長谷川喜平次

中讃ケーブルテレビ 歴史の見方で、満濃池と長谷川喜平次についてお話ししました。その内容をアップしておきます。また7月中に毎日放送中です。時間と興味のある方は御覧下さい。
Q1 江戸時代の満濃池の底樋やユルは、どんなものだったのか?   
                              
満濃池の底樋模型

 当時はコンクリートはありませんので池の底樋とユルは木で作られていました。時代を経るに従って技術力が高まり耐用年数は長くなりますが、木製ですので永久的なものではありません。20年から30年で交換しなければ腐食して、水漏れを起こして堤防の決壊を招く危険性がありました。

木製底樋
木製の底樋 当時の最先端技術で専門の大工によって作られたもの
Q2 どうして長谷川喜平次は、木製から石組みの底樋に変えようとしたのでしょうか
木製底樋では、決壊を防ぐためには定期的に交換する必要がありました。交換のためには堤防を掘り下げなければなりません。そのために多くの農民が讃岐中から動員され、約一週間ほど寝泊まりして従事しました。この負担は大きく、農民達は次のようなザレ歌を残しています。
 
満濃池普請
 
ここからは農民が満濃池普請を嫌がっていたことが伝わってきます。   
 そのような中で19世紀になると「技術革命」が起きます。そして平賀源内や伊能忠敬のような新しい科学知識や土木技術新を身につけた人達が登場します。そのような中には、底樋を石組みで作る技術者も現れます。そうすれば、交換する必要がありません。メンテナンスフリーになります。これを見た長谷川喜平次も「石組みの底樋」を満濃池に採用します。その根底には、農民の負担軽減という思いがあったのだと思います。
Q3  この時の様子を描いた満濃池普請図からは、どんな情報が読みとれますか?

満濃池普請絵図 嘉永年間石材化4
長谷川喜平次による石組底樋への転換工事
① 左側の丘が護摩壇岩です。空海がここで護摩を焚いて安全祈願したといわれます。
右側の丘に池の宮が鎮座しています。
③ このふたつを結んで当時の堰堤は造られていました。
一番下の矢倉樋が備え付けられています
堰堤が掘り下げられて、底樋が据え付けられようとしています。
⑤ 石材が牛に曳かれて運び込まれ、それを大勢で引っ張っています。

満濃池普請絵図 嘉永年間石材化(底樋) - コピー

 面白いのは見物人まで描かれていることです。

満濃池普請見学

川のこちら側には、金毘羅に長逗留している金持ちたちが芸者をつれて、工事見物にやってきています。大工事は、見物人が数多く集まる所でもありました。同時に、新工法に対する当時の人びとの期待感もあったのかもしれません。

Q4 満濃池が決壊した原因は?
 ひとつは、技術的には未熟で、堤防にかかる水圧に耐えきれなかったことです。
 近年に見つかった榎井村の百姓総代が倉敷代官所へ提出した文書には次のように書かれています。

長谷川喜平次 農民の訴え

ここからは改修工事は「欠陥工事」で、近々に壊れるだろうという認識が農民達の間にはあったことが分かります。
 これに追い打ちを掛けたのが大地震です。改修が終わった翌年1854年6月14日に畿内を中心に大きな地震が起きます。この揺れで石材が折れたようです。それから約20日後に、底樋あたりから濁り水が噴出し始めます。そして4日後には亀裂が拡がって堤防は決壊します。こうしてみると決壊原因は、新採用の石組底樋工法の未熟さと大地震が重なったためと云えそうです。

Q5 石組底樋を導入した長谷川喜平次の評価は、どうでしょうか
彼には2つの評価があります。まず当時の農民達は、未熟な技術を導入し、決壊を招いた張本人というキビシイ評価をしています。
 これに対して、後世になると再評価の動きが出てきます。それは、明治維新前後に満濃池再築を行った長谷川佐太郎が喜平次の失敗に学んで、岩盤に穴を開けて底樋とする手法としたからです。これは喜平次の先例がないと実現しなかったかもしれません。こうして最先端技術の導入者として彼を評価する見方が出てくるようになります。今では、郷土史の書籍は、後者の面からプラス面で彼を評価するものが多いようです。

Q6 長谷川喜平次が導入した石組みとは、どんなものだったのでしょうか

満濃池底樋石組化

  金倉川の改修工事中に、川の中から決壊でながされた石組みの一部が出てきました。その底に当たる部分を並べたのがこれです。このような形で石組で底樋としたと推測されています。底の部分がまっぷたつに折れています。想定外の力が石組みにかかったことがうかがえます。

満濃池底樋石造化工事2


番組は、こちらのユーチューブからも御覧いただけます。
https://youtu.be/t-oyJJ76eok

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