伊予土佐街道の一里道標をたどりながらやって来たのは旧山本町役場の前庭。
「与州松山浮穴郡高井村 新七、弥助、 清次、粂左衛門」
の文字が読めます。伊予松山の南の浮穴郡の人たちが寄進したもののようです。伊予土佐街道の里呈や灯籠は、ほとんどが伊予の人々により建てられています。
今は、ここにありますが、もとあった場所は、もう少し東へ行ったところで、街道が大きく南へ曲がった角にこの三里道標はあったそうです。おそらく交通の邪魔になり、ここに移転してきたのでしょう。役場に保管し、道行く人に見える場所に置くなど心遣いのあとが見られます。これも私にとっては先人からの「おもてなし」とかんじられます。
この地域は「辻」と呼ばれる通り、交通の要地で、観音寺へ、伊予へ、こんぴらへ、箸蔵へと刻んだ大きな道標や灯籠が近くにも残されています。
休憩後に、次の四里道標に向けて旧街道を原付バイクで走りだした。
すぐに祭りの幟が目に入りました。秋の高く澄んだ青い空にはためく幟は、絵になります。
どこの神社の祭りかなとバイクを止めて仰ぎ見ると・「金毘羅大権現」とあります。
なぜ「金毘羅大権現」なの・・・???
①金毘羅さんから遠く離れた山本町でなぜ「金毘羅大権現」の幟が揚がっているのか?②神仏分離以後、金刀比羅神社は「金毘羅大権現」を捨てたはずなのにどうして・・?③幟の一番上の天狗は何を意味するのか?④○金は金毘羅神社、それなら○箸は、何なのか?
私の明晰な頭は疑問点を以上のようにまとめて、解決に向けての糸口を探ろうとします。視線が向かったのは幟の下の石造物です。
○金とありますので、金毘羅信仰に関係するものであるようです。
ここから私に分かることは、丸亀街道沿の神社の中にあるような「金毘羅さん遙拝施設」ではないということです。そして、金毘羅さんの御札が納められているということは、この石造物自体が「金毘羅大権現」としてお祭りされているのではないかということです。
怪しげな男がボケーっと立ち尽くしているので、家の中から主人が出てきてきました。
さりげなく挨拶を交わして「ええ幟ですな」と声をかけると、主人は次のようなことを話してくれました。
さりげなく挨拶を交わして「ええ幟ですな」と声をかけると、主人は次のようなことを話してくれました。
①この地区の23軒で「山本境東組」という金比羅講をつくってお参りしてきた。②年に3回、1月10日・6月10日・10月10日には、講メンバーでお祭りをして、ご馳走を食べる。③その時には、当番が金毘羅さんへ参拝して新しい御札をもらってきて、ここへ納める。④講メンバーにとって、この石造物が「金毘羅大権現」と思っている。⑤いつ頃から始まったか分からないが、この石造物には大正の年号が彫り込まれている。⑥いまはメンバーが減って7軒になって、運営が大変だ⑦この石碑には3回も自動車が正面からぶつかってきた。それでも壊れなかった
主人の話から分かったことは以上です。
ここからはこの地区の人たちが金比羅講を組織して、もらってきた御札をここに入れて、信仰対象としてきたようです。推論したとおり、この石造物は「金毘羅大権現」なのです。しかし、「金毘羅大権現」は、明治の神仏分離の際には神と認められずに、金毘羅さんからは追放されました。
なぜ、それなのにここでは「金毘羅大権現」を今でもお祭りしているのでしょうか?
なぜ、それなのにここでは「金毘羅大権現」を今でもお祭りしているのでしょうか?
考えられることは、この信仰形態はそれ以前の江戸時代から行われていたということです。そのため、金毘羅大権現が金刀比羅宮と名前を変えて神道化しても、ここでは以前通りの名前と、祭礼方法が継続されたのではないでしょうか。
これで疑問点の二つは、推論が見えてきました。あと二つは「天狗と○箸」です。
天狗とはなにか。これは簡単にいうと「修験者」の象徴です。
四国で、天狗達の巣のひとつが象頭山金毘羅大権現でした。江戸時代の初めの金毘羅大権現の創世記に活躍したのは、高野山で学問を積んだ宥盛のような真言宗の修験者達でした。彼は、土佐の修験道のリーダーをリクルートして多門院を開かせるなど、四国の修験者達のリーダーとして活躍し、多くの子弟を育成し四国中に「修験道」ネットワークを形成していきます。
箸蔵寺の天狗
つまり、金毘羅さんは修験者の集まる山で、行場でもあり、天狗の山であったのです。
近世初頭においては、金毘羅さんは「海の神様」としての知名度はありません。天狗の住む修験者の山の方が有名だったと私は思っています。そして、まだ全国的にも知られていない、地方の小さな権現さんだったのです。それを全国へ広げていくのは、宥盛等が育成した修験者組織なのです。「塩飽の船乗り達が海の神金毘羅大権現をひろめた」というのは、本当だったとしてももっと後のことです。これについては別項の「金毘羅大権現形成史」で、述べましたのでこれ以上は触れません。
どちらにしても、この地に金毘羅大権現をもたらしたのは天狗で、修験者たちの布教活動の成果だと私は考えます。そして、人々も天狗(修験者=山伏)を受けいれていたのでしょう。
それでは○箸とは、なんでしょうか。
この先の財田川の長瀬橋のたもとに残る灯籠を兼ねた道しるべです。
ここには「右 はしくら」「左 こんぴら」と刻まれています。箸蔵寺は、讃岐山脈の猪ノ鼻峠を越えた阿波徳島にある山岳寺院です。この寺も近世には、高越山とともに阿波修験道の拠点のひとつとされていました。金毘羅大権現の「奥の院」として「両参り」を提唱して、幕末から明治にかけて寺勢を伸ばしました。讃岐山脈の麓にある各町村の村史や町史を読んでいると、阿波からの山伏が布教定着し、「山伏寺」を村々に立ち上げていた様子が記されています。その拠点が箸蔵寺になります。
箸蔵寺本堂
箸蔵寺は明治の神仏分離の際にも神道に転ずることがありませんでした。
そのため今でも「金毘羅大権現」をお祭りしています。本堂の前には大きな子天狗と大天狗のふたつの天狗面が掲げられています。
また、明治になって大久保諶之丞による四国新道が財田から三好に抜けるようになると、このバイパス沿いに位置することが、有利に働き多くの信者を集めることになります。そのような寺勢を背景に修験者たちは、国内だけでなく植民地とした朝鮮や中国東北部(旧満州)へも布教団を送り込み信者を増やしていったのです。その時期に建立されたのが現在に残る本堂などの伽藍なのです。明治の建物にもかかわらず早くも重要文化財の指定を受けているように、彫り物などは四国の寺院建築物としては目を見張るものがあります。
また、旧参道の玉垣の寄進者名も朝鮮や中国旧東北部からのものが多く残されています。
このように、幕末から大正時代にかけての箸蔵寺の修験者僧侶の布教活動には目をみはるものがあったのです。これが、讃岐の里へも影響を与えています。金刀比羅街道の標識に「はしくらへ」と刻まれているのは、当時の箸蔵寺の布教活動の勢いを示す物なのです。
こうして、○金と○箸がならぶのは、
①この地に「金毘羅大権現」をもたらしたのは、金毘羅さんの修験者たちだった②しかし、神仏分離で金毘羅さんから天狗(修験者)は追放された③その空白部へ入ってきたのが、箸蔵寺が組織した修験者集団であった。④そのために「金毘羅大権現」は、そのままにして○金と○箸が並び立つことになった。
という推論にたどり着きました。
箸蔵寺の金毘羅大権現 扁額
わたしにはもうひとつ気になる存在が、この地域にはあるのです。
それがこの背後の丘の上に鎮座する宋運寺と天満神社です。両者は、神仏分離以前は一体でした。建立者は山下氏で、金毘羅大権現の別当金光院を世襲していた家の氏寺でした。つまり、金毘羅さんとストレートにつながっていたのです。この地域への金毘羅神信仰の伝播について、この寺の果たした役割については次回、お話しすることにします。
関連記事
関連記事
コメント