讃岐綾氏は、阿野郡一帯で活躍した古代讃岐の氏族です。
 讃岐綾氏は、7世紀半ばに阿野郡(評)の長官である評督に任じられて以後、郡司級豪族として発展の道を歩んだようすが『日本書紀』や六国史、その他の古代文献資料の中に、かなりの記録が残っています。そして、武士団へと「変身」していくのです。史料に現れる讃岐綾氏の記述を通して、その実態や性格について考えて見ましょう。
 
城山地図

綾氏が残した巨石墳と寺院建立は?
 讃岐国府があった坂出市の府中町には、新宮古墳・綾織塚・醍醐1~9号墳などの巨石墳があります。これらの古墳は、ほとんど出土遺物が伝わらないために、遺物の内容から被葬者の身分や性格について知ることはできませんが、築造年代は、六世紀末には新宮古墳、綾織塚や醍醐一~九号墳なども、六世紀後半から七世紀前半にかけての時期とされています。
L324384000527039醍醐古墳
 この府中町一帯の巨石墳は、綾氏の一族によって、築造されたと考えられているようです。
横穴式巨石墳に続いて、府中町一帯には、鴨廃寺・醍醐寺などの古代寺院が確認されています。
鴨廃寺・醍醐寺跡からは、外縁にX文のめぐらされた八葉複弁蓮華文軒丸瓦が出土しています。また、これと同文の瓦が、綾南町陶田村神社東灰原付近でからも出土していますが、陶一帯には、古代寺院跡が見つかっていません。陶一帯が、六世紀後半から、平安時代末期までの須恵器の一大生産地として成長していくことを考えると、鴨廃寺や醍醐寺の建立に際して、陶に瓦窯が作られ綾川の水運で運ばれてきたことが考えられます。鴨廃寺や醍醐寺の瓦は、陶で焼かれた可能性があるようです。なお、鴨廃寺・醍醐寺の建立は、その瓦文様から、白鳳時代の後半には開始されていたようです。


10316_I3_sakatahaiji坂田廃寺
  坂田廃寺跡と綾氏 
 さて、高松市の石清尾山古墳群が造られた南麓は坂田郷と呼ばれていました。その西の浄願寺山の東麓には、坂田廃寺があり付近からは金銅誕生釈迦仏立像や、瓦を焼いた窯跡も発見されています。同時に、鴨廃寺・醍醐寺と同文の瓦も出ています。この坂田廃寺の近辺も、綾氏の拠点のひとつであったことが、十世紀末の文献資料や「日本霊異記」などによって分かります。この周辺に綾氏の一族が居住するようになるのは、坂田廃寺が建立された白鳳時代の後半か、それ以前のことのようです。
「高松市 坂田廃寺

  坂田廃寺周辺から出土した金銅誕生釈迦仏立像
 高松市鬼無町佐藤山にも、巨石墳が分布します。
この佐藤山巨石墳の被葬者が、綾氏の一族であったと考えられるなら、坂出市府中町一帯に居住した綾氏の一支族が、六世紀後半から七世紀前半には、このあたり一帯に進出していたことになります。
 そして、坂出市(令制の阿野郡)の綾氏と、高松市(令制の香川郡)の綾氏の間には、『日本霊異記』の説話にみられるような一族の間での婚姻関係が古墳時代の後期からあったのではないかとも考えられます。
 このように、綾氏は六世紀後牛の時期には、阿野郡と香川郡の一帯に住み、巨石墳文化を営み、古墳文化が衰退に向かう頃には、寺院建立を行なったと研究者は考えるようです。
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 綾氏の地方役人への進出
 律令制の導入で評制が布かれると、綾氏は阿野郡の評造(評督)に任じられたようです。
  『日本書紀』天武天皇十三年(六八五)十一月一日の条によると、讃岐綾氏が、畿内の有力豪族である大三輪君・大春日臣・阿倍臣・巨勢臣などの五十一氏とともに、朝臣の姓を賜わったことがみえます。恐らく、綾氏が朝臣の姓を賜わった背景には、阿野郡の評造としての実績があったのでしょう。奈良時代の後半頃になると、綾氏は一族を阿野郡の隣郡の香川郡の大領として、出仕させる程の有力豪族に成長して行きます。
 『東寺文書』の中の、「山田郡弘福寺校出文書」によると、
  (端裏書)
 「讃岐国牒一巻」 (寺衡力)
 山田郡司牒 川原寺衛?
   寺
  合田中検出田一町四段??
 牒去天平宝字五年巡察??
 出之田混合如件、???
 伯姓今依国今月廿二日符?停止??、
 為寺田畢、掲注事牒 至准状、?牒
        天平?外少初位?秦
          主政従八位下佐伯
 大領外正八位上綾公人足??上秦公大成
 少領従八位上凡?   
        寺印也
 正牒者以宝亀十年四月十一日讃岐造豊足給下
  とあって、綾氏の一族の綾公人足が、山田郡の大領の地位にあったことが分かります。
 この綾公人足は、阿野郡にいた綾氏の一族でしょうか、それとも香川郡にいた綾氏の一族だったのでしょうか?
 どうも阿野郡に居住した綾氏の一族であったようです。というのは、綾公人足が山田郡の大領になった背景には、次のような『続日本紀』大宝三年三月丁丑の日に出された、法令の影響があると考えられるからです
 下制日、依令、国博士於部内及傍国・
 取用、然温故知新、希有其人 若傍国無人採用 則申省、然後省選擬、更請處分、
 又有才堪郡司 若当郡有三等已上親者、聴任比郡、
とあって、三等以上の親族に限って、隣郡の郡司となることができたのです。この「三等已上親」というのは、現在の民法の「三親等以内の親族」と同じで、近親者という意味に使われているようです。
 香川郡に綾氏の一族がいたことは、『日本霊異記」中巻、第16の説話に、次のように記されています。
聖武天皇の時代の讃岐の国、香川郡坂田の里に、富裕な分限者がいて、夫婦とも綾姓として登場します。また、東寺の『東宝記』収載の天暦十一年元(957)二月二十六日の太政官符に、「香川郡笠居郷戸主綾公久法」とあります。
 このように、阿野郡から東の香川郡への綾氏の進出は、巨石墳が築造された六世紀後半にさかのぼって考えることができます。ここからは、かなり古い時期に移住が行なわれたことが分かります。

 奈良朝末期に綾氏は次のような訴えを中央政府に起こしています。
『続日本紀』延暦十年(七九一)九月二十日の条
讃岐国阿野郡人正六位上綾公菅麻呂等言。
己等祖、庚午年之後、至二于已亥年 始蒙賜朝臣姓 
是以、和銅七年以往、三比之籍、並記朝臣 
而養老五年、造籍之日、遠枝庚午年籍削除朝臣 
百姓之憂、無過此甚 請櫨三比籍及旧位記 蒙賜朝臣之姓 許之
意訳すると、朝臣の姓を名乗る許可を次のように訴えているのです。
①阿野郡の綾氏一族の当主綾公菅麻呂が次のように願い出ます。
②綾氏は文武帝三年の己亥の年に、初めて朝臣の姓を賜わった。
③ところが養老五年の造籍が庚午年籍を参考にしたために、朝臣の姓が削除されてしまった。
④これをもとにもどして欲しい
訴えたことがわかる。
 この綾氏の訴えは。中央政府に受け入れられて、綾氏は朝臣の姓に復することができます。

綾氏の中央官人化と在庁官人制
  『続日本後記』嘉祥二年(八四九)二月二十三日の条によると、
 讃岐国阿野郡人 内膳??、掌膳外従五位下綾公姑継 
主計少属従八位上綾公武主等。改本居 貫附左京六條三坊
とあり、綾氏の一族である綾公姑継が宮内省の内膳司の下級役人として、綾公武主が民部省の主計寮の下級役人になっていて、本貫を讃岐から左京六條三坊に移すことを許可されているのが分かります。これは、綾氏の一族の中に中央官人化するものが現れていることを示します。
 また、平安時代後期の永承年間には、綾氏の一族が「国雑掌」として、記録の中に顔を出すようになります。『平安遺文』によると、
〇讃岐国雑掌綾成安解 申進上東大寺御封事
  合准米貳伯拾陸鮮
   塩柑一石五斗、正物柑石、代六十斟
   嫁七百八十廷「未請」   代百五十六鮮
 右年々御封内、進上如件、以解、
  永承元年七月廿七日 雑掌綾成安
        (『平安遺文』六三三)
O讃岐国雑掌綾成安解 申進済東大寺御封米事
  合貳値斟
 右、富年御封米内、且進済如件、以解、
 永承貳年七月貳拾貳日 雑掌綾成安
        (『平安遺文』六四三)
永承年間には綾氏が国雑掌として、名をみせています。この国雑掌とは各地にあって運送業に従ったものだとされます。国雑掌という運送業専従者が登場する背景には、律令政治機構がくずれ、地方有力豪族が年貢や正税などの運送を請け負わないと、都までの物流が機能しなくなったことをを示しています。
 この傾向は在庁官人制の出現によって、いっそう加速されます。
在庁官人制は延喜年間の律令制再建政策の一環として設定されたもので、国司の任国支配における新しい現地官僚として設定されたものです。「平安遺文」によると、その位署の部分に、
 府老佐伯
 橡  凡
 府老綾宿
 目代散位惟宗宿々
   散位安宿
    (『平安遺文』四六三三。讃岐国
    留守所下文案)
 大国造在判
 大橡佐伯
 散位藤原宿禰
 府老綾朝臣
 目代越中橡小野在判
 平安遺文」一〇三五、讃岐国 曼荼羅寺僧善芳解案)
ここには、在庁官人として、佐伯氏や綾氏の名があります。佐伯氏は、空海を生んだ善通寺の佐伯氏でしょうか。
在庁官人制は、地方豪族の地位の向上をもたらします。
国司は任命されても京に留まり、自分の身代わりともいうべき「目代」を派遣します。逡任国司の制度の下で、在庁官人として国賓の留守所に出仕するようになった地方豪族の権限は、郡司時代よりも強化されます。
在庁官人の初見史料とされる延喜十年「初任国司庁宣」には
 新司官一 加賀国在庁官人雑任等
  仰下三箇条事
 一、可早進上神宝勘文事   (本文省略)
 一 可催行農業
   右国之興復、在勧農、農業之要務、在修池溝 宜下知諸郡 早令催勧矣、
 一 下向事
   右大略某月比也、於一定者、追可仰下之 以前条事、所宣如件、宜承知依件行之、以宣。
   延喜十年 月 日
    (『朝野群載』廿二諸国雑事上)
ここからは、神事と勧農に関する事柄が、在庁官人によって行なわれるようになったことが分かります。古代政治にとって最重要事項は神事であり、律令制下には国司の任務でした。その農業政策を綾氏などの地方役人が行うようになったのです。これは、地方役人の在庁官人の権力拡大をもたらすことにつながります。
 綾氏の地方豪族としてのさらなる成長
 鴨廃寺や醍醐寺・坂田廃寺の建立の際に、綾氏が瓦窯を綾南町陶に求めたことは、最初に記しました。この陶地区では、これら白鳳時代の瓦を焼いた窯より、古くから須恵器を焼いた打越窯跡がありました。時間的序列で見ると、打越窯跡の操業が六世紀後半で、綾織塚・新宮古墳・醍醐一~九号墳の築造が六世紀後半から七世紀前半にかけてということになります。ここからは六世紀後半には綾氏によって、陶ではすでに私的な須恵器生産が先行して行われていたことを意味します。
 しかし、地方豪族である綾氏が当時の最先端技術である須恵器生産の技術や運用を、独自に持っていたとは考えられません。これは、国府の管理下に、国司の指揮のもとに行なわれるようになったと研究者は指摘します。しかし、在庁官人制は綾氏にチャンスを与えます。
                 須恵器を焼いた窯復元図
綾氏が須恵器生産に関与する機会をもたらしたのです。
そこには讃岐国府が阿野郡におかれ、綾氏が阿野郡の郡司(在庁官人)だったという地理的条件があります。平安時代後期の頃になると、在庁官人である綾氏が、陶地区での須恵器生産を管理し、須恵器や瓦製品を都まで運んでいくようになるのです。
また、綾氏の一族が国雑掌として、平安時代後期の頃に中央と讃岐を結ぶ年貢や正税の運搬の仕事に従事していたことは述べました。これは綾氏に「役得」をもたらします。中央からの情報・技術・文化をいち早く入手し讃岐にもたらすポストにいたのです。このように、讃岐綾氏の一族は讃岐地方における須恵器生産に関与し、讃岐地方の経済活動に大きく係わっていたと考えられます。また、綾氏は製塩産業も経営していたようです。
綾氏の「殖産興業」策
『延喜式』によると、讃岐の阿野郡からは調として「煎塩(いりしお」を貢上することが、定められています。『万葉集』巻一の五には

 「讃岐の国かをの郡に幸せる時・軍王の山を見て作れる歌」の中に、「聡の浦のあま処女らが焼く塩の念ひぞもゆる」

と製塩が行なわれた様子を歌った歌があります。
『日本霊異記』中巻第十六の説話には香川郡坂田の里の「富人」として綾君がみえます。
この綾君は多くの「使人」を用いて「営農」しているばかりでなく、一部の家口の中には「有業釣人」と漁業をもってなりわいとしているものもみえます。ここからは海浜に近い地域に住む綾君が、海産に強い関心を示し、塩釜を用いた製塩が行なわれたのでないかと研究者は推論します。
 平城宮木簡第三三〇号に、
 讃岐阿野郡日下部犬万呂三口  四年調塩
とあることや、綾氏が居住した坂出一帯にいくつかの古墳時代の製塩遺跡が発見されていることによって、裏付けられます
 また、綾君の家口の中に、漁業をもってなりわいとしているものがいたことは、『延喜式』に中男作物として、乾鮒・鯛楚割・大鰯・鮨・鯖・海藻などの貢上が定められていたことからもうかがえます。
それは、船を操る「海民」の存在をしめし、それが海上交易への進出への道を開きます。また、「営農」の中には、墾田永代私有令以後に開発された多くの荘園の耕作活動が含まれていたことでしょう。
 以上から考えると、綾氏の経済基盤は農業を始めとして、製塩・漁業などの各方面にわたっていたようです。そして、平安後期になると国雑掌という運送業にも従い、在庁官人という立場をうまく利用し勢力を拡大します。さらに平安後期には陶地区における須恵器や瓦の生産活動を把握する立場にまで成長していきます。そこからは、多くの収益を得ていたでしょう。
 こうして綾氏は、一族の中で郡司職を世襲する特権や在庁官人となる権利に恵まれていたために、本家筋にあたる綾氏を中心に、繁栄を重ねていたと考えられます。
 綾氏のような氏族経営による「殖産興業」的な活動は、他の郡司級豪族にも共通したものだったようです。それは三豊の丸部氏が藤原京への瓦提供のために宗吉に中央権力の支援を受けながら当時では日本最大級の瓦生産工場を建てるのと、似た構造かも知れません。
 綾氏の武士化はどのように進んだのか?
 鎌倉時代になると、綾氏の子孫は、羽床・香西・大野・福家・豊田・柞田・柴野・新居・植松・三野・阿野・詫間などの諸氏に分かれて行きます。彼らは中讃を中心に在地武士として活躍することになります。
 綾氏は平安時代後期になると、中央の藤原氏と関係を深めていきます。そして、讃岐藤原氏と称すようになります。『綾氏系図』には、綾大領貞宣は娘を中納言家成の讃岐妻として婚姻関係を結び、その子の章隆を産んだとします。綾氏は自らを、その後裔と称すようになります。
 中納言家成は烏羽上皇の近臣で、その院政を支えた受領のうちの一人です。しかし、これも先ほど述べたように遥任国司で、上皇のそばから離れた記録はなく、実際には讃岐に赴任していないようです。家成が遥任国司であったことを考えると、綾氏の娘との出会いの機会はありません。
 恐らく、綾氏が藤原氏を称するようになったのは、中央の藤原氏の権勢という「虎の皮」を被ることで、自分の在地支配をスムーズにしようとしたねらいがあってのことと研究者は考えています。
 綾氏が武士化していく上で、阿野郡の郡司職を世襲してきたことは、大きな力になったようです。
平安後期になると地方の治安は乱れ、瀬戸内地方では海賊が横行するようになります。
『三代実録』貞観四年(八六二)五月二十日の条には
近ごろ海賊が往々にして群をなして往還の人々を殺害したり、公私の雑物を掠奪するようになり、備前国から都におくる官米八十鮮を載せた船が海賊におそわれ、官米は侵奪され、百姓十人が殺害されるような事件が起こったので、播磨・備前・備中・備後・安芸・周防・長門・紀伊・淡路・阿波・讃岐・伊予・土佐などの国から、人夫を徴発して海賊の討伐をさせた記事があります。
これ以後、中央政府は海賊迫捕の命令を何度も出しています。
 また、『三代実録』元慶七年(八八三)十月十七日の条には、
備前の国司公庫稲二万束を割いて出挙し、その利益を兵士124人の糧にあて、要害の地にこの兵士をおいて、船や兵器をととのえ海賊を防がせようとしたことがみえます。

このように当時の瀬戸内海は、海賊の横行が大きな社会問題となっていたのです。海賊の横行に対して讃岐の国には、検非違使がおかれていました。
純友の乱の鎮圧と綾氏の武士化
関東で平将門の乱に相応じるように、藤原純友の乱がおきます。侵入した純友軍によって讃岐国府は占領され、焼き払われます。この乱の後に、追捕使や押領使が常設されることになります。国検非違使や追捕使、押領使に任じられたのは「武勇之輩」です。彼らは、地方の治安維持者でした。これに任用されたのが、郡司などの一族でした。綾氏の一族も、この国検非違使や追捕使、押領使として任命されたと考えられます。これが綾氏などの郡司級豪族が武士化していく契機になります。
 すでに、古くは桓武天皇の時代から郡司の子弟が健児としておかれ、地方の治安維持にあたっていました。健児にとって、国検非違使や追捕使、押領使などの職は魅力のある地位だったはずです。特に、讃岐地方は承平の乱の影響を直接受け、讃岐国府は純友の賊によって焼かれました。国府のある阿野郡の郡司である綾氏の一族が、純友の乱に対処するための軍事力として組織されたことは十分考えられます。このように、純友の乱は綾氏が武士化するための、一つの契機となったと研究者は考えているようです。
 以上の流れをまとめると次のような「仮説」になります。

讃岐綾氏の活動

①讃岐綾氏は六世紀後半から七世紀前半にかけて、坂出市の城山山麓に巨石墳を多数造営し、七世紀後半頃になると鴨廃寺や醍醐寺などの寺院建立を行なった。
②阿野郡の綾氏によって鴨廃寺や醍醐寺が営まれたと同じ頃に、香川郡の綾氏によって坂田廃寺がつくられた。
③律令時代になり、評制が布かれると、綾氏は阿野郡の評造(評督)に任じられた。そして譜第郡司として、綾郡の郡司職を世襲した。
④在庁官人制が施行されると、綾氏は在庁官人として国府留守所で活躍した。
⑤讃岐綾氏の一族は、荘園を拡大する一方で製塩や漁業にも手を伸ばし、「殖産興業」を活発に行う氏族として勢力を伸ばした。
⑥鎌倉時代になると讃岐武士団の中核の一つとなった。
⑦綾氏の子孫は、羽床・香西・大野・福家・西隆寺・豊田・祚田・新居などの在地武士として活曜するようになった。

このようにして綾氏は古代から中世へ、地方在住の郡司から武士へと姿を変えながら勢力を拡大していったのです。

参考文献