
紀記の中で、大伴氏の活躍する伝承は次の項目です。
①天孫降臨先導伝承
②神武東征従軍伝承
③日本武尊東征従駕伝承
④継体天皇擁立伝承
⑤壬申乱参戦伝承
①では、天津日命の子孫で、もともとは物部を名のったが、②の功績で「将軍」を名のるようになった
と記します。③で登場するのが武持で、ここで大伴氏を名のります。しかし、ここまでの系図については信憑性が低いと研究者は考えています。
例えば、川口常孝氏は大著「大伴家持」で次のように記します。

「日本書紀」の記述は、いわゆる歴史以前とも称すべき部分で武持・武以の実在性は十全には信じがたい。ゆえに、厳密に実在した人物の場合は、武以の子といわれ、金村の祖父にあたる、允恭十一年(422)紀の、大伴室屋連あたりからとすべきである。この大伴連室屋が、物部連目とともに大連を賜わったことが、雄略即位(457)前記に見える。大連は、大王の称号の確立に伴って生じてきたものと考えてよく、即位前紀の記事は、今や大伴氏が、物部氏とともに、大和朝廷の最高執政官の役割をになうに至ったことを告げており、大伴氏の史上への登場を確認してよいであろう。したがって、大伴氏は、室屋のあたりからは、神話への依拠を要せぬ彼等の系譜を作製することができるようになる。そして、談大連を経て金村の代になると、逆臣平群真鳥の討伐、武烈天皇即位の輔佐、継体天皇の擁立等々その功多く、大伴氏の極盛時代を現出することになる。」

  ここでは、大連の姓を持つ室屋を「大伴氏の史上への登場」とし、金村の時代を「大伴氏の極盛時代」とします。
大伴氏の出自や本貫について、北山茂夫氏は『大伴家持』で次のように記します。
「この豪族の起源については、不明の点が多いが、おそらく本拠は、河内の、後に難波と呼ばれた地域であったろう。早く六世紀以前に、世襲王権を確立した大王家(後の天皇家)に服属して、物部氏とともに、とくにその軍事的伴造を領し、その名称の大伴が示すごとく、巨大な勢力の形成へと向かったようである。五世紀から六世紀の前半にかけて、内戦外征がつづき、したがって大伴、物部には活躍の機会と場が多く、軍事的伴造の首長から、王権下の寡頭執政機関たる大連にのしあがった。しかし、五四〇年の百済への任那四県の譲に関与して大金村が失脚し、大伴氏は大きく傾いた。
 五八七年の物部大連家のごとく、諸氏族の集中攻撃をうけて滅亡に瀕したのではないから、なお伴造の大首長としての潜勢力を保つことができたものの、もはや子孫は大連に復帰しえなかった。大王家の王権と結んで政界を制覇した蘇我大臣家の下風にたって、余勢を保つのに汲々たる状態に甘んじねばならなかった。」
ここでは、5世紀から6世紀前半のヤマト政権の「内戦外征」を通じて、物部氏と共に軍事的指揮官から大連にのし上がり実権を握ったとします。つまり6世紀前半には、物部氏と大伴氏の2トップの軍事集団体制ができあがり、それが軍事面だけでなく内政・外交まで牛耳る体制が形成されていたというのです。
このような時期に登場するのが大伴金村です。彼の年表を見ておきましょう。
大伴家年表 旅人・家持

大伴金村

ここからは大伴金村が大連として、5世紀末から540年に至る約半世紀間、ヤマト政権中枢部でおおきな役割を果たしていたこと、特に朝鮮半島政策は、彼によって立案・実行されていたことがうかがえます。少し寄り道しますが、その外交政策を史料で裏付けながら見ていくことにします。 

 書紀には大伴金村は、継体政権誕生の立役者として描かれています。キングメーカーとなった金村は、大連(王権下の寡頭執政機関)として政権を運営していく立場に就きます。そこで、直面したのは朝鮮半島政策です。
    下表は倭の新羅侵攻の記事を、三国史記に基づいて年次別に集計したものです。
倭の新羅への侵攻一覧 古代日朝交渉史序説(田村)
ここからは次のような情報が読み取れます。
①五世紀がヤマト王権の新羅侵攻のピークであったこと
②ヤマト王権の新羅侵攻は5世紀で終っていること
③これは、新羅に対するヤマト王権の劣勢の現われであること
④475年の漢山城陥落によって高句麗の優勢が確定したこと
④の敗北は、朝鮮半島に軍事情勢の激変をもたらします。502年以後、高句麗の長寿王は連年のように北魏に入貢しています。これに応えて、梁の武帝は、武寧王に征東大将軍を与えます。このような冊封体制下で百済は、もはや自力で高句麗に対抗できずに苦境に追い込まれます。そのような中で、百済がとった打開策が伽耶方面への南下政策です。

朝鮮半島三国の勢力推移
中国の漢帝国が朝鮮半島に進出し、楽浪郡を設置したことは東アジアの諸民族におおきな影響を与えます。それが朝鮮半島や日本列島において古代国家形成につながると研究者は考えています。その中で、いち早く体制を整えたのが高句麗です。高句麗は北方系遊牧騎馬民族国家として、騎馬軍団で半島南部への南下政策を開始します。この脅威に対応するために、新羅や百済も軍事力強化を余儀なくされます。そのためには兵力動員面からも「国家」の形成が求められるようになります。そのような中で、高句麗の外圧に直接さらされなかった南部エリアでは、中小の小国家が並立する状態が続き、統一国家形成が進まず小国家分立状態が続きます。ところが百済や新羅で国家形成が進むと、高句麗に奪われた領土を、南方の伽耶諸国を併合することで穴埋めしていく戦略がとられるようになります。
こうして朝鮮半島では、各国の思惑が次のように錯綜します。

古代朝鮮半島をめぐる各国の思惑
①高句麗 魏晋南北朝の中国分裂に乗じて、周辺への領土拡大政策。朝鮮半島への南下
②新羅  高句麗の南下を中国王朝の冊封体制に入ることで回避 → 伽耶への侵攻
③百済  失われた北辺領土を伽耶併合で埋め合わせる     → 倭の軍事力利用
④倭   鉄と馬とハイテク技術・知識などの供給地伽耶の確保 → 駐留使節団設置
⑤伽耶諸国 独立維持のための外交展開            → 倭の軍事力利用
任那日本府とは

このような中でヤマト政権の朝鮮半島外交を担当していたのは誰なのでしょうか?
6世紀の大臣・大連一覧表
6世紀前半の大臣・大連一覧表  (古代日朝交渉史序説(田村)より
 上表からは6世紀初頭には、大臣として巨勢男人、大連として大伴金村と物部麁鹿火の3人が中枢ポストにいたことが分かります。512年(武寧王12、継体6)、百済の武寧王の派遣した使者が難波にやってきます。このことについて日本書紀は、次のように記します。(要約)

百済が外交使節を難波に派遣し、(継体天皇に)上表文を差し出して、「任那国の上哆唎(おこしたり)、下哆唎(あろしたり)、娑陀(さだ)、牟婁(むろ)の四県を欲しい」と願った。哆唎国守(現地責任者)の穂積臣押山(ほづみのおみおしやま)が『四県は百済に連なり、日本とは遠く隔たっています。百済に(四県を)たまわって、合わせて同じ国にすれば、保全のためにこれ以上の策はありません』と言うと、大連の大伴金村もこれに同調。そこで、大連の物部麁鹿火(もののべのあらかい)が宣勅使となり、難波館で待機している百済の使者にこれを伝えることになった。ところが麁鹿火が難波館に出向こうとすると、妻から「神功皇后は(朝鮮半島の各国に)官家(王権の直轄地)を設け、わが国の守りとされた由来がある。これを割いて他国に与えると、後世長く非難を受けることになる」と諭された。「病気と言って、勅宣を受けなければよい」という妻に従い、使者を断った。そこで、別人が勅を伝え、任那四県を百済に割譲したという。


伽耶諸国分割変遷表

 上・下喇は全羅南道の栄山江の東岸にあたり、今の光州・霊岸地方、娑陀・牟婁は栄山江の西方の地帯になります。つまり全羅南道の西半部が、任那の四県になるようです。475年に漢山城を放棄して南遷した百済は、失われた領土の代替として、加羅のこの地域を求めてきたこと、それを当時の外交責任者の大伴金村は認可したと日本書紀は記します。この書き方だと、倭国が伽耶諸国を領有しているように思えます。『日本書紀』は「日本の天皇は、古来、朝鮮半島に直轄地をもっていて、利権を掌握していた」と主張するの常です。研究者の多くは、この通りには受け取れない考えているようです。教科書からも「任那日本府」と用語は、20世紀末には消えています。「割譲」というよりも「承認」を求められた方が事実に近いようです。

任那割譲問題


 倭国の「承認」に対して翌年513年に、武寧王は継体の宮廷に五経博士の段楊を送っています。これは「最先端技術をもった知識人の貢進」で、「四県割譲」に対する謝意のあらわれと受け取れます。当時は、「倭国の軍事援助」の見返えりが、「百済からの文化・ハイテク技術提供」だったことを押さえておきます。
 百済の「任那併合」を倭が認めたことは、伽耶諸国からすれば倭の裏切りです。
倭を後ろ盾としてきた伽耶諸国は、その安全保障体制の見直しを迫られます。その結果、伽耶諸国は百済・倭から離脱して、新羅に接近する動きが拡がります。このような動きを受けて、新羅も伽耶地域に勢力を伸ばしてきます。
 533年には、伽耶の中心であった金官国が新羅に併合されています。これについて三国史記は次のように記します。

(法興王)十九年、金官国主金仇亥、與妃及三子長日奴宗、仲日武徳、季日武力、以国宝物米降、王礼待之、 授位上等、以本国為食邑、子武力仕至角千。

意訳変換しておくと

 金官国の国王の金仇亥、妃と三子が、国幣と宝物をもって新羅に降り、法興王は新羅の最高位である上大等を授け、本国を食邑とすることを許した。

伽耶諸国2
金官(海)は、南加羅とも呼ばれ、弁辰十二国のうちのかつての邪韓国でした。その位置は洛東江下流金海地方です。これは新羅が戦略的要衝にあたる洛東江河口を確保したことになります。ヤマト王権と加羅諸国とを結ぶ動脈が、新羅の進出によって遮断されたのです。これはヤマト王権の生命線である鉄の供給や先進文化受容拠点が奪われたことになります。今なら「シーレーン防衛の破綻」というところでしょうか。
これに対して、ヤマト王権は536年に、筑紫の那津に官家を設け、畿内・北部九州から運ばれた兵糧を貯蔵することになったことが日本書紀に次のように記されています。
(宣化元年)夏五月辛丑朔、詔日、食者天下之本也、黄金貫不可療、白玉千箱何能救冷、夫筑紫国者、遐之所届、去來之所三門、是以海表之候、海水以来賓、望天雲而奉、自胎中之帝泊三干朕身、収藏穀稼蓄積儲粮、遙設三四年、厚良客、安之方、無此、故遣阿蘇君三河内國茨田郡屯倉之穀、蘇我大臣稻目宿禰宜遣尾張尾張屯倉之穀上、物部大麁鹿火、宜遣新家連運新家屯倉之穀、阿倍臣、宜遣伊賀臣伊國屯倉之穀、脩造官家那津之口、又其筑紫肥豊三國屯倉、散在懸隔、運輸遙阻、如須要以備卒、宜課諸郡分移、聚三建那津之口、以備非常、永爲民命、早下郡縣知心
ここには阿蘇氏は河内の茨田郡の屯倉の穀を、尾張氏は尾張の屯倉の穀を、新家氏は新家の屯倉の穀を、伊賀氏は伊賀の屯倉の穀を、全国から穀物を海路によって、筑紫那津の官家に運び、また筑紫・肥・豊の三国の屯倉の穀も、那津の官家に集めたことが記されています。那津の官家は、福岡市南区三宅本町あたりにあったとされます。那津の官家設置の目的は、朝鮮半島の軍事情勢の急激な変化に対応するための措置だと研究者は考えています。新羅による金官加羅の併合や、慶尚北道慶山卓淳(慶尚北道大邱)への進出は、ヤマト王権にとっては国家存亡の非常事態です。レアアースの輸出規制よりも深刻だったはずです。同時に、発生した亡命者(旧加羅人)の受けいれや、加羅・百済に対する救援の措置が検討され、その一環として那津の官家設置となったのでしょう。こうして以後、筑紫の那津は、百済加羅援助の基地として機能していくことになります。 .
 那津官家の設置について日本書紀は、「非常に備え、永く民の命となす」と記します。
ここからは兵糧などの戦略物資の朝鮮半島への輸送・集積は一回限りのことではなく、以後も続けられたことがうかがえます。秀吉の朝鮮出兵を見ても分かるとおり、軍団・物資輸送には船舶造船から始まって、水夫の組織化、港・官家の維持や穀稼の保管・配給などの煩雑な業務が大量に発生します。この様な動きの中心にいたのが大伴金村でした。日本書紀には、次のように記します。

(宣化)二年冬十月、壬辰朔、天皇以新羅寇於任那、詔大伴金村大連、遺其子磐与狭手彦以助任那、是時、磐留筑紫執其国政、以備三韓、狭手彦往鎮任那、加救百済。

意訳変換しておくと
(宣化)二年冬十月、壬辰朔、天皇は新羅の任那(金棺伽耶)への侵攻に対処するために、大伴金村大連に命じて、その子である磐と狭手彦に任那救援の職務につかせた。この時に、(長男の)磐は筑紫執として国政を掌り、三韓(朝鮮半島の有事)に供えた。また、(次男の)狭手彦は任那に出陣し、百済救援軍とした。

こからは次のような情報が読み取れます。
①新羅が加羅に侵攻したので、ヤマト政権は大伴金村に対応を任せた
②大伴金村は、長男磐を筑紫に留まらせて後方支援活動を担当させ
③次男狭手彦を伽耶に派遣して、百済支援部隊とした。
こうしてみるとこの時期の朝鮮半島経営は、大伴金村が担当していたことが改めて裏付けられます。

④については、「三韓に備え」とあるので、磐の職務は筑紫の軍政官であり、朝鮮半島への軍事兵站基地の役割を果たしたことが考えられます。これと那津官家の機能とは無関係ではないはずです。またここに登場する「筑紫」は、宣化元年詔の「筑紫・肥・豊三国」の総称と研究者は考えています。
 一方、弟の狭手彦の軍事的作戦範囲は、金官国の復興という積極的なものではなく、加羅諸国の確保という消極的なものに限定されていたようです。具体的には、新羅の侵入阻止、ヤマト王権の戦略拠点としての伽耶諸国の維持です。
 いつの時代でもそうですが、他国への軍事行動には兵站基地が不可欠です。
それが筑紫であったことになります。さらに云えば朝鮮戦争の時に、日本列島が米軍の「不沈空母」として機能したように、狭手彦の半島での軍事行動や長期駐屯には、兵站基地の役割を果たす九州北部(筑紫)の確保が不可欠だったことになります。ヤマト王権にとっては「加羅確保=筑紫支配強化」だったのです。このふたつに対応するために、宣化政権から加羅の救援を命じられた大伴金村は、磐と狭手彦の二子に、職務を分担して目的遂行を図ったと研究者は考えています。
 伽耶防衛と北九州の兵站化は、メダルの裏表の関係であることを指摘しました。
このような国家目的の遂行の中心に大伴金村がいたことも押さえました。それでは「大伴・佐伯直=同祖兄弟氏族」とされていた善通寺の佐伯直氏はどのような動きを求められたのでしょうか。考えられることを挙げて見ると
①半島への戦略物資輸送用の船・水夫の提供
②馬具・武具などの戦略物資の拠出
③瀬戸内海航路の拠点としての白方港の提供と警備
④軍団の一員としての朝鮮半島派遣への従軍
⑤伽耶諸国亡命者(渡来人)の受入
具体的な史料はないのですが、佐伯直氏が大伴氏の支族として朝鮮半島政策に関わっていた可能性は強いと私は考えています。
もうひとつ佐伯直氏の朝鮮半島従軍を裏付けるものがあります。それが国の史跡になっている大墓山古墳(善通寺市)です。この古墳の特徴を以前に次のように要約しました。
①構築時期は古墳時代後期(六世紀後半)
②り県下では最後の前方後円墳(現在では菊塚がより新しいと判明)
③埋葬石室は県下では最も古い形態の横穴式石室=前方後円墳の横穴式石室
④玄室内部からは九州式「石屋形」が発見。→ 九州色濃厚
⑤被葬者は、空海の生家・佐伯直氏の祖先
2王墓山古墳2

王墓山古墳は石室内部には数多くの副葬品が残されていました。
 
1王墓山古墳1

その中で目を引くのは「金銅製冠帽」です。
冠帽とは帽子型の冠で、朝鮮半島では権力の象徴でした。冠帽を含め金銅製の冠は国内ではこれまでに30例程しか出ていません。ほぼ完全な形で出土したのは初めてだした。

DSC03536
善通寺郷土博物館
 王墓山古墳の副葬品で、研究者が注目するものがもうひとつあります。
それは、多数出土した鉄刀のうちのひとつに「銀の象嵌」を施した剣があったのです。象嵌とは刀身にタガネで溝を彫り金や銀の針金を埋め込んで様々な模様の装飾を施すものです。ここでは連弧輪状文と呼ばれる太陽のような模様が付けられていました。刀身に象嵌の装飾を持つ例は極めて少ないようです。 大墓山古墳に続く菊塚古墳からは、多くの馬具が見つかっています。

1菊塚古墳

これらの副葬品を、大墓山古墳の被葬者はどのようにして手に入れたのでしょうか?
 以前は、ヤマト政権から功績を認められて下賜されたと説明されてきました。しかし、この被葬者が6世紀中頃に、大伴氏に従軍し朝鮮半島に長期駐屯していたとすれば、直接現地で手に入れたことも考えられます。また、古墳の構造に九州色が強いのも、磐井の反乱鎮圧などの軍事行動に参加して、九州勢力と関係を深め、技術者集団を導入することができた結果だとも考えられます。
 どちらにしても、大墓山と菊塚の2つの古墳に眠る被葬者は、大伴金村などの配下で、九州や朝鮮半島で軍事行動をともにした武人であったのではないかと想像しています。
一方で大墓山古墳と斑鳩の法隆寺のすぐ近くにある藤ノ木古墳の相似性が次のように指摘されています。
 王墓山古墳と同じように六世紀後半の構築である藤ノ木古墳でも冠は潰されて出土していて、同じ葬送思想があったことがわかります。また、複数出土した鉄刀の1点に連弧輪状文の象嵌が確認されているほか、複数の副葬品と王墓山古墳の副葬品との間には多くの類似点があることが判明しています。そのため、王墓山古墳の被葬者と藤ノ木古墳の被葬者の間には、何かつながりがあったのではないかと考えられています。
これも大伴氏や蘇我氏とのつながりを物語るものかもしれませんが、裏付け史料はありません。
最後は妄想気味になりましたが、善通寺の佐伯直氏の本家とされる大伴氏には、伝承だけでなく、実際に軍事行動などを一緒に行った痕跡がある事を指摘しておきたいと思います。以上をまとめておきます。
①6世紀初頭の継体政権の朝鮮半島政策の責任者は、大伴金村であった。
②新羅の伽耶諸国への侵攻に対して、北九州を兵站基地として、朝鮮半島に軍団や戦略物資を送り込んだ
③それを担当したのも大伴氏で、各地から大伴一族に動員がかけられた。
④大伴・佐伯=同祖兄弟支族に基づいて、善通寺の佐伯直氏にも物資の供出・輸送・が求められた。
⑤また、佐伯直氏の中には軍団を率いて北九州に集結し、伽耶に渡り長期駐屯するものもいた。
⑥その中には、馬具や王冠などを入手し、大墓山や菊塚古墳に副葬品として埋葬した者もいた。
⑦これらの軍事活動を通じて佐伯直氏は、瀬戸内海や朝鮮半島の交易に参入し経済基盤を高めた。
⑧また直接的に朝鮮半島のハイテク技術や人材・国際性を獲得できる立場にあった。
⑨佐伯直氏が獲得した文化・技術・国際性・経済力の上に、空海は登場する
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「小嶋 篤(九州国立博物館)  筑紫・大伴・大伴部     「大宰府前夜 ─筑紫の大宰と豪族」
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