前回には、箸蔵寺の創建について次のようにまとめました。
A 近世以前の史料は箸蔵寺にはないこと。つまり、金毘羅大権現と同じように近世初頭に生まれた寺院であること。
B 箸蔵寺再興(創建)は、地福寺の修験者たちによっておこなわれたこと
C そのための箸蔵寺は修験者(山伏)の拠点として発展していく。
まず、箸蔵寺が蜂須賀家の保護下に、どのように置かれたのかを見ておきましょう。
秀吉は四国平定を行うと、天正13年(1585)に蜂須賀家政を阿波に入部させます。支配が安定化した文禄2年(1593)になると、藩主が国内巡視を行うようになり、三好にもやってきます。その時に、箸蔵寺の宥観(寛?)阿闍梨は由緒を言上して藩主を諸堂再建の大施主と仰いで帰順を示します。これに対して藩主は、境内の免地と永代寺領三百石を与え、次のような禁を下して保護をしたと記します。
定 著藏寺一 當山において、他所之ものむさと入りこみ材木きる儀、堅令停止候条、所之者としてせいたう可仕事一、竹の子並ひね竹壱本もきるべからず、 是又堅可相留事一、 桑之木、並茶之木、これ又伐べからざる事文禄二年四月三日 蜂須賀(花押)
意訳変換しておくと
定 著藏寺一 当山において、他所から入り込み材木などを切ることを今後禁止する。もし禁令を犯せば成敗する。一、竹の子やひね竹なども、一本でも切ることを許さない。堅く守ること一、 桑の木や茶なども、これを伐ってはならない文禄二(1593)年四月三日 蜂須賀(花押)
藩主が与えた「境内の免地と永代寺領三百石」というのは、金毘羅大権現の別当金光院に生駒家が与えた寺領に匹敵します。私は、これをそのまま信じることはできません。また、禁令を見ると、当時の箸蔵寺周辺には竹や桑・茶などが「栽培」されていたことがうかがえます。竹は、竹篭などの竹細工の材料、桑は養蚕、茶は中世以来のこの地区の特産品です。
私が気になるのが「箸蔵寺の住職が宥観阿闍梨」と記されていることです。前回見た地福寺旧記には、近世の箸蔵寺の再建者は、地福寺の宥伝とその弟子の真光寺・宥寛だと記されていました。そうだとすれば、宥観と宥寛は同一人物の可能性もあります。近世初頭の箸蔵寺の梶取りは、地福寺関係者がになっていた可能性を指摘しておきます。
徳川幕府は、各宗派の本山を寺社奉行の支配の下に置きました。
寛永十年(1633) には、諸本山に命じて「末寺帳」を提出させています。これによって全国の寺院が、本山→本寺→中本寺→末寺孫末寺に格付けされ、ランキングが固定化されることになります。三好郡では、箸蔵寺・桂林寺・雲辺寺などが中寺として郡代の直接支配下(郡代直当) に置かれました。その他の末寺は、その支配下に服することとなり、「付帳」に記載されます。本寺は末寺に対して書を示し、末寺に対して誓紙を入れ厳しい支配をうけることになります。このような流れの中で箸蔵寺は、慶安四年(1651) に、御室御所 (仁和寺) 上席資格の中山となり、ランクアップに成功します。こうして直属末寺の支配だけでなく、近国の寺院に対する色補任状取扱いを許される寺となります。そして地福寺や真光寺を末寺にしていくことになります。
明暦四年(1658) 「三好郡之内州津村棟付人改御帳」(注12)の州津村と箸蔵寺
州津村全体で家50戸、 人数179人 (男子のみ)、 高合318石三斗七升七合壱家、 箸蔵寺、歳三十七、同宿人(弟子?) 歳十五、 寺の小家の下人が二戸で七人
意訳変換しておくと
一 壱ケ寺 宝珠山箸藏寺 歳参拾弐(住職)張紙箸藏寺は諸役御免となっており、その配下の下人は無役であり、棟付帳に書き込まれていない。この度の検地で箸藏寺境内にも竿入(測量)が行われ、「諸役御免」の申立があり協議確認が行われた。関係する畠数一町八反歩については下人についても、今まで通り免除扱いで処理され、その旨が担当者の加嶋伊織殿より申し渡された。棟付帳についても下人も無役であることについて、張り紙をして証明できるような処置することを、聞届けていただくことになった。享保16(1713)年十二月林九平 印岩田吉兵衛 印安富丞右衛門 印
以下、箸藏寺の下人が記されています。
小家 作 同四拾八(年齢)この者は脚が不自由であるので、野々村左門様が作成時には母親が連去っており不在であったために記載漏れになっていた。寛文六年に戻ってきた。箸藏寺下人小家 彦十郎 同四拾八この者は野々村左門様の作成時には同郡東山村へ入婿に入っていて不在だったが、寛文三年にもどってきた。彦十郎子壱人 七歳 (以下略)
末尾に、州津村全体で家86戸、人数242人(男子のみ) 高合331石5斗四升二合と記されています。ここからは次のような事が読み取れます。
①この「棟付帳」で、始めて箸蔵寺に「宝珠山」の山号が付けられたこと。
②箸蔵寺が諸役御免と無役の下人、畠1町八反三歩の御免を受けていたこと。
③最後に「(石)高合(計)331石」とあるのは、州津村全体の石高で寺領の石高ではないこと
以上から、箸蔵寺は貢納負担を免除された上に、藩の夫役を免除された「下人」(百姓や雑役夫)を抱え込んで、自由に使役することができていたことが分かります。
①この「棟付帳」で、始めて箸蔵寺に「宝珠山」の山号が付けられたこと。
②箸蔵寺が諸役御免と無役の下人、畠1町八反三歩の御免を受けていたこと。
③最後に「(石)高合(計)331石」とあるのは、州津村全体の石高で寺領の石高ではないこと
以上から、箸蔵寺は貢納負担を免除された上に、藩の夫役を免除された「下人」(百姓や雑役夫)を抱え込んで、自由に使役することができていたことが分かります。
明和6年(1769)の「三好郡州津村人数下調御改帳」を見ておきましょう。
(州津)村全体で家一五七戸、人数三六一人 (男子のみ) 高合、 三三六石一升七合三句一壱ヶ寺 宝珠山箸蔵寺 比箸蔵寺往古より諸役御免 二面下人等無役被仰付尚又境内畠数壱町八反三歩御免地二而拝領居申候」
ここからは州津村の戸数が百年で約2倍の157戸、男子人口も1,5倍に増加しています。しかし、石高は微増に留まっています。この時期になると寺の弟子も三人、小家も七戸、下人も十三人となり、畑作面積も1,8㌶にまで増えています。さらに寺の規模が大きくなっています。ここでは下人について次のような説明文が付けられている者がいます。
箸蔵寺下人 小家 為六 四拾四(年齢)この者は、讃岐丸亀藩の財田村の者で18年以前にやってきて箸蔵寺の下人に召し抱えられ、境内の御免地で生活している。
以下の二人も讃岐丸亀藩出身の下男です。
権六 58歳 この者は、讃岐丸亀藩の大見村出身治平 46歳 この者は、讃岐丸亀藩の大野原村出身
丸亀藩からやってきた百姓が箸蔵寺境内に住み着き下人として暮らしていたことが分かります。彼らを箸蔵寺へ誘引したのも讃岐の三豊地方で活動する修験者だったことが考えられます。
文化期(1804) の「代帳」には、箸蔵寺の延宝2年(1684)以来の累代の名前と没年が記されています。
文化期(1804) の「代帳」には、箸蔵寺の延宝2年(1684)以来の累代の名前と没年が記されています。
「代統帳」箸藏寺累代住職名
意訳変換しておくと
意訳変換しておくと
宝珠山 此僧延宝貳年棟付御帳付二而箸蔵寺 元禄六酉二月八日病死宥保 この僧は享保20年十月二日に病死運智 この僧は元文3年七月廿三日病死寬悟 宝暦七 隠居 同八年寅戌再住勝應 此僧宝暦八年 正月廿一日病死寬悟 此僧後住の勝應が病死したために再度住職に復帰寺役を務め宝暦12年三月廿一日病死見光 此僧宝暦12年三月廿一日病死雲龍 此僧寬政二年二月七日病死俊珍 此僧文化 正月十一日病死箸藏寺現住職 寬雅 申歳47才
ここには元禄以前の住職名は記されていません。地福寺や真光寺からやってきた宥元や宥寛の名前はここにありません。そして、名前に「宥」を持つものもいません。代替わりが行われて、其れより前の住職の系図が失われたか、意図的に消去したことが可能性があります。
その後に直属下人9名とその累代の小家下87名が記述さています。また、この時の台帳には箸蔵寺下人の累代の系図も記されています。代々、箸蔵寺に仕える下人であったことが分かります。文久元年(1861)年に住職の仙岳が著した「箸蔵寺旧記聞伝覚書」には、文化年間(19世紀初め)に箸蔵寺周辺で活動した修験者の宗休について次のように記します。
当寺の奥の院蔵谷で火断木食や断食を行い、諸高山霊跡にて参修行を行い、時々当山に来て唯一山の復旧を語る。身は天狗と化して天保四年の秋に身をかくした。
ここからは箸蔵寺周辺の行場で天狗になることを目指して荒修行に専念する天狗信仰の修験者たちがいたことが分かります。それを誇らしげに記しています。彼らにとって、「奥の院蔵谷」は弘法大師によって開かれた名高い行場で、聖地でもあったことがうかがえます。そして、19世紀になると運智・快典が住職となり、「金毘羅大権現奥の院」を前面に出して全国展開を始めて信者層を全国に広げます。それを担ったのが修験者たちでした。

世話人 平右衛門 平藏寶珠山箸藏寺文政九年の春當山諸堂一宇も残らず焼失す、 其後仮堂社を造営すといへ共、荘厳金美せず、而信仰を運に足ず今般講中 并信心の檀越を語らひ、御鎮座本社拝殿幣殿長廊等 絵図の通、再建致度、當寅夏より普請に取懸罷在候、 是に依て諸国参詣の道、俗貴賎更に十方の信者を募り、御助勢なし被下候得、不日に造立可致候、然上、先々施主の御姓名を記録し、寶殿に於て 永代護摩供及大般若経轉識せしめ法味を奉け奉るへし 然る則家運延長子孫繁栄の基たるへき者也箸蔵寺知事 敬白但シ奉納銀受取集之儀ハ、役僧役人とも一切差向不申候 以上
意訳変換しておくと
文政九年(1826) 春に当山の諸堂一堂残らず焼失してしまった。その後に仮の堂社を建設したたが充分な荘厳が施されておらず不十分なものなっている。そこで、講中(信者集団)や檀越と協議し、本社・拝殿・幣殿・長廊を絵図の通に再建することになり、この夏より普請に着手した。そして資金調達のために諸国の俗貴の信者十方に寄進を募っている。なお寄進に応じた者については、以下の通り、先々施主の御姓名を記録し、寶殿で永代護摩供と大般若経読経を行うことになっている。ついては、家運延長・子孫繁栄のために寄進に応じたまえ箸蔵寺知事 敬白
なお、この奉納に関わる金銭の授受に関しては、箸蔵寺の役僧役人は、一切関わりがないことを最後に記す。 以上
そして寄進額に応じて、次のような特典を得られることが記されています
御本社再建依御寄附御礼守等可進候事定一 式朱 五ヶ年之間、日護摩修業満座之節御守可進之事一 金百疋 右同断御札可進之事一 金弐百足 右同断木札可進之事一 金壱両 右同断講座之砌一七日之間、護摩修業木札可進之事一 金式而 五年之間日護摩修業講座之砌二七日護摩修業木札可進之事 〇永代内陣入一 金五両 右同断講座之砌三七日之護摩修業木札可進之事 ○永代内陣人一 金拾両 右同断満座之砌五七ヶ日護摩修業木札可進之事 〇永代内陣入日護摩講一 金弐拾両 永代内陣入日護摩五ヶ年之後御固守 可進之事一 金三拾両 永代木札可進之事内陣開扉尤年々御参詣之砌、御礼可進渡候一 金五拾両 永代木札可進之事 右之御神楽内陣入開扉年々御参詣之砌御札可進渡候右勤化御出銀者当年より五年二御神納可被下候御守等之儀者満座之節沾於御神前奉祈念可進之候以上以下、月日、氏名(略)
2朱だと「五年間の護摩法要加護」で、1両だと17日の護摩修行木札、50両だと永代木札が神楽付で下され、さらに参拝時には内陣扉の内側に入って札を納める特権をえることができるとされています。
この「寄進帳」の冒頭には、文政9年(1826) 春に諸堂一堂残らず焼失したこと、その後に仮社を建てたが、従来の信を取り戻せないので、本格的に御本社を再建したいとあります。そのために「当年より五ヶ年」寄進活動が行うことになったので協力を依頼するものです。ただ、「嘉永五年(1852)壬子僧仙岳又再建ス」と別の史料にあるので、本社以外の各堂宇については復興されていたようです。本社が最後に復興されたということでしょう。こうしてみると現在の箸蔵寺の伽藍は、19世紀前半に整備され、最後に本社が姿を見せます。以上からは、安政年間 (1854一59) 頃には、現在の寺域と堂宇が出来上がっていたことになります。この時期は、金毘羅大権現の金堂や善通寺の五重塔建立と重なります。19世紀前半の半世紀は、善通寺・金毘羅大権現・箸蔵寺で建築ラッシュが続いていたことを押さえておきます。これを年表化しておきます。
この「寄進帳」の冒頭には、文政9年(1826) 春に諸堂一堂残らず焼失したこと、その後に仮社を建てたが、従来の信を取り戻せないので、本格的に御本社を再建したいとあります。そのために「当年より五ヶ年」寄進活動が行うことになったので協力を依頼するものです。ただ、「嘉永五年(1852)壬子僧仙岳又再建ス」と別の史料にあるので、本社以外の各堂宇については復興されていたようです。本社が最後に復興されたということでしょう。こうしてみると現在の箸蔵寺の伽藍は、19世紀前半に整備され、最後に本社が姿を見せます。以上からは、安政年間 (1854一59) 頃には、現在の寺域と堂宇が出来上がっていたことになります。この時期は、金毘羅大権現の金堂や善通寺の五重塔建立と重なります。19世紀前半の半世紀は、善通寺・金毘羅大権現・箸蔵寺で建築ラッシュが続いていたことを押さえておきます。これを年表化しておきます。
文政9(1829)年春 諸堂一堂残らず焼失嘉永5(1852)年 僧仙岳又再建ス嘉永7(1854)年夏 御本社再建寄進帳を出して、本社着工
この時期に金毘羅大権現では、三万両を集めた大金堂が30年近くを掛けて1848年に落成しています。同時に周辺整備が行われて、石造物の石畳や燈籠・玉垣が建ち並び、「白く輝く境内」が現れます。金毘羅大権現の奥の院である箸蔵寺も、これに続きます。建物群が完成に近づくと境内整備も同時に進められます。それを裏付けるのが参道に立ち並ぶ巨大な灯籠の寄進時期です。これらはすべて文化・文政以後のもので、江戸時代初期の慶安時代のモノは、御本殿裏にわずかにあるだけです。
灯籠は、山門より御本殿までに約150基がありますが、その寄進者は全国に広がっています。この時期は、金毘羅大権現の金堂(現旭社)が建立され、周辺に石畳や燈籠が並ぶようになる時期と同時期です。金毘羅信仰の隆盛という波に、「金毘羅の奥の院」と称することで箸蔵寺は、教線拡大のための修験者(山伏)たちを全国に送り込み教勢を急速に拡大したようです。この時期には、金毘羅奥の院として、全国区の知名度を持つようになり、勧進僧(山伏)たちによって多くの勧進が集められるだけの組織も有していたことになります。
灯籠は、山門より御本殿までに約150基がありますが、その寄進者は全国に広がっています。この時期は、金毘羅大権現の金堂(現旭社)が建立され、周辺に石畳や燈籠が並ぶようになる時期と同時期です。金毘羅信仰の隆盛という波に、「金毘羅の奥の院」と称することで箸蔵寺は、教線拡大のための修験者(山伏)たちを全国に送り込み教勢を急速に拡大したようです。この時期には、金毘羅奥の院として、全国区の知名度を持つようになり、勧進僧(山伏)たちによって多くの勧進が集められるだけの組織も有していたことになります。
幕末になって、箸蔵寺伽藍が姿を現した経済的な背景を見ておきましょう。
江戸末期から明治期になると煙草業者や船頭などの舟運関係者も水上安全の神として箸蔵大権現を信仰するようになります。本殿前の巨大な灯籠には「烟草屋中」と「船頭中」の文字が筆太に彫られていることが、それを裏付けます。
また「水竹居日記」には、慶応三年(1861)10月12日の項には、「箸蔵寺大祭(十月九日~十一日)に、賽銭一千七十両が集まった」と記されています。ここからは金毘羅大権現と同じように莫大な収入がもたらされていたことが分かります。その背景には、全国から信者達を誘引してくる多くの修験者たちがいたと私は考えています。
江戸末期から明治期になると煙草業者や船頭などの舟運関係者も水上安全の神として箸蔵大権現を信仰するようになります。本殿前の巨大な灯籠には「烟草屋中」と「船頭中」の文字が筆太に彫られていることが、それを裏付けます。
また「水竹居日記」には、慶応三年(1861)10月12日の項には、「箸蔵寺大祭(十月九日~十一日)に、賽銭一千七十両が集まった」と記されています。ここからは金毘羅大権現と同じように莫大な収入がもたらされていたことが分かります。その背景には、全国から信者達を誘引してくる多くの修験者たちがいたと私は考えています。
箸蔵寺本殿の天狗面
神仏分離令に箸蔵寺は、どう対応したのか?
明治維新を迎えると政府の進める神仏分離策に従って、金光院琴綾宥常は金毘羅大権現を追放し、自らも僧籍を離れ神主になります。これに対して、箸蔵寺ではまったく異なる道を選びます。それは金毘羅大権現を守り通していくという選択です。その意思表明が明治初年、仁和寺法務宮純仁法親王 (小松宮彰仁親王)の庇護を受け、本殿正面に金毘羅大権現の書を賜ったことです。これは、箸蔵寺の金毘羅大権現信仰を守っていこうとする姿勢を示したものと私は考えています。
また、讃岐の琴平周辺で従来通りの仏式で金毘羅大権現をまつるスタイルの寺院を作ろうとする動きがでてきます。 その中心となったのが長法寺ですが、この寺は箸蔵寺の修験者の拠点のひとつで、金毘羅大権現の贋開帳を何度も開いていました。彼らは長法寺を「金毘羅大権現」を祀る寺院にしていこうと考え、明治16年に新たな伽藍建設地とを求めて麻野村大麻に移転してきます。この顛末については以前にお話ししたのでこれ以上は述べませんが、箸蔵寺の修験者たちは明治以後も金毘羅大権現を信仰し、この布教拡大に努めていたことを押さえておきます。

箸蔵寺 四国霊場別格第15番 四国霊場開設1200年記念
そして、いまでも箸蔵寺は金毘羅大権現を祀り続けています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
箸蔵寺年表(宝珠山真光院箸蔵寺調査報告書57P) 2004年
参考文献
「宝珠山真光院箸蔵寺調査報告書 2004年 池田町教育委員会」
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最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
箸蔵寺年表(宝珠山真光院箸蔵寺調査報告書57P) 2004年
1582 天正十年 長曽我部の阿波侵攻によって兵火に遭遇、宥典阿闍梨が身を捨てて医王仏を守る。
1588 天正十六年 宥観阿闍利が復興に努める。
地福寺旧記には地福寺の宥伝とその弟子真光寺宥寛が再建をしたとの説もある。
1593 文禄二年 宥観阿闍梨、藩主蜂須賀蓬庵の登山に際し由緒言諸堂再建の大施主と仰ぎ、境内地と永代寺領三百石を賜る。
1596 慶長年間 讃岐で金毘羅信仰が始まる
1651 慶安四年 御室御上席資格の中本山となり近国寺院に対する色補任状取扱を許される。
1658 明暦四年「三好郡之内州津村棟付人改御帳」に箸蔵寺が壱家となり、同宿一人小家が二軒で、この小家の中に下人八人となっている。(男のみ) 計十人。
1667 寛文七年 山火事によって諸堂、宝物、御證文を焼失。
1670 寛文十年 「州津村家数馬牛共御改帳」に「箸蔵寺に同宿一人。小家が四軒でこの小家の中に下人男四、 女四、 計十人」。
1731 享保十六年 藩から諸役御免で、一町八反の畑と無役の下人を抱えることが許される。
1766 明和三年 「箸蔵山由来略記」が高野山の僧南山沙門霊瑞によって記される。
1769 明和六年 「三好郡州津村人数下調御改帳」に「弟子三、小家七軒、下人十三(男十二・女一)計十七人。
1804~18 文化・文政期 運智、快典が、信者を全国に広げる。
1826 文政九年 諸堂一堂残らず焼失。
1848~59 嘉永・安政期龍岳、仙岳、信者層を全国に広げる。
1849年頃 嘉永二年頃 八代目団十郎、灯籠を寄進。
1854年 嘉永七年 本殿再建のために、「寄進蝶」を各村へ配付。
1856年 安政三年 讃岐丸亀領豊田郡黒淵村の百姓93人が池田村へ逃散してくる。 箸蔵寺が一部を受入れをする。
1861 文久元年 「箸蔵寺旧記聞傳覚書」 住職仙岳記す。
1867年 明治初年 仁和寺総法務宮純仁法親王に庇護され、本殿正面の額の書を賜る。
1930 昭和五年 箸蔵登山鉄道開通。
1936 昭和11年 奥の院金毘羅大権現本殿落慶法会と中興の祖仙岳上人銅像除幕式が行なわれる。
1936 昭和11年 野口雨情、箸蔵小唄を詩作。
1944 昭和19年 戦争のため箸蔵登山鉄道も供出、廃業となる。
1945 敗戦後、農地解放によって、三百石の地領を開放。
参考文献
「宝珠山真光院箸蔵寺調査報告書 2004年 池田町教育委員会」
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