15世紀の半ばに讃岐・宇多津に日隆によって本妙寺が開山される過程を前回は追って見ました。
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宇多津の本妙寺山門前の日隆
今回は、15世紀の大阪湾沿岸の港をめぐる情勢を見ていきたいと思います。その際の視点が日隆と三好長慶です。
 尼崎の本興寺を拠点に日隆は、大阪湾や瀬戸内海の港湾都市への伝導を開始します。彼によって開山されたものだけでも兵庫港(神戸)の久遠寺、備中の本隆寺、宇多津の本妙寺が挙げられます。
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        日隆が開山した宇多津の本妙寺
  日隆が築いた本門法華宗のネットワークを見ておきましょう。
 法華宗は、都市商工業者や武家領主がなどの裕福な信者が強い連帯意識を持った門徒集団を作り上げていました。もともとは関東を中心に布教されていましたが,室町時代には京都へも進出します。
 日蓮死後、ちょうど百年後に生まれた日隆は日蓮の生まれ変わりとも称されます。彼は法華教の大改革を行い、宗派拡大のエネルギーを生み出します。その布教先を、東瀬戸内海や南海路へと求めます。
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讃岐の宇多津湊と本妙寺

日隆の布教により寺院が建立された場所と、その後の発展の様子を見ていきましょう。
大阪湾岸では,材木の集積地であった尼崎,奈良の外港としての堺,勘合貿易の出発地である兵庫津などが挙げられます。また四国の細川氏の守護所である宇多津などにも自ら出向いて布教活動を行い本妙寺を開きます。日隆の布教によって法華宗信者となった港町の都市商工業者の特色は,武家領主と結びついている点だとされます。

宇多津 本妙寺
 宇多津の本妙寺
 京都にあった法華宗各門流の本山の本国寺,妙顕寺,本能寺などの周辺には信者が集住していました。例えば、本国寺の場合には遅くとも天文元年(1532)までには要害化が進み,「数千人の宗徒」が住む「寺内」が形成されていたようです。そしてこれを、織田信長は「洛中城郭」として利用しています。
 さらには,日隆は京都の本能寺と尼崎の本興寺を「両本山」とします。15世紀後半につくられた本能寺の「当門流尽未来際法度」では,全国の末寺の住持職に対して本山への参詣を義務づけています。
本能寺が鉄砲伝来に果たした役割は?
京都本能寺
 
 本能寺は、明智光秀のクーデターで信長の最期となった寺として有名です。この時に焼き払われます。その後も、度々火災に見舞われたため、本能寺の「能」の旁がカタカナのヒの字を二つ重ねるのを避けて、火が去るようにと「去」の字に似せた異体字を使用しています。それでも同寺には、幾たびかの火災の難を逃れた多くの貴重な史料が残されています。その『本能寺史料』中世編に次のような細川晴元書状があります。
  「 本能寺         晴元」
種子嶋(鉄砲)鍼放馳走候而、此方へ到来、誠令悦喜候、
彼嶋へも以書状申候、可御届候、猶古津修理進可申候、恐々謹言
  四月十八日        晴元(花押)
   本能寺
 これは細川晴元の本能寺宛ての鉄砲献上に対する礼状です。
 年号は入っていませんが、晴元は天文一八年(1549)、摂津国江口の戦いで部下の三好長慶に敗れ、京都から近江へ逃げるのが6月のことですから、それ以前の発給とされます。鉄砲が種子島に伝来するのは、『鉄畑記』によれば、天文13年8月のことで、翌年に銃筒をネジで塞ぐ技術を習得し、量産化が開始されるのは早くもその翌14年のこととされます。そして、その種子島から足利将軍家に鉄砲が献上されたのが天文15年です。この文書の年代は、足利将軍家と相前後して細川氏にも鉄砲が送られた、あるいはこの鉄砲自体が将軍への献上品だった可能性もあると研究者は見ているようです。どちらにしてもこの文書の年代は天文15年4月のことでしょう。

鉄砲

 ここで確認しておきたいのは、種子島銃(鉄砲)をはるばる種子島から京都へ、そして晴元の下へ持参し、さらに晴元からの礼状を種子島まで届けたのは誰かということです。かつては「鉄砲献上」は、堺の商人によって行われたとされてきました。しかし、この文書から分かることは当時の種子島領主であった種子島時尭より本能寺を経由して晴元の下へ送られていることです。
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 当時の種子島は、領主の種子島氏をはじめ島民らも法華宗に帰依し「皆法華」が実現していました。種子島では15世紀半ばに日隆に学んだ日典によって法華宗義が広まります。本能寺と両本山である尼崎の本興寺から本門法華宗派の僧が伝教のために種子島や屋久島にやって来たのです。それは、同時代のイエズス会の宣教師にも似た姿です。この時代に法華僧侶達は海上ネットワークを通じて種子島と本山である本能寺を活発に行き来していたのです。その人とモノの流れの中に、鉄砲も含まれたようです。
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 本能寺の変で焼け落ちた伽藍再建に、日隆門流はすぐに動き始めます。
その際の勧進記録である「本能寺本堂勧進帳」が残っています。そこからは末寺がある種子島,堺,備前,河内の三井,越前,備後,駿河の沼津といった地域で勧進が行われていることが分かります。ここでも瀬戸内海や南海路の種子島の末寺から,本山である京都の本能寺,尼崎の本興寺に向かって,カネと人とモノが流れ込んでいたのです。そのようなネットワークの拠点のひとつが宇多津の本妙寺であったのです。15世紀半ばに開山された本妙寺が急速に時勢を伸ばしていくのは、このような流れの中にあったことも要因のひとつでしょう。

本能寺

 こうした本門法華宗の末寺から本山に向けた人やモノの流れに目を向けるようになったのが細川氏や三好氏です。
室町幕府の管領であった細川高国は,永正一七年(1520),近江六角氏との戦争に際して兵庫津の大船を徴発し、大永六年(1526)には尼崎城を築城しています。ここには都市支配や軍事動員を目指す動きが見えます。また,細川晴元は阿波の国人である三好元長の支持を受けて,港湾都市である堺を事実上の政権所在地とし、いわゆる「堺幕府」を樹立します。
 この背景には,先ほど鉄砲伝来の際に述べたように日隆門流の京都や堺の本山への人や物の流れの利用価値を認め、法華宗を通じての流通システムを握ろうとする考えがあったと思われます。
 
一方、四国を本拠とする三好長慶は,畿内支配をめざします。
三好長慶
細川氏・三好氏を東瀬戸内海から大阪湾地域を支配した権力として「環大阪湾政権」と考える研究者もいます。その際の最重要戦略のひとつが大阪湾の港湾都市(堺・兵庫津・尼崎)を、どのようにして影響下に置くかでした。これらの港湾都市は,首都京都を背景に瀬戸内海を通じて東アジア経済につながる国際港の役割も担っており、人とモノとカネが行き来する最重要拠点でもあったわけです。
 その際に三好長慶が採った政策が法華宗との連携だったようです。
彼は法華教信者でもあり、堺や尼崎に進出してきた日隆の寺院の保護者となります。そして、有力な門徒商人と結びつき,法華宗寺内町の建設を援助し特権を与えます。彼らはその保護を背景に「都市共同体内」で基盤を確立していきます。長慶は法華宗の寺院や門徒を通じて、港湾都市への影響力を強め、流通機能を握ろうとしたようです。

三好氏は大坂湾の港湾都市への影響力をどのようにして高めたのでしょうか?
法華宗 顕本寺
   堺の顕本寺 宇多津の本妙寺と前後して日隆により開山
まず、堺を見てみましょう。
日隆は、宇多津に本妙寺を開いたのに前後して、宝徳3年(1451年)に堺にもやって来て有力な商人を信者とします。そして木屋と餝屋と称する豪商の自宅を法華堂としてたのが顕本寺の始まりとされます。当初の開口神社に近い甲斐町山ノロにあったこの寺は「南西国末寺頭」と呼ばれ、西国布教の拠点として機能するようになります。ここでも法華教門徒の商人達や海運業者のネットワークを利用しながら西国布教が進められていきます。その成果のひとつが先述した屋久島の「皆法華」化となって現れます。
  三好長慶の父・元長は一向一揆に敗れ,この顕本寺で自害します。
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長慶の父元長は、顕本寺で自害した

天文元年(1532)のことです。後を継いだ三好長慶は「臥薪嘗胆」の末に、父を死に追いやった主君を京都から追放していきます。その過程で、長慶の本門法華宗の寺院に対する戦略が見えてきます。
20_02Web版『堺大観』写真集―顕本寺境内 三好海雲(元長)の
       長慶の父元長の墓も顕本寺にあります
例えば、次の史料は長慶が顕本寺に下した文書です
当寺(顕本寺)の儀, 開運(三好元長)位牌所として寄宿の事,長慶・之虎これを免許せられば,冬康においても別して信心の条,聊かも相違あるべからざるものなり,よって状くだんのごとし,
天文廿四二月二日 冬康(花押)
堺南庄顕本寺
 父元長の自害の場となった由緒によって顕本寺を位牌所として,軍勢の寄宿免許という特権を与えています。さらに弘治二年(1556)には,元長の二十五回忌法要が行われますが、三好氏の本拠地である阿波でなく,この寺で行われます。
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こうして顕本寺は、三好氏の檀那寺として地位を固めるとともに、三好=本門法華宗の連携強化が進められていきます。
 先ほど顕本寺は,宝徳二年(1450)に木屋某と餝屋某が自宅を寄進することによって建立されたと述べました。当時の堺は尼崎と同様に、重要商品の一つが材木で、阿波から畿内への主要な商品でした。材木を取り扱う「木屋」という姓は、阿波との経済的な結びつきをうかがわせます。阿波を本拠とする三好氏も,こうした経済的なつながりを背景に顕本寺との関係を強めた行ったようです。
 『天文日記』によると,天文七年(1538),「堺南北十人のきゃくしゅ(客衆)」「渡唐の儀相催す衆」の一人として木屋宗観があげられます。木屋は会合衆の構成員で、顕本寺は会合衆の結集核である開口神社の西南隣に位置して,会合衆に対しても影響力をもっていたようです。こうして阿波から畿内への材木流通を通じて、顕本寺を仲立ちとして法華宗と阿波の三好氏を結びつけ,また顕本寺を通じて三好氏は堺の会合衆とも関係をとり結んでいったのではないかと研究者は考えているようです。
三好氏が一族の祭祀や宗教的示威行為の場を,本拠地である阿波勝瑞から堺に移したのは、国際港湾都市堺への影響力を強めるためであったかもしれません。しかし、それだけではなく、信長や謙信などの諸大名がやって来る堺での三好氏の勢威を広く示すデモンストレーションという面もあったでしょう。
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  布教活動と交易活動を考えるための手がかりとして、当時のポルトガルやスペインの東アジア貿易におけるイエズス会の果たした役割を考えて見ましょう。
 知らない土地への布教という宗教的な情熱を抱き、パリ大学などで当時の最先端の技術と知識を身につけた若き宣教師達。彼らは国営の船でアジア各地の布教拠点に運ばれ、布教活動を行うと同時に報告書を作成します。その中には、その土地の情勢や交易品・交易ルートなども含まれます。これは商業活動にとっては最重要の情報でした。これらを宣教師は本国にもたらしました。「宣教師がやって来た後に、商人がやって来る」と言われた所以です。つまり、宗教的な伝道者と交易活動者は連携していたのです。そして、本門法華宗の僧侶と商人・海運業者にも同じことが指摘できます。
 同時に、戦国大名がキリシタン大名になっていく理由の一つにポルトガル船を領地内の港に呼び入れて交易活動を行い経済的な利益を上げるという意図があったとされます。同じように日隆が瀬戸内海に開いた法華宗寺院はカトリックの教会と同じく布教拠点であると同時に、交易従事者のネットワーク拠点でもあり情報と安全をもたらしてくれる施設としても機能したはずです。

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 このような拠点があってこそ、瀬戸内海を舞台とする海上交易は可能となったでしょう。そして種子島、そして南シナ海を越えて琉球へと、そのエリアを拡大させて行けたのです。
 このような本門法華宗の海上交易ネットワークの形成は、宇多津にはどんな影響を与えるのでしょうか。
本妙寺というネット拠点が日隆によって新設されたことで宇多津の港湾機能は大きく発展したはずです。まずは、寄港する船の数や交易相手の港などの増加につながったはずです。例えば、それまでなかった種子島との交易船が立ち寄ることが増えたかもしれません。それは、古代に、カトリックの司教座が置かれた都市が発展して行ったのと同じように、周辺の湾岸都市とは違った人とモノの流通をもたらすことにつながったのではないでしょうか。
15世紀半ばに、本妙寺が宇多津に開山されたことは、経済的には本門法華宗の海上交易ネットワークに参加する権利を与えられただとも言えます。その同盟都市の一員として宇多津は、さらなる進化を遂げていくことになるのです。

参考文献 日隆の法華宗と三好長慶   法華宗を媒介に      天 野 忠 幸 都市文化研究 4号 2004年