瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

1年に3回、まんのう町図書館の郷土史講座を担当しています。今回は、丸亀平野南部を勢力下において、天霧城の香川氏と対峙した長尾氏を取り上げることになりました。時間と興味のある方の参加を歓迎します。詳しくはこちらを御覧下さい。
https://tono202.livedoor.blog/archives/35191734.html

   
箸蔵寺高灯籠7
                  箸蔵寺ロープウエーと高灯籠
 箸蔵寺へは1970(昭和45)年にロープウェイが出来るまでは、山門下からリフトが庫裡まで伸びているだけでした。ここは自動車参道の終点で、駐車場もあり、旅籠や食堂・土産屋が並び賑わっていました。しかし、下からのロープウエーが出来ると、ここは空中を素通りするだけで、参拝者が訪れることもなくなってしまいました。そのため宿や店も閉じられ、今では、駐車場にロープウェイの柱脚が立っています。しかし、ここからは吉野川流域の素晴らしい展望が拡がります。この辺りは「カザミノ丘」と呼ばれて。かつての名勝でもあったようです。

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        箸蔵寺カザミノ丘からのJR土讃線の吉野川橋梁と高速道路の橋
                   
 箸蔵寺高灯籠は、吉野川流域を眺望するカザミノ丘に建つ木造二重の大型灯籠です。下に流れる吉野川や流域一体を一望できる所にあります。大正5年(1916) 刊の「箸蔵村誌」には「何時も夜燈を燈す」と記し、十数㎞先からも明るい灯りが見えたと云います。「この燈籠は吉野川を行き来する川船の目印(標識)として使われていた」とする説もあります。ただ、燈籠や燈台は、人や船を安全に導くだけではありません。毎夜灯る高燈籠の灯りは、地域のシンボルでもあり、人々の信仰を箸蔵寺へと導くモニュメントでもあったと私は考えています。今私たちが考える以上の役割と機能をこの高灯籠は持っていたのではないでしょうか。

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箸蔵寺高灯籠
 それでは高灯籠は、いつ姿を見せたのでしょうか。
高灯籠上層の壁隅に打たれている棟札には、明治17年(1884)建立と記されています。この年代記事を、幕末から明治にかけて勧められた伽藍整備年表の中に入れてみます。

箸蔵寺伽藍整備年表

この年表からは、次のようなことが読みとれます。
①1826年に、箸蔵寺では伽藍焼失し、再建が勧められた。
②1854年に、最後に本殿に着工し、明治維新までには本殿が完成した
③その後、明治になってカザミノ丘に山門が土佐から移築され、護摩堂や本殿への参道が整備された
④その一環として、讃岐の金刀比羅宮の高灯籠に模した建築物が造営された。
つまり、幕末に上部の伽藍が出来上がると、明治になって参道入口に山門が建てられ、参道整備が進むと同時に、賑わい造り創出やシンボルタワーとして、この高灯籠が姿を現すようになったことがうかがえます。
箸蔵寺高灯籠8
高灯籠の様式やデザインについて、報告書は次のように記します。
①初層方三間四方(3,5m四方)、中層方二間、上層方一間
②初層の正面には一間の唐破風向拝を付ける。 
③建物用途は火を灯して灯台の役目なので、室内装飾はなく簡素な仕上げ。
④袴腰を付けた初重は中層とし、上部は漆喰塗り、下部は本来は板張りであったが現在は鉄板。
⑤向拝と初重柱頭部のみに組物や彫刻使用
⑥屋根は全てに桟瓦を用いており、軒裏は初重が扇垂木を組み、二重は二軒の角繁垂木とする
⑧明治期の建築らしく、中層部の壁全面に筋違を使用。
⑨風が強いところに建つので風圧に備えて土壁 (芯壁)
⑩軒裏や火灯窓などに禅宗様式を取り入れた建物

この建物は周囲によく生えたでしょうし、夜に灯りが灯されれば宗教的な意味を持つ存在になったことでしょう。これに先駆けて造られたのが金刀比羅宮の高灯籠です。

金刀比羅宮 高灯籠
金毘羅大権現の高灯籠

金毘羅大権現の高灯籠
           金毘羅大権現の高灯籠の寄進募集のちらし
金毘羅大権現の金光院に次のような願いが提出されるのが、明治維新を目の前にした慶応元年(1865)のことです。
寄付状の事  一 高灯龍 壱基
 右は親甚左衛門の鎮志願いニ付き発起いたし候処、此の度成就、右灯龍其れ御山え長く寄付仕り者也、依って件の如
      讃岐寒川住  上野晋四郎  元春(花押)
      慶応元年    乙丑九月弐拾三日
 これは、高灯籠の寄進を願い出たものです。願主の上野晋四郎は、寒川郡の大庄屋を務めていた人物です。しかし、この寄付は上野晋四郎一人によるものではなく、寒川郡全体の寄付でした。特に、当時好景気に沸いていた砂糖産業に関わる人たちからの寄進が多かったようです。建設資金は3000両とされます。これより前の金堂が30000両でした。
琴平に現れた高灯籠を見て、阿波箸蔵寺の修験者たちは同じような高灯籠を整備が進むカザミノ丘に建てようとしたのではないでしょうか。デザインもよく似ています。

箸蔵寺の高燈籠 煙草・水運関係者
箸蔵寺の高灯籠(右)と山門(左)
こうして山門と高灯籠が並び立って、箸蔵寺の入口周辺が整備されていきます。それが参道で、護摩堂や本殿とむすばれます。今度は、その参道整備が課題となっていきます。ここに玉垣や燈籠がならび、参道は石で白く輝く境内へと変身していきます。
箸蔵寺の高灯籠を眺めていて思い出したのが、四国中央市新宮町上山の安楽寺の近くにある泉田の高灯籠です。
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                     泉田の高灯籠
まるで燈台のようですが、ここからは海も川も見えません。どうして、ここにこんな灯籠が建てられたのでしょうか。これは「金毘羅 → 箸蔵寺 → 安楽寺」という流れがあるのではないかと私は考えています。確かに金毘羅の高灯籠は、沖ゆく船の燈台の役割を果たしたかもしれません。しかし、夜も航海するのは少数でした。それに対して、箸蔵寺は海は見えません。川船を導く燈台の役割を果たしたとされますが、座礁の恐れがあるので夜に行き来する川船はほとんどなかったようです。箸蔵寺の高灯籠が川船の安全のために建てられたという説には、私は疑問を持っています。そして、次のようなことを考えています。
①尾根の先端部に建つ高灯籠は、「私たちの心の支えとなるお寺(安楽寺)があるのは、あの方向だ、灯りが今日も灯った、神と仏に感謝して合掌」という信仰に灯りをともす役割。
②箸蔵寺や安楽寺の存在証明のためにソラの高灯籠は建てられた。
③船のための燈台と云うよりも、ソラの集落の人々の心の燈台の役割を果たした

それでは高灯籠が姿を見せるようになったのは、いつころなのでしょうか?
高灯籠のルーツは、大阪の住吉神社にあるようです。

長谷川貞信(初代)『浪花百景之内 住吉高灯籠』
     長谷川貞信(初代)の『浪花百景之内 住吉高灯籠』(幕末から明治初年頃)
大阪住吉神社の高灯籠 大正時代の絵はがき
住吉神社の高灯籠(大正時代の絵はがき)
  住吉神社の社前には、白砂青松の美しい海岸風景(住吉津)が広がっていました。住吉高灯籠ももともとは、住吉大社の常夜燈ですが、次第に航路標識としての役割が増大していきます。とくに大阪湾の潮流が激しい難波津に比べ、穏やかな海の住吉津は、海上交通の要衝となり、江戸時代になると夜間の航行を守る灯台としての役割が強くなります。 住吉公園の中央を東西に走る「潮掛け道」は、もともとは住吉大社の表参道で、鎌倉時代に創建された初代の高灯籠は「日本最古の灯台」として、ここに建っていたようです。琴平の高灯籠が、これをモデルにしていることがよく分かります。こうして、住吉神社モデルの高灯籠が瀬戸内海の港町には姿を見せるようになります。

御手洗の高灯籠
御手洗の高灯籠(呉市 大崎下島)
 瀬戸内海の風待ち港として栄えた大崎下島の御手洗(みたらい)にある石造りの高灯籠です。天保3(1832)年に北前船などの航行安全を祈って千砂子波止の突端に造り替えられています。金毘羅に約30年あまり先行します。

鞆の常夜灯
              鞆(福山市)の常夜灯
 鞆は、御手洗に遅れること約30年後の安政6年(1859年)に建てられています。港の常夜灯としては日本一の大きさ(海中の基礎から最上部の宝珠まで約11〜12m)です。

敦賀の日本最古の高灯籠
庄山の高灯籠(敦賀市)
敦賀市の観光ホテル前庭に建つ高灯籠は、享和2年(1802)に建てられた現存する日本海側最古の石積み灯台です。底辺2.3m四方、高さはおよそ7.5m。茶町(現:川崎町)の船問屋・庄山清兵衛が自邸の一角に建てたことから「庄山の高灯籠」とも呼ばれています。沖ゆく北前船を港に誘引する効果があったのかもしれません。

高燈籠変遷

 このような港への高灯籠建設が、「海の神様」としての信仰を集めつつあった内陸部の琴平に建てられ、それがさらに明治になると箸蔵にも伸びていくということになるようです。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
追記 高灯籠は蔵谷巌窟への入口でもあります。
高灯篭の横の木の鳥居をくぐり、参道を下っていくと約20分ぐらいで丸木橋が見えて来ます。それ渡るとお堂があります。ここが弘法大師が金毘羅大権現から寺院を建立するように誓願された場所とされているようです。修験者たちにとっては、聖なる行場であったことになります。

箸蔵寺 東の堂「蔵谷厳窟」2
箸蔵寺
 蔵谷巌窟

箸蔵寺奥の院 蔵谷権現を祀る
蔵谷巌窟に祀られる金毘羅大権現
参考文献
「宝珠山真光院箸蔵寺調査報告書 2004年 池田町教育委員会」
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