箸蔵寺本殿 金毘羅大権現の両脇をかためる天狗たち
江戸時代後半の箸蔵山が阿波の人々からどのような目で見られていたのかを今回は見ていくことにします。 まず「阿州寄事雑話(あしゅうきじざつわ)」を取り上げます。
この本は阿波国の奇談や地誌、伝承を集めた地誌・随筆集で、著者は横井希純(よこいきじゅん)です。阿波の狸伝説や山川町の妖怪伝説の種本になっていて、近年は人気があるようです。そこには箸蔵山のことが次のように記されています。
三好郡洲津村箸倉山は讃の象頭山の南方に当て四五里を隔つ、昔より伝え云ふ、金毘羅にて用ひ捨つる箸は皆此の山に飛来るとなり、此の山も霊異多し、近年仔細有りて此の山の大木を伐りたるに山騒しくして寺中の小僧等失せて山中に迷ひ居し事度々に乃べり、又白昼に単衣を着せし男身を縮めて紙鳶の如く中天を飛て此の山に至るを近所の民打見およびたる多しと云ふ、此の辺の人家の内一軒如何成る山神の憎しみを受けし事にや、ある時つぶ打事夥し、且大木をも投げぬ、家人皆逃れ去りしが竟に此の家を打潰しぬ、並に此の伐たる木の末木抔鍛冶炭になせしに其の鍛冶有りし処に火起りし事有りとなり、かやうの山には此の類多し。 (此の類の怪事は今に所々にて毎時有ゆえ記すに暇あらず)
意訳変換しておくと
三好郡洲津村箸倉山は、讃岐の金毘羅大権現の象頭山の南方四、五里に位置する。金毘羅(大祭)で使用済みで捨てられた箸は、すべてこの山の飛来すると昔から伝えられる。箸蔵寺も霊異が多い山である。近年に仔細あってこの山の大木を伐ったところ、山騒しくなって、箸蔵寺の小僧が山中に迷い込みいなくなってしまった。白昼に単衣を着た男身が紙鳶のように中天を飛んでこの山にやってくるのを近所の人々は何度も見たという。箸蔵寺の人家の内の一軒がどうしたことか、山神の憎しみを受けることになってしまった。すると、つぶてが飛んできたり、あるときには大木も投げつけられ、家人は皆逃れ去ったが、それでも許さずに、ついにはこのの家を打潰してしまった。また、この伐った木で炭焼きをして鍛冶炭にしたところ、鍛冶屋が火事になったこともあった。箸蔵山にはこのような類の話が多い。 (此の類の怪事は今に所々にて毎時有ゆえ記すに暇あらず)
ここには 箸蔵山は、奇っ怪なことが起きる不思議な山であることが書かれています。
このような話は、疫病退散のために寝ずに一晩をお堂で過ごす庚申の時に、村人達が語り合った物語が今に伝えられていることが多いようです。これらの物語を伝えたり、創作したのは山伏(修験者・聖)だったと民俗学者たちは考えています。山伏たちは、あるときには薬草をあつかう漢方医であり、悪病退散を祈祷する医術者でもあり、剣山や石鎚山へ信者を誘引することもしました。妖怪伝説や悪霊伝説などの物語が色濃く残っている所には、それに比例して山伏の痕跡が濃いと研究者は指摘します。
このような話は、疫病退散のために寝ずに一晩をお堂で過ごす庚申の時に、村人達が語り合った物語が今に伝えられていることが多いようです。これらの物語を伝えたり、創作したのは山伏(修験者・聖)だったと民俗学者たちは考えています。山伏たちは、あるときには薬草をあつかう漢方医であり、悪病退散を祈祷する医術者でもあり、剣山や石鎚山へ信者を誘引することもしました。妖怪伝説や悪霊伝説などの物語が色濃く残っている所には、それに比例して山伏の痕跡が濃いと研究者は指摘します。
ここには箸蔵山が特別な霊威の空間であることを伝える意図が見えます。例えば「男身が紙鳶のように中天を飛んでこの山にやってくる」というのは、天狗伝説です。中世の山伏たちは、鞍馬天狗や弁慶の物語に出てくるように、修行で天狗になることができると思っていました。そして天狗のように空が飛べる飛行術を身につけようと修行に励んでいたのです。このような天狗信仰者が象頭山に金毘羅大権現を開き、それを箸蔵寺にも勧進してきたということになります。「阿州寄事雑話」で語られた物語が時代を下ると、村々で起きた事件として残されるようになります。
今度は、「燈火録(とうかろく)」に出てくる著倉山を見ていくことにします。
この書は、文化9年(1812年)に出された阿波の総合的な地誌・歴史書で、著者は元木蘆洲(もときろしゅう)です。
燈火録(文化9年(1812年)
意訳変換しておくと
今度は、「燈火録(とうかろく)」に出てくる著倉山を見ていくことにします。
この書は、文化9年(1812年)に出された阿波の総合的な地誌・歴史書で、著者は元木蘆洲(もときろしゅう)です。

意訳変換しておくと
讃岐の讃州金毘羅神は、例年十月の御祭礼行啓を終えると陪従の人々に摂侍所にて宴席が設けられる。それが終わると、腕も箸も総てを置いたままで下山する。そして、翌日の十日十一日は申刻過から山門に竹垣を結て登山を禁じる。ところが、どうしたことか、置き残した箸が総て三好郡箸倉山の岩倉へ夜中に山神(天狗)によって持運び納められると云う。また除災の衛護のためにと宿所へ持帰ったものも、土蔵にしまい込んだものも、悉くなくなっている。奇異な事だ。
箸倉山の樹を伐ることは、山神の嫌うところある。また霊窟のあたりへは、人々は近寄らない。箸蔵寺の僧ですら、行て帰らないものもいる。神域の林樹を買った者でさへ伐取人はもとより、木を仲介した先々まで神罰があったという。そのため、それを知っている人々は神罰を怖れて、箸蔵山産の薪炭を買うことを避けようとする。ある年、当山の寺の木を樵って渓間に多く積み置いていたところ、洪水で流されてしまった。 それが麻植郡の何某の家の垣に流れついた。そこで二階に積み置いて、外へ出て畠の仕事をしていた。すると拾った樵木が水に濡れて乾いてもいないのに火がつき燃え出し、家は跡形もなく焼失してしまった。
徳島新町鍛冶屋の某は、炭を買て積置いていたところ、火が出て隣家までも焼亡してしまった。後日に聞けば、この炭が箸蔵山で切り出し焼かれた炭だったとのこと。また寛政の頃に、、箸蔵山の樹を買取りって伐出した杉丸太三間を十本ほど、三好郡芝生村の酒屋へ売却し、門内の隅に立懸けて置いた。その家の庭は広いので、七月の盆踊り会場となっていて、周辺の若者たちが集って踊っていた。すると、虚空よりぱらぱらと小石が降ってきたので、人々みな家の内へ駆け込んで、興が冷めてしまった。この家主があやしみ怒って、これは狸の仕業にちがいないと空鉄砲を発射して威嚇すると、小石はますます激しく降ってきた。ついには、二人で持たなければ動かない大石が打ち降り、家の屋根が打ち抜かれ瓦が砕け落るすさまじい音がして、人々は恐怖におののいた。主人が非難すると暫時にして止んだ。家宅は壊れたが、怪我をした人はいなかったのが吉兆だったと、翌日に近隣の人々を集めて酒を勧めて無事を祝した。その時に人々が云うには、箸倉の神の御咎だろうということになり、この丸太を前の川に流した。その後は何の障怪もなかったという。この辺りの人が来て、離したことを語るままに書き付けたものである。
ここには箸蔵山で切られた木がいろいろな禍をもたらすことが繰り返し述べられています。この物語を創作した山伏の伝えたかったことを推論してみます。
①箸蔵山が神域であること
②その木を切ったり、妄りに立ち入った者に対しては神罰が下されること
このような物語を拡げることで、箸蔵山周辺の山伏たちは自分たちの行場ゲレンデであり、聖域であるテリトリーを守ろうとしたことが考えられます。つまりは、箸蔵寺が彼らにとっては守るべき聖域であったことになります。そのために多くの山伏(修験者)がやってきて修行にはげんでいたのでしょう。
全国にある大師堂の多くは、山伏(修験者・高野聖・熊野行者)などの遊行の跡だった研究者は考えています。
①箸蔵山が神域であること
②その木を切ったり、妄りに立ち入った者に対しては神罰が下されること
このような物語を拡げることで、箸蔵山周辺の山伏たちは自分たちの行場ゲレンデであり、聖域であるテリトリーを守ろうとしたことが考えられます。つまりは、箸蔵寺が彼らにとっては守るべき聖域であったことになります。そのために多くの山伏(修験者)がやってきて修行にはげんでいたのでしょう。
全国にある大師堂の多くは、山伏(修験者・高野聖・熊野行者)などの遊行の跡だった研究者は考えています。
ただ彼らは記録を残さなかったので、その由来が忘れ去られてしまいました。全国の多くの熊野社が熊野山伏や熊野比丘尼の遊行の跡であり、多くの神明社が伊勢御師の廻国の跡であるのと同じです。妖怪街道沿いにも、そんな修験者や聖たちの痕跡が数多く見られます。修験者の中で、最初に吉野川流域にやってきたのは熊野行者のようです。熊野行者は、次のようなルートで吉野川の上流をめざしたことは前にお話ししました。
熊野行者たちは、断崖や瀧などの行場を探して吉野川の支流の山に入り、周辺の里に小さな社やお堂を建立します。そこには彼らが笈の中に入れて背負ってきた薬師さまや観音さまが本尊として祀られることになります。同時に彼らは、ソラの集落の芸能をプロデュースしていきます。盆踊りや雨乞い踊りを伝えて行くのも彼らです。また、今に伝わる昔話の原型を語ったのも彼らとされます。各地に現れた「熊野神社」は、熊野詣での際の道中宿舎の役割も果たし、孤立した宗教施設でなく熊野信仰ネットワークの一拠点として機能します。
例えば土佐の本山町では、祖先の始祖を若宮八幡や先祖八幡としてまつることが多いようです。
ここでは、若宮八幡は門脇氏一族だけの守護神です。それに対して、聖神は人々の信仰対象になっていて、出物・腫れ物や子供の夜晴きなどを祈っていたようです。このような聖神は山伏の入定塚や六十六部塚が信仰対象になるのとおなじように、遊行廻国者(修験者)が誓願をのこして死んだところにまつられます。聖神は庶民の願望をかなえる神として、「はやり神」となり、数年たてばわすれられて路傍の叢祠化としてしまう定めでした。このような塚が阿波のソラの集落にも数多く見られます。
ここでは、若宮八幡は門脇氏一族だけの守護神です。それに対して、聖神は人々の信仰対象になっていて、出物・腫れ物や子供の夜晴きなどを祈っていたようです。このような聖神は山伏の入定塚や六十六部塚が信仰対象になるのとおなじように、遊行廻国者(修験者)が誓願をのこして死んだところにまつられます。聖神は庶民の願望をかなえる神として、「はやり神」となり、数年たてばわすれられて路傍の叢祠化としてしまう定めでした。このような塚が阿波のソラの集落にも数多く見られます。
熊野行者たちは諸国巡礼を行ったり、熊野先達を通じて、密教系修験者の幅広いネットワークで結ばれていました。
例えば、彼らは讃岐の与田寺の増吽などの師匠筋から「大般若経の書写」への協力依頼が来ると引き受けています。このように阿波のソラの集落には、真言系修験者(山伏)の活動痕跡が今でも強く残ります。妖怪街道と呼ばれる山川町の藤川谷川流域も、山伏たちの密度が濃く、活発な活動が行われていたエリアです。彼らは、庚申信仰を広め、庚申講も組織化しています。悪い虫が躰に入らないように、庚申の夜は寝ずに明かします。その時には、いくつもの話が語られたはずです。その時に山伏たちは熊野詣でや全国廻国の時に聞いた面白い話や怖い話も語ったはずです。今に伝えられる昔話に共通性があるのは、このような山伏たちの存在があったと研究者は考えているようです。以上から山伏が自分たちの行場であり、活動エリアである箸蔵寺周辺を聖地として守るために、意図的にこのような物語は作られたのではないかと私は考えています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「宝珠山真光院箸蔵寺調査報告書 2004年 池田町教育委員会」
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参考文献
「宝珠山真光院箸蔵寺調査報告書 2004年 池田町教育委員会」
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愛媛県四国中央市新宮の熊野神社は熊野神社ランキング2位と聞いてます。807年勧請と記憶してますが、勧請したのは地元の人達では無く、熊野行者の方々だった?と言うのは興味深いですね。
そして、めんどり先達…私は妻鳥(めんどり)在住ですが、初めて耳に、いや、目にしました。
ここも気になります。
tono202
が
しました