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以前にも紹介した讃岐の金毘羅宮の「元禄祭礼図屛風」で、歌舞伎や人形浄瑠璃の芝居小屋について、説明不足だと指摘されました。その部分のみを補足します。

鞘橋 金毘羅大祭行列図屏風
鞘橋 (金毘羅祭礼図屏風)

金倉川に架かる鞘橋の下で身を清めて山上へ参拝を済ませます。その後は、精進落としのお楽しみです。内町から南の金山寺の道に入っていくと・・

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          鞘橋から内町へ(金毘羅祭礼図屏風)
内町の高級旅館の裏が入っていくと、賑やかな呼び込みの声や音楽が聞こえてきて、芝居小屋が姿を見せます。 ここが金山寺街です。参拝を済ませた客が、願を掛け終えた安堵感・開放感に浸りながら精進落としをする場所です。この辺りは金山寺町と呼ばれ、かつては金山寺というお寺があったと伝わります。金倉川の河畔には、歌舞伎や相撲・見世物などの小屋が六座描かれており、道も溢れんばかりの賑わいぶりを見せています。この図屏風にも、歌舞伎・浄瑠璃・相撲・見世物・辻芸人集団などが描かれています。
歌舞伎
       歌舞伎小屋(金毘羅祭礼図屏風)

①歌舞伎小屋は、竹矢来で周りを囲み、槍・梵天を配した矢倉に座元の家紋を入れた幕を張っています。鼠木戸を通って中に入ると、能舞台形式の板屋根舞台があり、六人の歌舞伎俳優が、三味線・鼓・太鼓の伴奏で演じています。若衆歌舞伎は承応元年(1652)に禁止されているので、ここでは野郎歌舞伎の段階と研究者は考えています。しかし、六人のうち三人は若衆か女のようにも見えます。

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 歌舞伎小屋の下には黒い幕を張った人形芝居の小屋が描かれています。
浄瑠璃(図屏風)

地方興行ということで、周囲を竹矢来で囲んだ小屋で、櫓の下の鼠木戸の部分だけが板塀です。
そのため後ろ側の囲いの横には、木戸銭を払わずに鐘の隙間から覗き見をする人がいます。小屋の中には桟敷席らしきものはありません。見物人は土間に腰を下ろして舞台を見上げています。舞台は平側を正面にした建物の中央部分に切妻の屋根をのせたような形になっています。
 人形が出ている手摺は上下二段構造になっています。元禄2年の「曾根崎心中」から本格化したとされる出語り・出遣い形式では、金毘羅のものはないようです。全体の手摺の形式は「西鶴諸国はなし」のものとよく似ていると専門家は指摘します。
 舞台を数えると八体の武者人形が出ています。さらに「本手摺」の前に「前手摺」には、二体の人形が出ています。上手と下手には山の装置が置かれていて、人形は中央部に出ているようです。低い手摺を使用する場合には、地面を掘り下げることもあったようです。
『尾陽戯場事始』に
「享保二丁酉より戌年頃 稲荷社内にて稽古浄瑠璃といふ事はじまり 手摺一重にひきくして 地を掘り通し 其中にて人形をつかへり 尤人形の数 五つ六つに限る」

とあります。浄瑠璃にも地面を掘って低い手摺を使ったことが分かります。
② 元禄9年(1696)には、操浄瑠璃芝居の竹本座が「当夏、讃州より宮嶋へ行く」(『外題年鑑』明和版)と記録されています。
③元禄16年(1703)3月の『多聞院抜書』には「子供芝居座本権左衛門、太夫本嵐勘四郎」の名が見えます。ここからは、歌舞伎や浄瑠璃が盛んに演じられていたことが分かります。
  
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内町・芝居小屋 讃岐国名勝図会
      内町と金山寺町の芝居小屋(讃岐国名勝図会1854年)
 参考文献
 人形舞台史研究会編、「人形浄瑠璃舞台史 第二章 古浄瑠璃、義太夫節併行時代」

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