箸蔵寺は金毘羅大権現(現金刀比羅宮)の奥の院と称されてきました。その由来は、金毘羅大権現で使われた神箸を、天狗が箸蔵寺の奥の院蔵谷まで運んで納めていたために名付けられたとされます。しかし、この寺については、中世から近世はじめの歴史は、よく分かりません。近世になって金毘羅大権現が流行神として急速に成長してきたように、箸蔵寺も近世後半になって「金毘羅大権現の奥の院」として急速に発展したようです。しかし、史料が少なく手がかりがなかなか見つからないのです。そんな中で、箸蔵寺の建造物が重要文化財に指定される際に作られた報告書を三好市の図書館で借りることができました。これをもとにして、箸蔵寺の歴史を探っていこうと思います。テキストは「宝珠山真光院箸蔵寺調査報告書 2004年 池田町教育委員会」です。最初に年表を掲げておきます。

828 天長五年項 空海が箸蔵山で金毘羅神将から、この山に道場を建てよとの誓願。
七堂伽藍を建て薬師如来像を刻んで安置したという。「由来略記(箸蔵寺記)」
901 延喜年間  阿闍梨宥範のとき、 醍醐天皇第三皇子法三宮を迎え十二院の塔頭、五十有余の堂宇。「箸蔵寺記」
平安末期~鎌倉末期    記録がない。 「箸蔵寺記」
1460~66寛正年間 傑僧相次ぎ、盛観を徐々に取り戻す。 「箸蔵寺記」
1532~55天文年間 六十八の堂塔の旧観を複する。
1582  天正十年 長曽我部の阿波侵攻によって兵火に遭遇、宥典阿闍梨が身を捨てて医王仏を守る。
1588 天正十六年 宥観阿闍利が復興に努める。
      地福寺旧記には地福寺の宥伝とその弟子真光寺宥寛が再建をしたとの説もある。
1593 文禄二年 宥観阿闍梨、藩主蜂須賀蓬庵の登山に際し由緒言諸堂再建の大施主と仰ぎ、境内地と永代寺領三百石を賜る。
1596 慶長年間 讃岐で金毘羅信仰が始まる

お寺の歴史を知る場合には、その由来記を見るのが常道です。 報告書には、箸蔵寺の最初の由来書である「由来略記」が全文載せられています。これを見ていくことにします。「由来略記」が書かれたのは江戸時代半ばの明和3年(1766)年のことで、書いたのは高野山金剛峯寺の南山門霊です。ここでは近世半ばになるまで箸蔵寺には由来書がなかったこと、そしてそれが地元の箸蔵寺で書かれたものではなく、高野山の僧侶が書いていることを押さえておきます。長くなりますが「由来略記」を読んでいくことにします。(原文は漢文)

箸蔵寺由来略記1
箸蔵寺由来略記 明和3年(1766)年 高野山金剛峯寺の南山門霊
以下の冒頭文は、空海の筆によるものとします。
夫具明目者、善視隣虚至義、有數術者、亦量蘇迷太洪、 獨絶視離量者、其惟本地法身也。 爰有山、 在阿之北境、起伏自不凡、似有含光者、躋則週一神人、日法之行也、地霊為之羽翼、此山之霊、亦足以図利生、須其顧悲願以賛我志 是我本地醫王佛之本誓也、余於是始知、神人之為金毘羅神路
天長五年             空海
意訳変換しておくと
 ここに山在り、その山は阿波北辺あり、常ならない起伏で輝き光る。これは神人が活動していることの証である。地霊は羽翼し、山の霊は、人々に利生をもたらす。これは我の悲願で本地でもある醫王佛の本誓でもある。私は、この神人こそが金毘羅神であることを始めて知った。
天長五(828)年             空海
  ここには空海と金比羅神の出合いが書かれています。空海と金毘羅大権現という二大スターを登場させて、その由縁を語ろうというのです。役者としては充分なキャスティングです。以下、空海が箸蔵寺を建立するまでの詳細が次のように述べられていきます。(以下意訳)

當山は弘法大師と金毘羅権現の契約の地で、五十三代淳和天皇、天長五(828)年の開基である。この年、弘法大師が高野山造営後に、父母の舊跡を整えるために讃州善通寺に帰ってきた。その時に、夜中に南の山に金色の光が立ち昇るのを見た。訝しんで光を追って鬱々たる樹木が茂り、人跡のないところまでやってきた。錫を止めて休んでいたが、喉の乾きを潤すための一滴の水もない。そこで金剛杵で加持祈祷を行うと、たちまち神水が涌出した。そこへ善女龍王を勧請した。この泉は今も旱魃の時には遠近の村里がやって来て雨を祈る。すると必ず験があることが知られている。この神泉は、いつも増減なく一升ほどの水をたたえているので一升水と呼ばれている。

ここまでで読みとれる情報を列挙しておきます。
①空海が金色の光の根源を確かめようと、阿讃国境の山に深く分け入ったこと
②そこで神水に善女龍王を勧進したのが、一升水とよばれる雨乞祈祷の聖地で蔵谷
 ここには、金色の光を追ってやってきた所に、弘法大師が泉を湧かせたことが記されています。これは弘法大師の神泉伝説のひとつのパターンであることは以前にお話ししました。注意しておきたいが神泉伝説と雨乞の善女龍王信仰がドッキングして語られていることです。しかし、今ではこの部分は忘れ去られているのか善女龍王の雨乞祈祷については、箸蔵寺ではほとんど触れられていないようなので、改めて押さえておきます。弘法大師が天長元年(824)に神泉苑で雨乞法を行ったときに現れたのが善女竜王です。

善女龍王 本山寺
善如(女)龍王(本山寺) 男性唐服姿のタイプ
以後、雨を降らせる神として高野山や醍醐寺などで祀られるようになります。これが善通寺にもたらされるのは江戸時代前期(1678年)のことで、高野山の高僧浄厳が善通寺誕生院主宥謙の招きで讃岐を訪れた際のことです。これは箸蔵寺由来略記が書かれる約90年前のことです。
 「浄厳大和尚行状記」には次のようなことが記されています。
A 浄厳が善通寺に逗留していた際に、旱魃に遭遇し「善女龍王」を新たに勧進したこと
B 雨乞修法を行い成就させこと
C 「金堂(東院)の傍らの小社(善女龍王社)」をが建立したこと
5善通寺
善通寺東院の善女龍王社(碑文は善女龍王 雨乞祈念)

現在でも善通寺東院には、善女龍王社が残っています。これ以後、讃岐では善女龍王信仰が拡がり、財田の渓道神社などに善女龍王が勧進され、雨乞の聖地とされるようになります。そこで雨乞祈祷を行うようになるのが修験者(山伏)たちです。善女龍王を登場させるのは、「弘法大師(善通寺)+金毘羅大権現(琴平)+善女龍王(財田)」という当時の箸蔵寺周辺の修験者たちの活動エリアが背景にあると私は考えています。修験者たちが善女龍王を登場させてくれと云う依頼をしたのかもしれません。どちらにしても当時は、讃岐の農民達の間に善女龍王信仰が拡がって修験者による雨乞祈祷が行われ始めた時期でした。その聖地のひとつに箸蔵寺が名乗り出ていたことになります。
次の段は、弘法大師と金毘羅神(大権現)の出合い場面が記されています。

 弘法大師が神泉の樹下に宿していると、山中が鳴動して、大木が倒れ、礫を打ち、大叫喚の声がした。大師はこれが魔障であることを知っていたので、湛然として動かず、石上に結跏し、大金剛三味で魔佛一如と見た。そして大般若經を讀誦すると、その文字ひとつが金色の形となって、虚空に並んだ。すると、異類どもが姿を現し、弘法大師に再拝稽首して次のように述べた。我らは宮毘羅大将實類(金毘羅大権現)の眷属なり、非愍を垂れてし給へと乞ふ。すると山中は赤く染まり巌窟より一陣の火が燃え上がり、光明の中に黒色忿怒の大葉奮然が現れた。七千の夜刃無量の守護者が大師に向って微笑んで次のように云った。

最初に、手先の眷属(天狗)たちが現れ、そして次に主役の金毘羅大権現が登場します。

吾(金毘羅大権現)は東方浄瑠璃世界醫王の教えを受け、十二微妙の力を持ち、天下國家、福天地開闢の初まりとなり、海上の風波を止め船舶安全の力も持つ。この窟跡を住処とする宮毘羅大将で、別名を金毘羅大権現ともいう。私は、ここから北東の象頭山へ毎日、眷属と共に往来している。ここでそなたに遭ったからには、一寺を創建し、 金毘羅大権現の本地仏である薬師如来を安置することを願う。この山は加佛成道の場所で、迦牟尼佛の説法の道場でもある。我の願いが叶うならば、寶珠を永くこの山に安置し、無量の利益を施すであろう。そして、衆生と私との縁結びのために、象頭山の祭祀で使った俎豆の箸を、眷族たちに運ばせて、これを証としたい。そう言い残すと、金毘羅大権現は再び巌窟に入った。

弘法大師がその山の形を見ると、八面で、白雲が外にたなびき、碧鬱々として、四時色をかへず、あたかも瑠璃資珠を捧げ出す姿に見えた。この地こそが佛の成道する地である深く感じ、金毘羅大権現の願い通りに、ここに七堂伽藍を建立することにした。金堂には王佛の尊像を、自ら彫刻し、三重塔には五智の尊像に佛舎利二十五を収めて供養し、大門や中門・寶經・厳選廊を備えたフル装備の伽藍を完成させた。こうして、山を蔵山、寺は箸が蔵に運ばれてくるので箸蔵寺と名付けた。奥の院の洞窟も箸蔵谷と呼ばれるようになった。また院号は、金色に光る山にあるので眞光院とした。そして金毘羅神の眞像に、脇士として不動明王と毘沙門天の二尊を香木で造り、本殿を造営し奉じ大権現として崇め奉った。周囲八町四方の内は邪結界の地として、例年十月十一日の夜には象頭山より俎豆の箸が天狗(眷属:山伏)によって運ばれてくる。これは今も変わりない。そのため十月十一日の夜は、必ず熱い風が吹くことは人々の知るところである。
 信仰なき者も箸を手に取る者であれば、皆結縁の人である。箸蔵寺は病を救い、家内安全、福増長、海上安全の御願を適える霊山である。
明和三(1766)年乙丑夏日 史料 地福寺旧記 尚又別 半紙断片
                       金剛峯寺 霊瑞南龍書
 ここには金毘羅大権現が弘法大師と出会って「済世利民」の神託を授けられたことが記されています。その神託は「箸を挙(あ)ぐる者、我誓ってこれを救はん」というもので、「箸を挙ぐる者」というのは、全ての人々を救済するという誓いとされます。これが箸蔵寺の名前の由来になります。金毘羅大権現の神託を得て、弘法大師は神像を刻んで本尊(秘仏)とし、七堂伽藍をこの地に建立して、当山を開創したと記します。「権現(ごんげん)」とは「かりにあらわれる」ことを意味し、仏さまが日本の神様にすがたを変えて仮(借)りの姿として現れたものです。これを本地垂迹説といい、「金毘羅大権現=薬師如来を守護する「薬師十二神将」の筆頭天部の「宮毘羅(くびら)大将」ということになるようです。言い換えると、金毘羅大権現の本地仏は、「宮毘羅(毘沙門天)大将」、あるいは薬師如来ということになります。

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                   箸蔵寺本堂に掲げられた天狗絵馬(天狗信仰の証)

箸蔵寺については、本尊の薬師如来信仰が古くからあったこと、江戸初期には多少の土地が藩から安堵されていたこと以外には、よく分かりません。しかし、「状況証拠」としては、周辺には数多くの修験者がいて、近世後半になって台頭する典型的な山伏寺だったようです。
箸蔵寺がはじめて金毘羅へ挨拶に来たのは、宝暦12(1762)年のことです。

箸蔵寺の金毘羅大権現への接近
「由来略記」は、それから間もない明和6(1769)年に、高野山の霊瑞によって作られています。
「由来略記」には、弘法大師伝説と金毘羅大権現が「接ぎ木」されていることは先ほど見たとおりです。そして、金毘羅さんのお祭りの時に使われた箸を、箸蔵山にすむ天狗様が運んで納めたという「天狗の箸運び伝説」を附会します。そして箸蔵寺は以下のような布教戦略を展開します。

箸蔵寺の金毘羅大権現化戦略

こうして箸蔵寺の天狗(修験者)たちによる金毘羅信仰の全国への布教・勧進活動が始まります。箸蔵寺の成長戦略に、金毘羅大権現にあやかって寺勢拡大を計ろうとする意図が最初からあったことがうかがえます。それを正当化するために書かれたのが「由来略記」だと私は考えています。ここで注意しておきたいのは、本家の金毘羅大権現の別当寺金光院は、箸蔵寺が奥の院であることは一切認めていなかったことです。別当院のあずかり知らぬ所で、箸蔵寺の修験者たちは金毘羅大権現のご開帳を行うようになります。

金毘羅大権現扁額1
                箸蔵寺の金毘羅大権現扁額
 19世紀になると箸蔵寺の修験者たちによる金毘羅大権現の贋開帳事件が各地から報告されるようになります。本家の琴平の金光院には、箸蔵寺の贋開帳記録が次のように残っています。
①天保6年10月 箸蔵寺が、金毘羅の隣りの天領苗田村長法寺で、平家の赤旗など持ち込み、剣山大権現や金毘羅大権現といって開帳。
②11月   箸蔵寺で金毘羅蔵谷出現の奥の院といって開帳。
③天保7年6月  金光院が箸蔵に派遣した調査報告では、神体は岩屋で神像はなかった。
④天保15年 箸蔵寺で贋神号事件が再度発生、
⑤弘化2年4月 贋縁起札守版木など、郡代役所から引渡され、一応落着。
⑥嘉永二年 箸蔵の大秀という修験者が、多度津で銅鳥居の勧進を行い、多度津藩に召捕えられる
⑥嘉永4年、 箸蔵寺、再度贋開帳。
このように箸蔵寺の修験者たちは、長期に渡って金毘羅大権現の贋開帳事件を起こしています。そして贋開帳事件の責任をとって、院主が阿波藩から二度も追放されています。しかし、それでも贋開帳事件は続発します。贋開帳を行っていた箸蔵寺の修験者たちによって「箸蔵=金毘羅さん奥の院」説は流布されたのです。それだけ多くの山伏たちが箸蔵寺の傘下にはいたことになります。

金毘羅神 箸蔵寺
箸蔵寺で配布されていた金毘羅大権現の掛軸
以上をまとめておきます
①箸蔵寺の中世のことはよく分からない
②近世初期には藩からの保護を得たが、当時は小さな山寺程度の規模のものでしかなかった。
③近世中期になると、三好周辺には多くの修験者が集住するようになる。
④その中で箸蔵寺の修験者たちは金毘羅大権現の多聞院に接近し、金毘羅大権現を勧進し教勢拡大を図ろうとする
⑤そこで高野山の僧侶に依頼して「由来略記」が作られ「箸蔵寺=金毘羅大権現の奥の院」説が生まれる。
⑥それを信じた箸蔵寺の修験者たちによって贋開帳が各地で開かれるようになる。

こうして見ると由来略記の果たした役割は、次のように云えます。
A 修験者の箸蔵寺に弘法大師と金毘羅大権現が接ぎ木されることによって、
B「金毘羅大権現の奥の院」と「四国霊場別院」という大義名分を得た。
C それが江戸後半から明治にかけての急成長につながった
 その教勢拡大の担い手は、金毘羅大権現とおなじように天狗信仰をもつ修験者(山伏)たちでした。彼らの布教・勧進活動の成果が幕末の伽藍や参道の玉垣・燈籠整備につながることになります。これは日本列島全国だけでなく、日清戦争後は朝鮮半島や中国大陸にもおよんでいたことが朝鮮や満州からの寄進者の名前があることからもうかがえます。明治になっても箸蔵寺の天狗(山伏)達の活動は衰えていなかったのです。

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箸蔵寺参道の天狗

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献「宝珠山真光院箸蔵寺調査報告書 2004年 池田町教育委員会」
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