明治以前の金毘羅さんの姿を見てみましょう。
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 明治以前の神社は、本地垂迹(ほんちすいじゃく)のもとで神仏習合が行われていました。この考えは日本の八百万の神々は、実は様々な仏が化身として日本の地に現れた「権現(ごんげん)」であるとするものです。「垂迹」とは神仏が現れることをいい、「権現」とは仏が「仮に」神の形を取って「現れた」ことを意味します。
   インドからやって来た番神クンピーラ(金毘羅神)を権現としたので金毘羅大権現と呼ばれていました。そして象頭山は、金光院松尾寺とその守護神である金毘羅大権現との神仏混淆の地で、現在の旭社は薬師堂(金堂)、若比売社は阿弥陀堂、大年社は観音堂というように多くの寺院堂塔からなる一大伽藍地でした。金光院主の差配の下、普門院、尊勝院、神護院、萬福院、真光院という5つの寺の僧侶がお山の事務をとり行っていました。

これは幕末の「金毘羅参詣名所圖會」に見る金毘羅さんの姿です。
金毘羅本殿周辺1
大門から続く参道と石段を登ってきた参拝客が目にするのは、左下の金堂(現旭社)です。そして、参道は右に折れて仁王門をくぐって、最後の石段を登って本社へ至ります。山内の建物を挙げると次のようになります
 大別当金光院 当院は象頭山金毘羅大権現の別当なり
本殿・金堂・御成御門・ニ天門・鐘楼等多くの伽藍があり。
古義真言宗の御室直末派に属す。
山内には、大先達多聞院・普門院・真光院・尊勝院・万福院・神護院がある
この説明文だけを読むと、金毘羅さんが神社とは思えません。また当時の建築物群も、神社と云うよりも仏教伽藍と呼ぶ方がふさわしかったようです。
 この絵図だけ見ると、どの建築物が一番立派に見えますか?
金毘羅山多宝塔2
これは誰が見ても中段の金堂が立派です。
幕末に清水次郎長の代参で金毘羅さんに参拝した森の石松は、この金堂を右上の本殿と勘違いして、この上にある本殿まで行かずに帰ったことになっています。そのために、帰り道で事件に巻き込まれ殺されたと語られています。それが、納得できるほどこの建物は立派です。同時の参拝記録にも賛辞の言葉が数多く記されています。

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 この建物は以前にも紹介しましたが幕末に三万両というお金をかけて何十年もかけて建立されたものです。そして、ここに納められたのが薬師さまでした。それ以外にも堂内には、数多くの仏達が安置されたいたのです。金堂は今は旭社と名前を変え、祭神は天御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神、伊邪那岐神、伊邪那美神、天照大御神、天津神、国津神、八百万神 などで平田派神学そのものという感じです。しかし、今は堂内はからっぽです。
   目を転じて手前を見ると塔が建っています。多宝塔を記されているようです。別の角度から見てみましょう。
金毘羅山旭社金堂

★「讃岐名所圖會」にみる金堂と多宝塔
さきほどの金堂を別の角度から俯瞰した絵図です。参道には、蟻の子のように人々が描かれています。正面に金堂(現旭社)、そして右へ進むと長宗我部元親の寄進したと云われる二天門が参拝客を迎えます。そして、参道の両側には灯籠が並びます。今の金毘羅さんの姿とちがうのは・・? 右手に塔があります。よく見ると多宝塔と読めます。これは今はありません。ここには神馬が奉納されています。明治以前の金毘羅さんが仏教的な伽藍配置であったことを再確認して、先に進みましょう。
まず、明治以前の建物群の配置図を確認しましょう
konpira_genroku 元禄末頃境内図:
元禄末頃(1704)境内図
元禄末頃の作と推定される「金毘羅祭礼屏風図」の配置と参道です
   ①昔の参道(点線)は、普門院の門の所に大門がありました
   ②脇坊中前土手を通り、本坊の大庭の中を通り、築山の道を抜け
    ③宥範上人の墓の付近を通り、鐘楼堂仁王門に出て
    ④本地堂其の他末社の前を通り、神前に至るルートでした。
 ○宝永7年(1710) 太鼓堂上棟。
 ○享保年中(1716-36)本坊各建物、幣殿拝殿改築、御影堂建立。
 ○享保14年(1729)本坊門建立、神馬屋移築。
このころ四脚門前参道を玄関前から南に回る参道(現参道)に付替え
 ○寛延元年(1748)  万灯堂建立。
 ○天保3年(1832)  二天門を北側に曳屋。
○弘化3年(1846)  金堂が建立。この図中にはまだ姿がありません
そして明治の神仏分離以後の配置図です
明治13年神仏分離後
    
    神仏分離・廃仏毀釈によって、どう姿が変わったのかを確認します。
    ①三十番神社 廃止し、その建物を石立社へ
    ②阿弥陀堂 廃止し、その建物を若比売社へ
    ③観音堂 廃止し、その建物を大年社へ
    ④金堂    廃止し、その建物を旭社
    ⑤不動堂 廃止し、その建物を津嶋神社へ
    ⑥摩利支天堂・毘沙門堂(合棟):廃止し、常盤神社へ
    ⑦孔雀堂 廃止し、その建物を天満宮へ
    ⑧多宝塔 廃止の上、明治3年6月 撤去
    ⑨経蔵   廃止し、その建物を文庫へ
    ⑩大門   左右の金剛力士像を撤去し、建物はそのまま存置
    ⑪二天門 左右の多聞天像を撤去し、建物はそのまま中門
    ⑫万灯堂 廃止し、その建物を火産霊社へ
    ⑬大行事社 変更なし、後に産須毘社と改称
    ⑭行者堂 変更なし、大峰社と改称、明治5年廃社
    ⑮山神社 変更なし、大山祇社と改称
    ⑯鐘楼   明治元年廃止、取払い更地にして遙拝場へ 
    ⑰別当金光院 廃止、そのまま社務庁へ
    ⑱境内大師堂・阿弥陀堂は廃止
    松尾寺は徹底的に破壊され、神社に改造された跡が読み取れます。そして、金光院、金堂、大門などは転用されています。なかでも明治の宗教政策の様相がうかがえるのが5つあった門院の転用用途です。
    神護院→小教院塾、
    尊勝院→小教院支塾、
    万福院→教導係会議所、
    真光院→教導職講研究所、
    普門院→崇敬講社扱所への転用が行われています
    崇敬講社扱所以外では、讃岐における神道の指導センターとしての役割を忠実に実行したようです。 現在では、下の現在の境内図に見られるように坊舎跡は取り払われ、宝物館や公園になっています。  
     
konpira_genzai2002年境内図
2002年境内図
こうして仏教的な伽藍は、神社へと姿を変えたのですがそこには、おおきな痛みを伴いました。神仏分離が金毘羅大権現になにをもたらしどう変えていったのかを、次回は当時の金光院主に焦点を当てながら考えていきたいと思います。
金毘羅山旭社・多宝塔1

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参考文献(HP) 讃岐象頭山金毘羅大権現多宝塔(象頭山松尾寺多宝塔)