本日は、次のような三部構成でお話しを進めていきます。
讃岐には真宗興正寺派のお寺が多いと言われますが、それを数字で確認しておきます。
ついでに各県の状況も見ておきましょう。
A 阿波については、真言宗が464で約7割になります。高越山や箸蔵山に代表されるように真言密教系の山伏寺の散在。庚申信仰など山伏たちの活動が活発だったこと。それを蜂須賀藩が保護したこと背景にあるようです。
B 伊予では、真言宗も多いのですが、注目して欲しいのは臨済・曹洞宗の禅宗が両方を合わせると40%を越えることです。これは河野氏の保護があったためです。
C 土佐は、お寺の数自体が他県の半分しかありません。明治の廃仏毀釈運動を藩主が率先して行ったために多くの寺がなくなってしまいました。
四国全体では、真宗寺院は700寺で23%。それが讃岐では47%です。この数字からも、讃岐で真宗寺院が多いことが分かります。なかでも興正寺派が多いのです。本願寺と興正寺の関係を、最初に押さえておきます。

本願寺と興正寺
昨年、まんのう町の文化財協会のフィルドワークで、この寺を訪れました。立派な赤門(山門)が迎えてくれました。「寺町案内人」のボランテアの人は、この赤門について次のように説明してくれました。
「この赤門は、讃岐の末寺からの手切金で作られました。この寺は、近世初期には84の末寺を持っていました。しかし、18世紀になると自立を望む末寺が多くなり、手切金を納めることで自立を許すようになりました。その時に集まった手切金で建てたのがこの赤門です。」
①江戸時代には、讃岐や阿波に100近い末寺があったこと。②讃岐から若い僧侶たちがやって来て修行にはげんだ学問寺でもあったこと③若い僧侶が讃岐への布教のために送り込まれたこと④讃岐に出向いた人達の中には千葉氏を名乗る僧侶もいたこと。⑤赤門は、讃岐の末寺が手切れ金で建立されたこと
①開基は、東国から落ちのびてきた千葉氏で、もともとは上総守護であったのが北条氏との権力闘争に敗れた。②そのため親鸞聖人の高弟の下で真宗に出家。③その後、一族の阿波守護の小笠原氏を頼って阿波にやってきて安楽寺をまかされた。④天台宗だった安楽寺を浄土真宗に改宗した。
①蓮如の本願寺②蓮如によって本願寺に属するようになった興正寺③中本寺としての美馬の安楽寺④三豊への布教拠点となった寶光寺⑤丸亀平野への布教拠点となった長善寺⑥髙松方面への拠点となった安養寺
①勝浦の長善寺を拠点に土器川沿いに分布②阿野郡南部の土器川東岸に多く、海岸部にはないこと。③長尾城周辺に多く、開基を長尾氏とする寺が多いこと。
垂水の浄楽寺は、武士の居館跡へ、塩入にあった寺が移転再建された寺と伝えます。これは、垂水の檀家の誘致に応えてのことでしょう。教線拡大の動きは、山から里へだったことが裏付けられます。別の言葉で言うと、山にあるお寺の方が開基が古く、里にあるお寺の方が新しいといえるようです。
安楽寺から一番近い末寺である勝浦の長善寺を見ておきましょう。
勝浦のかつての長善寺です。石垣の上の白壁は、まるでお城のようです。お寺の下が庄屋を務めた佐野家です。江戸時代には、長善寺と佐野家で勝浦村の田畑の三分の一を所有していたと言われます。長善寺は檀家が阿波と讃岐で千軒近くあります。旧本堂は惣ケヤキ造りで、門徒達の集落の持ち寄られた檜材が使われたと云われています。阿波にあった道場もふくめて、勝浦に惣道場ができ、寺号を得て寺院となっていいったことが考えられます。丸亀平野と安楽寺を結ぶ真鈴越の拠点寺院であったことがうかがえます。
茅葺きの鐘楼です しかし鐘がありません。換わって吊されているのは、石柱です。鐘はどこにいったのでしょうか? 残念ながらこのケヤキ造りのお寺はいまはありません。更地になっています。今は里に下りています。
今は旧勝浦小学校跡に下りてきています。
次に讃岐の末寺は、本寺の安楽寺に対してどんな貢納を義務づけられていたのかを見ておきましょう。
長尾の城山と超勝寺。この寺は長尾氏の居館跡に、その一族によって建てられたと伝えられています。長尾場周辺の興聖寺派のお寺はそれぞれ長尾氏の系図を持っています。
超勝寺が安楽寺に提出している詫び状を見ておきましょう。
これは長尾の超勝寺が安楽寺宛てに出した詫び状(始末書)です。
①最初に、いままでの非礼を詫びて、次のようなルールと守りますという内容です。逆読みすると、讃岐の末寺であった寺は安楽寺に対して、上のようなしきたり(義務)を、果たす義務を負っていたことが分かります。年3回の本山へのお勤め以外にも多くの勤めがあったことが分かります。この義務を果たすためには、讃岐山脈を越えて、年に何回も安楽寺に通わなければなりません。その際に、手ぶらではいけません。18世紀後半になると様子がかわってきます。安楽寺は、末寺総数83ケ寺の内の約半分の42ケ寺が安永年間に「有償離末」しています。讃岐で末寺して残ったのは超勝寺など十力寺だけになります。(安楽寺文書第二箱一〇八)。どちらにしても、超勝寺が安楽寺の末寺であったことはこの文書で裏付けられます。
長炭の種の尊光寺です。石垣の上の白壁。まるで山城のような偉容です。周囲を睥睨する雰囲気。「この付近を支配した武士団の居館跡が寺院になっています。」いわれれば、すぐに納得しそうなロケーション。この寺も長尾氏の一族によって建立されたと伝わります。この寺には宝暦7年(1757)に安楽寺が出した離末状が保存されています。それを見ておきましょう。
尊光寺に残された離末文書を見ておきましょう。ここには安永六年(1777)に、中本山安楽寺が尊光寺が離末することを認めていることが分かります。(尊光寺文書三の三八)。
この前年の安永5(1776)年に、天領榎井村の興泉寺(琴平町)も安楽寺から離末しています。同時期に、3つの寺が離末しています。集団離末が、この時期に行われたのです。裏返して見ると、安楽寺が82の末寺を讃岐に持っていたことが裏付けられることになります。それでは、阿波のお寺がどうして讃岐に数多くの末寺を持つことになったのでしょうか。その背景には何があったのでしょうか?
安楽寺の末寺分布を見ておきましょう。
これを見ると阿波では吉野川沿いだけで、吉野川より南に安楽寺の末寺はありません。これは真言系修験者の勢力が強くて信者が獲得できなかったことがうかがえます。これは、東讃や坂出・三野平野、さらに小豆島・塩飽の島嶼部が空白地帯なのも同じ理由だと私は考えています。そこには勢力を持つ修験者集団がいました。大川郡は大内の水主神社と別当寺の与田寺、坂出は白峰寺、三野には弥谷寺があります。これらは真言密教系寺院で、多くの修験者や聖、僧兵を抱えていた寺院です。真言密教系の勢力の強いところには、教線がなかなか伸ばせなかったようです。そうだとすれば、丸亀平野の南部は対抗勢力(真言系山伏)が弱かったことになります。善通寺があるのに、どうしてなのでしょうか。これについては、また別の機会にお話しします。同時に、安楽寺の布教を保護する政治勢力がありました。
阿波の三好4兄弟
安楽寺を保護したのが三好氏です。三好氏は現在の三好市氏三野町芝生(しぼう:池田と美馬の間・大川山の裏側・真鈴峠)を拠点とする武士集団です。応仁の乱後の16世紀になると讃岐や阿波の守護であった細川氏が一族で争うようになります。その中で台頭するのが阿波の三好氏です。三好氏は、細川氏の守護代として力を伸ばします。そして、戦国時代に現れた元長の4人の息子の時代に全盛期を迎えます。
②次男の実休は阿波を堅め、丸亀平野や西讃方面に侵攻し、これを制圧下に収めます。
③四男一存(かずまさ)は、三木町の十河家に養子に入って、東讃・髙松方面で勢力を拡大し、香西氏などを配下に置きます。ここでは長宗我部元親が侵攻してくる以前に讃岐は、三好氏の勢力下にあったことを押さえておきます。その三好氏から安楽寺は、讃岐での布教の自由を認められたということになります。それを裏付ける文書を見ておきましょう。
「三好千熊丸(長慶の幼名)諸役免許状」と呼ばれている文書です。下側が免許状、上側が添え状です。これが安楽寺文書の中で一番古いものです。同時に四国の浄土真宗文書の中でも、最も古いものです。読み下しておくと
①興正寺殿より子細仰せつけられ候。しかる上は、早々にかんじゅう候て、②前々の如く堪忍あるべく候。③諸公事等の儀、指世申し候。④若し違乱申し方そうらわば、すなわち注進あるべし。成敗加えるべし。
文書を見る場合に、最初に見るのは誰が誰に宛てた者かとものかうことです。財田への逃散から5年後の1520年に出されたもので、発行者は「三好千熊丸」 宛先は、郡里安楽寺です。この文書からは次のような事が読み取れます。
⓵最初に、三好氏と安楽寺の間を取り持ったのは興正寺だったとあります。これを契機に安楽寺が興聖寺の末寺になったのか、それ以前からそうなのかはよく分かりません。どちらにしてもこれ以後は、安楽寺は興正寺を本山とします。②からは、安楽寺を阿波から追いやった敵対勢力があったことがうかがえます。それは阿波の真言系修験者勢力であったと私は考えています。③三好氏から「讃岐からの帰還許可 + 諸役免除 + 安全保障」の3つの保護内容を得ています。これは安楽寺の全面勝利宣言的な内容です。そして、三好氏の支配下での布教活動の自由も得ます。これは讃岐にも適応されることになります。安楽寺の教線拡大と、三好氏の讃岐侵攻は重なります。
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