前回紹介したカザミノ丘の上には、大門が南面して建ちます。
箸蔵寺大門(重要文化財)
この山門の棟札には明治13年(1880)の年紀が記されています。しかし、この山門は、もともとはここにあったものではなく、土佐藩の山内家のお寺にあったようです。ところが土佐では明治初年の神仏分離の際に藩主自らが廃仏毀釈を進めます。そのため廃仏毀釈の嵐が吹き荒れ、多くの寺院が消えたことは以前にお話ししました。その余波で、この山門も土佐では不用とされたものを箸蔵寺が譲り受けてきたようです。その輸送方法は、海路と吉野川を水運で運ばれ、現在地に建立されたと伝えられますが、どこの寺からどのようにして運ばれたのかは今の私には、よく分かりません。 「観音堂は大正九年徳島の清水寺から移築し、材料は牛車で運んだ」
これを裏付けるのが、明治28年(1895)の「阿波地誌』の箸蔵寺の俯瞰図です。ここには観音堂が描かれていません。ここでは箸蔵寺の大門は土佐から、観音堂は徳島の清水寺から移築されたものであることを押さえておきます。そのため他の建物群と建設時期や様式が異なります。
このことについてAIに訊ねると、次のように答えてくれました。
この仁王門(大門)だけでなく、境内にある徳島県指定有形文化財の「観音堂」も、大正時代に徳島市の清水寺から移築されたものとされています。明治期の神仏分離や廃仏毀釈、あるいは他寺院の諸事情によって役目を終えそうになった他県の優れた建築物を、箸蔵寺が境内の復興に合わせて譲り受け、移築・保存した背景がうかがえます
視点を変えると、廃仏毀釈で不用とされた建物や仏像・聖典が、資金力のあるお寺に集まってきたことになります。例えば金毘羅大権現を追放し、神社にリニューアルした金刀比羅宮も不用な多宝塔や仏像・仏具・曼荼羅などの多くをオークションを開いて販売していたことは以前にお話ししました。資金力のある善通寺や箸蔵寺などの周辺の寺院がやってきて買い付けていったことが禰宜の松岡調の日記には記されています。ここでは、幕末から明治にかけて象頭山からは金毘羅大権現が追放されたこと、その中で箸蔵寺は今まで通りに金毘羅大権現を守り通したこと。それが結果として、金毘羅信仰を持つ人々を箸蔵寺に引き寄せることになったようです。その資金力と勧進力を背景に、山門を譲り受け、高灯籠を建立し、参道整備を行うということになります。ちなみに、箸蔵寺が金毘羅大権現を守り通せたのは、仁和寺の御室派で、その門跡が天皇家出身であったため、廃仏毀釈の難から逃れることができたとされるようです。
①低い切石積みの基壇上に建つ②三間一戸二階二重門のスタイル③脇間に金剛力士像を安置しているので、仁王門と呼ばれる④桁行三間(8,85m)× 梁間二間(6,34m)⑤桁行の中央の通路を強調するために柱間を広くし、上層の柱は下層の柱位置をずらして、規模を小さくし、均整をとっている。
⑥軸部は上部のみ棕のついた丸柱を立て、下層は貫を、上層では長押を廻し、上下層とも木鼻の付いた頭貫と台輪で固めている⑦組物は上下とも同じで、出組(一手先)の詰組で柱間に間斗束を立てている。⑧柱間装置は、正面の桟唐戸は藁座で吊り、両脇には火灯窓を入れる⑨上層内部の床は板で敷かれ、天井は大柄な竿縁天井とし、琵琶板の間斗束は省略⑩正面奥全面と側面一間分を仏間として、中央に釈迦如来座像と左右に十六羅漢を安置する⑪粽柱、台輪、詰組、桟唐戸、藁座、火灯窓、逆蓮頭親柱などに禅宗様式を多用⑫要所に和様の間斗束 配付垂木、長押、舞良戸を組み入れた折衷様式の建物
箸蔵寺旧記聞伝覚書には、大門の守護神が次のように記されています。
右手が深沙大様で、怨敵退治の龍神。左手が不動明王で、悪魔降伏の明王である
しかし、今は③のように金剛力士像を安置され、仁王門と呼ばれています。
箸蔵寺大門からの参道
長く続く参道は、西に開け開放的で、両脇に石玉垣や石灯籠などの石造物が整備されています。参道左側は箸蔵谷で、この下に聖地である蔵谷巌窟の行場があります。谷沿いには玉垣が156間(約230余m) 続きます。ここには全国からの寄進者の名前が並びます。箸蔵寺が明治期には全国区の宗教組織であったことがうかがえます。玉垣の柱は、下側(西進部)は擬宝珠柱、上側(北進部)では猿頬柱です。整備された時期によって違いがあるのかも知れません。
箸蔵寺参道の玉垣 「大連」と地名が刻まれている
気になったのは、玉垣の寄進者の地名です。この明治の玉垣を見ていると、日本国内だけでなく、「旧朝鮮」や「旧満州(大連など)」から奉納された玉垣、石灯籠、満願石などいくつも並んでいることです。どうして、朝鮮や中国東北部(旧満州)からの寄進があるのでしょうか? 私は、これは日清戦争後の大陸進出の機運の中で、箸蔵寺が布教師(修験者)を大陸に派遣し、信者を獲得した成果を示すものではないかと推測しました。そこで、AIに質問すると、次の答えが返ってきました。「徳島県の箸蔵寺(はしくらじ)自体が「大陸への海外布教」を直接・組織的に行っていたという具体的な歴史的記録はありません。次のようなことが考えられます。
A 大陸へ渡った開拓民や商人の信仰説明治から昭和にかけて、四国や日本各地から朝鮮半島・満州(現・中国東北部)へ渡った移民や商人が、海上安全や商売繁盛の神仏である「金毘羅大権現」への信仰を現地でも持ち続けた。遥か大陸の地から故郷の、あるいは本尊である箸蔵寺へ玉垣などを奉納したケース。
B 大陸へ進出した宗派のつながり箸蔵寺の属していた真言宗御室派は、大陸にいる日本人を対象に「開教使(かいきょうし)」と呼ばれる布教僧を派遣し、満州や朝鮮に数多くの寺院や説教所を設立した。こうした活動(大陸開教)の広がりが、本山や有力寺院である箸蔵寺への寄進という形で反映された。
以上から箸蔵寺が修験者(布教師)を大陸に派遣し、独自の布教拠点を置いたというよりは、「大陸に渡った日本の人々や、そこで活動した真言宗のネットワークを通じて、国境を越えて金毘羅信仰・箸蔵寺への信仰が大陸にまで届いていた」というのが歴史的な実態に近いとAIは云うのです。私の仮説は、打ち砕かれてしまいました。
以上をまとめておきます
①1826年に伽藍が全焼した箸蔵寺は、明治末までには建築物の再建が終わった。
②そこで明治になると順調な教勢拡大を背景に参道整備に乗り出した。
③まず1880年に土佐藩から大門を譲り受け参道起点とした。
④その4年後に、大門下にシンボルタワーとなる高灯籠を建てた。
⑤そして、大門から本殿への参道整備を行い、玉垣・燈籠・鳥居が姿を見せた。
⑥その寄進者は、日本全国だけでなく遠く朝鮮半島や大連など中国東北部からのものもある。
箸蔵寺ロープウエー 背後の右が高灯籠、左が大門 下が蔵谷
いまは参道の上空をロープウエーが往復して参拝者を運んでいます。そのために、この大門からの参道を登る人は、ほとんどいません。そういう意味では、静かな祈りの参道としてお勧めです。同時に、琴平でロープウエーの建設計画が何度も立ち消えしていく理由が分かります。これができれば石段の参道沿いの店は閉店に追い込まれることになります。反対運動がおきるはずです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
以上をまとめておきます
①1826年に伽藍が全焼した箸蔵寺は、明治末までには建築物の再建が終わった。
②そこで明治になると順調な教勢拡大を背景に参道整備に乗り出した。
③まず1880年に土佐藩から大門を譲り受け参道起点とした。
④その4年後に、大門下にシンボルタワーとなる高灯籠を建てた。
⑤そして、大門から本殿への参道整備を行い、玉垣・燈籠・鳥居が姿を見せた。
⑥その寄進者は、日本全国だけでなく遠く朝鮮半島や大連など中国東北部からのものもある。
箸蔵寺ロープウエー 背後の右が高灯籠、左が大門 下が蔵谷
いまは参道の上空をロープウエーが往復して参拝者を運んでいます。そのために、この大門からの参道を登る人は、ほとんどいません。そういう意味では、静かな祈りの参道としてお勧めです。同時に、琴平でロープウエーの建設計画が何度も立ち消えしていく理由が分かります。これができれば石段の参道沿いの店は閉店に追い込まれることになります。反対運動がおきるはずです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「宝珠山真光院箸蔵寺調査報告書 2004年 池田町教育委員会」
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