瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

中讃ケーブルテレビ「歴史の見方」で、満濃池と長谷川喜平次についてお話ししました。また7月中に毎日放送中です。時間と興味のある方は御覧下さい。
番組は、こちらのユーチューブからも御覧いただけます。
https://youtu.be/t-oyJJ76eok

郷土史講座 満濃池と西嶋八兵衛

上記講座で使用した資料を中心にアップしておきます。時間と興味のある方は御覧下さい。

満濃池 3人の再築した人物

満濃池は8世紀初頭に築造されたとされますが、何度も決壊しています。空海の修復後も源平合戦頃には決壊したまま放置されます。そのため池跡が開発されて、池之内村ができていたと伝えられます。それが再築されるのは天下泰平になった江戸時代初期です。それを指揮したのが西嶋八兵衛ということになります。今回は、この西嶋八兵衛について見ていくことにします。

西嶋八兵衛 どうしてやってきたのか

これらについては、西嶋八兵衛が藤堂高虎の子飼いの腹心であったためであったと答えられます。まず主君の藤堂高虎を見ておきましょう。

西嶋八兵衛と藤堂高虎


藤堂高虎は、今年の大河ドラマの主役である秀吉の弟秀長に見いだされます。その後、主君を秀吉→家康と乗り換えて、戦乱を生き延びていきます。「戦乱の風見鶏」と評される由縁です。さらに晩年に駿府に隠居した家康の傍らに仕えて、絶大な信頼を得ます。外様大名でありながら譜代大名あつかいとなり、時の老中と親族関係を結ぶなど大きな政治力をもつ存在になっていきます。西嶋八兵衛は、その藤堂高虎に、若い頃に仕官します。英才教育を受けて栄達していきます。それを年表で押さえておきます。

西嶋八兵衛 藤堂高虎の英才教育を受けた

西嶋八兵衛の父は、もともとは藤堂高虎に仕えていましたが病気で浜松に隠居していました。八兵衛が17歳になると、駿府にいる高虎を訪ねています。見所があったのでしょう150石で小姓に取り立てられています。以後、高虎の身近にあって、英才教育を施されていきます。そして高虎の信頼を得た若者に成長していきます。
  
どうして西嶋八兵衛は、讃岐にやってきたのか?

西嶋八兵衛 生駒家と藤堂家は親族

生駒家3代目の正俊が突然若死にします。残された4代目の高俊は11歳の幼年です。この時期の幕府は、難癖を付けては外様大名を取り潰したり、無理難題を押しつけていた時代です。生駒藩も幕府の標的になる可能性がありました。生駒藩の危機です。これを救おうとしたのが伊勢津藩藩主の藤堂高虎です。
 高虎は生駒親正
に深い御儀がありました。高虎には、主君の秀長(秀吉の弟)が亡くなると、無能な主君に仕えること嫌って高野山に出家して隠遁生活を送っていた時期がありました。その時に秀吉への再就職を勧誘・説得を行ったのが生駒親正です。これによって高虎は秀吉に仕え、伊予宇和島7万石の大名にリクルートできました。高虎は、親正に大きな恩を受けたことになります。その後は、上図のように高虎の娘が生駒家に嫁いできていて子どもを産みます。それが生駒家4代目の高俊になります。つまり高俊は高虎の孫でもあったのす。高虎と父正俊から一字ずつもらって高俊です。高虎は、このように親密な関係にあった生駒藩の危機に対して一肌脱ごうとしたようです。そこで全権委任大使として生駒藩に派遣されたのが若き西嶋八兵衛ということになります。
 家老待遇として生駒藩にレンタルされた西嶋八兵衛を待ち受けていたのは大旱魃でした。

西嶋八兵衛来讃時の讃岐は大旱魃


 八兵衛がやってきた
のは寛永二年(1625)ですが、翌年から災害が続きます。旱魃・台風と2年続きの凶作で餓死者がでます。農民達は土地を捨てて他国に逃散するものも現れます。生駒藩存続の危機が訪れたのです。これに対して右往左往する生駒藩の指導者達に対して、藤堂高虎はレンタルしている西嶋八兵衛にやらせろと命じます。こうして西嶋八兵衛を中心としての災害対策、つまりそれは丸亀平野や髙松平野などのの総合開発プロジェクトでした。

 ここで注意しておきたいのは、満濃池だけを西嶋八兵衛は作ったのではないと云うことです。ため池 + 土器川・金倉川の治水工事 + 灌漑用水路の整備という3つの要素を同時に行っているのです。しかもこれを讃岐全土で同時進行で行っています。これは西嶋八兵衛が単なる技術者ではなく、当時の政策担当者の中枢部にいたからできたことです。それを裏付ける史料を見ておきましょう。

大川神社へ寄進された鉦 西嶋八兵衛・尾池玄蕃


これは1628年(満濃池着工時)に、琴南の大川神社(権現)に寄進された鉦です。ここには上記のような文字が刻まれています。ここからは次のようなことが分かります。


①大川神社は権現で、修験者たちの管理運営下にあったこと。


②雨乞い祈願用に、生駒藩奉行(家老)が寄進していること


③それをとりまとめたのが尾池玄蕃であること。


②の三人の奉行の中に西嶋八兵衛の名前があります。彼が生駒藩中枢にあり、政務を担当していたことが裏付けられます。また丸亀平野の担当が尾池玄蕃であったこと、当時の生駒藩が大旱魃に対して、権現の力を借りて雨を降らせようとしていたことも分かります。
それでは、西嶋八兵衛が讃岐にやってきたときに満濃池はどうなっていたのでしょうか?

満濃池営築図2 矢原家
満濃池営築

西嶋八兵衛がやって来た時の満濃池跡です。地元の矢原家に残っていた絵図です。

①の左下から中央を通って上に伸びていくのが金倉川で、川の中には大小の石がゴロゴロと転がっている

②右側が「うてめ」(余水吐)跡で、機能を失って川のように描かれている。

③金倉川を挟んで2つの岡があり、左(東)側が「護摩団岩」で空海がこの岩の上に護摩団を築いて祈祷を行ったとされる。この岩は今では満濃池に浮かぶ島となっている。

④右(西)側の丘に池の宮(現神野神社)が鎮座している。

古代に空海が再築した満濃池も③と④の二つの丘を堰堤で結んでいたとされています。それが崩壊したまま450年間放置されてきた姿が描かれています。つまり、ここに描かれているのは17世紀初頭の「古代満濃池の堤跡」なのです。


絵図の上方に描かれた堤跡の内側を見ておきましょう。

西嶋八兵衛 池之内村

④の池の宮の南側(上側)には、民家と農地を区切るあぜ道が描かれています。讃岐国名勝図会(1853年)には、次のように記します。

(満濃池)跡地は、(再開墾されて)五百石(25丁㌶)ほどの谷間の山田となった。人家も次第に増えて、池の内村と呼ばれる村ができていた。


ここからは源平合戦の頃に決壊した満濃池は、中世には農地化されて、内部に村ができていたことが分かります。これを「池内村」と呼んでいたようです。位置的には現在の神野寺の下あたりになります。ここには豊富な湧水があったようなので、それを水源とする村ができたのでしょう。

 
さらに絵図上部には、文字がぎっしりと書かれています。何が書かれているのか見ておきましょう。

西嶋八兵衛と矢原家

ここには工事が始まる2年前の寛永3年(1626)8月、奉行の西嶋八兵衛が矢原正直方へやってきたことが記されています。矢原家というのは、当時の池の内村の有力土豪だったようです。そして、西嶋八兵衛は当主と那珂郡の毎年の旱害について懇談します。その話を聞いて、矢原正直は池の内に所持している田地(500石=25町)を残らず差し出すことを申し出たと記されています。これに藩主は喜んで、後に褒美を取らせると約束します。ちなみにこれは後の池守となる矢原家にとっては、その正当性をしめす証拠資料ですから、記録として残され大切に保管されてきたようです。つまり、旧満濃池跡地の池之内村の領主が矢原家であったことになります。

 矢原家には、次のような文書も残されています


西嶋八兵衛と矢原家文書
御意として申せしめ候。仲郡満濃池上下にて、高五十石永代に遣わされ候間、
常々仕かけ水、堤まわり諸事由断なく、指図つかまつり、堅く相守るべく候ものなり。
よってくだんのごとし。 

寛永拾弐年亥四月三日   西嶋八兵衛之尤(花押)  
                  浅田右京 直信(花押)
矢原又右衛門(正直) 
ここからは池跡の25㌶(500石)を、藩に差し出したことへの恩賞として、藩主から代替地を満濃池周辺で与えられたこと、満濃池の池の守(管理人)に任命されたことが記されています。

こうして矢原家の土地寄進を受けて、工事が始まります。先ほどの絵図をトレスしたものを見ると、工期が日程が上段にはびっしりと書き込まれています。

満濃池着工と完成

冒頭の着工日と末尾の完成日時は上記の通りです。こうして西嶋八兵衛によって満濃池は再び姿を見せます。その満濃池を見ておきましょう。
西嶋八兵衛の満濃池
堰堤は、護摩壇岩と池の宮を結ぶようにして築かれています。そして現在の堰堤よりも前方にありました。この堰堤は戦後の嵩上げ工事によって、護摩壇岩だけを残して、今は池の中に沈んでしまいました。西嶋八兵衛が再築した満濃池の約200年後の姿を見ておきましょう。

満濃池遊鶴 
満濃池遊鶴(まんのう町蔵)
護摩壇岩と池の宮を結んで堰堤が築かれています。その向こうに拡がる池面を鶴の群れが飛んでいます。こうして満濃池は名勝地としても知られていくようになります。この絵図の5年後の讃岐国名勝図会に載せられた満濃池も見ておきましょう。

満濃池 讃岐国名勝図会2
ドローンで堤防北側上空から俯瞰した姿が満濃池を描く定番になっていきます。

江戸時代の満濃池は西嶋八兵衛が再築したスタイルが変化することなく踏襲され、維持管理されたことを押さえておきます。それだけ優れた設計だったことになります。これが崩壊するのは、新しい技術を取り入れ底樋を石造化したときに、技術が未熟で決壊します。同じ讃岐国名勝図会に載せられた矢原氏の屋敷です。

矢原邸 讃岐国名勝図会

矢原邸には空海が持ち帰ったかりんの大木があったとされますが、この絵図にはそれは見えません。描かれているのは大きな松の木が2本です。矢原家は移転地として満濃池の下の「池下」や「池尻」などに土地を支給され、江戸時代を通じて存続していきます。今でも満濃池周辺の土地は矢原家が所有しているようです。現在の矢原家周辺を見ておきましょう。


満濃池からの矢原家

満濃池堰堤から見た矢原家跡(こんもりとした森)

西嶋八兵衛は満濃池を再築しただけではない。丸亀平野総合開発プロジェクトを推進した。
地元でも西嶋八兵衛のことを知っている人は、そんなに多くありません。多くの人が空海が作った満濃池が存続していたと思っている人の方が多いように思えます。知っている人も「満濃池再築者」という点に限られています。しかし、彼が築造したのは満濃池だけではありません。同時進行で、次のようなため池の築造を行っています。
西嶋八兵衛 讃岐における業績一覧

これらのため池が西嶋八兵衛が作ったため池とされています。しかし、先ほど見たように彼は生駒藩の三人の奉行のひとりで、藩政の中枢にいた人物です。ただの技術者とはちがいます。各地の築造現場に頻繁に出向くことは難しかったのではないかと思います。また重臣が工事現場に常駐して指揮すると云うことは、当時の建設システムからは考えられません。黒鍬組のような土木技術者集団を引き連れていて、指示を受けた技術者たちが請け負っていたことが考えられます。その際の各地の庄屋たちの協力を取り付けるためのお膳立てはしたかもしれません。しかし、満濃池に西嶋八兵衛がかかりっきりで陣頭指揮をしたとは私には考えられません。問題提起としておきます。

もうひとつの問題提起は、満濃池を作っただけでは丸亀平野に水はやってこないということです。

西嶋八兵衛 丸亀平野総合開発事業の一環としての満濃池

池の水を下流に提供するためには、上記のように治水工事(既存の川の流路変更)と、灌漑用水路の整備がセットで求められます。つまり、丸亀平野の総合開発計画の実行ということになります。これはひとつやふたつの村の協力ではできません。多くの村々の庄屋たちの協力なしではできることではありません。西嶋八兵衛は、藤堂高虎が派遣した目付で、国奉行として藩政の中心にいたことからこそ立案・実行できたのです。満濃池の築造と同時期に行われた治水・灌漑を見ておきましょう。

満濃池水掛かり図.JPG 1870年
この絵図は、明治になって長谷川佐太郎によって再築された満濃池水掛の各村々とそこに至る用水路が水色で書き込まれています。上図を拡大して90度回転させて見てみます。

近世:治水整備後に整えられた灌漑網

これを見ると、用水路が東は土器川の左岸まで、西は金倉川を越えて、善通寺から多度津白方方面にまで伸びていることが分かります。灌漑受益の村単位の分布は、現在のものとほぼ同じです。そして、これは近世初頭に西嶋八兵衛が満濃池を築造して以来、大きくは変化していないようです。ここからは次のような事が読み取れます。
①満濃池の受益面積は桃色の髙松藩が最も多いこと。最大の受益者は髙松藩。
②土器川から分水導入している用水路は左岸にはないこと 土器川左岸は満濃池に依存していたこと
③金倉川も善通寺・多度津方面以外は、分水を行っていないこと。つまり、土器川と金倉川には灌漑機能はなく、放水路の機能を持たされていたこと。だから白色で描かれている。
④黄色の天領(五条・榎井・苗田)は、丸亀藩の給水分岐点であり、戦略的な意味を持っていたこと。
⑤善通寺・多度津白方方面は苗田村で一度金倉川に水を落とし、その下流で再度導水していたこと
⑥この水掛図で、最も灌漑用水が不足するのが多度津の白方方面であったこと。
このように丸亀平野一円に用水路を張り巡らせるために、どのような治水工事が行われたのでしょうか金倉川から満濃池用水路の導入口の③附近を拡大して見ます。③でそれまでの流路が変更され、新しく金倉川が人工的に作られたと丸亀市史は次のように記します。

西嶋八兵衛 四条川治水と用水路建設
つまり、満濃池再築以前には、③→④→⑤という流路で「四条川」が流れていたのを、③で放水路として金倉川を開削し、丸亀平野の西端に移動させ、中央部を洪水の被害を受けないようします。その上に新たな用水路網を開いたというのです。言い換えれば、満濃池用水は旧四条川の流路変更の上に作られたことになります。この工事が満濃池築造と同時期に、庄屋たちの分担作業で行われていたことが考えられます。その段取りをつけたのが西嶋八兵衛とその配下の土木技術者集団だと私は考えています。

③の金倉川からの分水点である水戸大横井を見ておきましょう。

西嶋八兵衛 水戸大横井

③の水戸大横井堰(まんのう町吉野下)は、パン屋さんのカレンズの近くの橋のすぐ上流に何代目かの堰が今もあります。ここでせき止められた水がコントロールされて用水路に流れていきます。附近には旧四条川の痕跡が残っています。また、金倉川は西へ西へと丸亀平野の西の奥まで追いやられ、象頭山の麓の「石淵」にぶつかって流れを北にとり、琴平の町中を通過して行きます。平野中央部に自由自在に流れていた暴れ川を、コントロールするために使われる土木技法の一つです。平野の角の山手に追いやり、中央には人工的な水路を通し、水害から水田を守るという手法です。
 ちなみに西嶋八兵衛が伊勢藩に帰国して開いたのが雲出井用水です。規模も建設方法、完成後の管理方法が満濃池用水によく似ていることは前回お話ししました。讃岐での経験が伊勢藩で活かされているように思えます。

西嶋八兵衛の雲出井用水

伊勢の雲出井用水 満濃池用水と類似点が多い

西嶋八兵衛は満濃池を完成させた後も、重臣の座にいながら各地で総合開発プロジェクトを進めます。

西嶋八兵衛の讃岐滞在2

そして満濃池完成後の8年後の1639年に、伊勢藤堂藩に帰ります。この年は生駒騒動が勃発した年です。生駒藩の家臣団の亀裂は深まるばかりで、押さえが効かなくなっていきます。沈み行く船を見捨てての、伊勢藤堂藩への帰国という形になります。彼にしてみれば20歳代後半から20年間に渡って、生駒藩に関わってきました。それが、生駒騒動という形で終末を迎えることにはいろいろな思いがあったはずです。
 ところが帰国した西嶋八兵衛に幕府から呼び出しがかかります。どんな用向きだったのでしょうか

西嶋八兵衛 生駒藩転封後の来讃

生駒騒動で生駒藩が改易された後は、幕府は高松藩と丸亀藩に2:1の石高比率で東西分割することにします。そうすると両藩の境界線が丸亀平野の真ん中に引かれることになります。これは満濃池の水掛かりが、ふたつの藩に引き裂かれることです。水利権の問題は複雑です。後世に問題を残さないように処理することが担当者には求められることになります。讃岐に派遣された幕府要人は、この課題処理のために白羽の矢を立てたのが、生駒藩奉行として満濃池築造するだけでなく、多くの民政に関わった西嶋八兵衛でした。彼は満濃池再築の責任者として、他国人ではありますが庄屋たちからはリスペクトされていたようです。庄屋たちから水利や里山利用の問題点を聞き取り、それを文書化して後に問題が起きないようにまとめて幕府要人に提出しています。そこには例えば満濃池管理について、次のように記されています。

西嶋八兵衛 満濃池水掛村鷹

西嶋八兵衛 満濃池水掛村高末尾鷹

これをまとめたのが西嶋八兵衛です。これを見えも西嶋八兵衛が満濃池の諸問題について、よく理解していたこと、同時に丸亀平野一円の庄屋たちの信頼を得ていたこともうかがえます。西嶋八兵衛の働きぶりに対して幕府要人は、小太刀一振りを与えてねぎらっています。有能な働きぶりだったことが裏付けられます。
伊勢帰国後の働きについては、前回にお話ししたので省略します。最後に西嶋八兵衛の業績と評価を振り返っておきましょう。

西嶋八兵衛 業績と評価

 天下泰平の時代がやって来ると、戦乱からの復興が政策者には求められるようになります。それまで放置されてきた農業への資本投下がやっと行われるようになります。新田開発と用水の確保はセットで求められますから大規模な治水灌漑工事がどの藩でも行われるようになります。その際に「転用」されるのが築城技術です。石垣などは、堤などにもすぐに転用できます。軍用技術の民政への転用というこになります。こうして家臣団の中に『民政臣僚』と呼ばれる集団が現れます。その走りが藤堂藩で、西嶋八兵衛もそのなかの一人だったようです。彼の場合は、その場がレンタル客臣として赴いた讃岐で、そこで讃岐平野全体の総合開発事業に家老として関わるようになったのです。そのシンボル的な事業が満濃池再築だったとしておきます。
 それでは西嶋八兵衛の讃岐での満濃池周辺での評価はどうでしょうか。
最初に見たように3人の満濃池再築者の中で、空海には遠く及ばず、長谷川佐太郎よりも知名度は低いといったところでしょうか。それでは西嶋八兵衛があまり知られていないのはどうしてなのでしょうか? 例えば満濃池に空海の銅像や長谷川佐太郎の顕彰碑はあります。これらは20世紀になって姿を見せるようになりました。

満濃池 空海の銅像
満濃池の空海像と長谷川佐太郎顕彰碑
ところが西嶋八兵衛のものは見当たりません。どうしてなのでしょうか?
それには次のような背景が考えられます。

西嶋八兵衛 銅像がないのはどうしてか

第1に西嶋八兵衛が讃岐の人ではなく他国人であったことです。そのために、後世に応援団(顕彰団代やファンクラブ)が育ったなかったことがあります。また、生駒藩がなくなったことです。そのため西嶋八兵衛の業績についての資料の多くが失われました。また、その後にやってきた松平髙松藩では、初代松平頼重がカリスマ化されていきます。その結果、先代の生駒藩の偉人伝は語られることがありませんでした。西嶋八兵衛は江戸時代には讃岐では忘れ去られた存在のようになていました。それが再評価されるのは、近代になってからです。こうして満濃池周辺では銅像も顕彰碑も建てられなかったようです。ただ髙松では、木太北部公園のように地域興し事業の一環として顕彰碑が姿を見せるようになりました。
西嶋八兵衛功徳費 

西嶋八兵衛が満濃池に着工し、完成させた年をもう一度見ておきましょう。

西嶋八兵衛 満濃池再築400周年
2年後が着工400周年 5年後が完成400周年にあたるようです。これを機会に、西嶋八兵衛の再評価が進み、銅像建立につながればと願っている私です。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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