明治と年号が変わる直前の慶応4年の3月に新政府から神仏分離令が出されます。この一連の通達を受けて、丸亀藩や高松藩はどのように対応したのでしょうか? 新政府の通達を見ると
「仏像をもって神体とし、また仏像、仏具を社地に置いている場合はすべて取り除き・・・・」
とあります。
この通達をうけた各藩が先ず行わなければならなかったのは何でしょうか?
それは「神社の御神体のチェック」ということになります。まずは、何を御神体として祀っているのかを確認しなければ、取り除くかどうかも判断できません。こうして明治2年2月5日、「御神体検査」を行う実行メンバーが招集され、八日には打合会が開かれ辞令が公布されます。そして、担当エリアと担当者が次のように決まります。
松岡調 大内、寒川、三木、山田、香川東の五郡吉成好信 黒木茂矩 香川西、阿野。鵜足、那珂の四郡大宮兵部 原石見 三野郡川崎出雲、真屋筑前 豊田郡
東讃から高松にかけて五郡をひとりで担当する松岡調がリーダー的存在だったようです。彼らに課せられた「御神体チェック」は、先祖が大切に本殿の奥深くに祀ってきた御神体を白日の下にさらすということです。これは、当時の人々にとっては、まさしく恐れを知らぬ行為と思われても仕方がありません。検査官」を見守る人々は、恐怖と不安で眺めていたでしょう。御神体のベールをはがそうとする「検査官」を、敵意のこもった目でみる人もいたかも知れません。調査に当たった人たちもお役目とはいえ、相当の胆力が求められたように思います。御一新の世の中だからこそ出来たことかも知れません。
さて「御神体チェック」は、どのように行われたのでしょうか?
松岡調が残した高松市周辺の神社の調査記録を見てみましょう。
松縄村熊野社 神体円石 梵字 仏像仏具は本門寿院へ。伏石村八幡宮 大石太田八幡宮 新しき木像外に厨子入り小仏像、本地堂は大宝院へ。一ノ宮村田村大社 男女木像、鏡三面。
ここからは御神体として、神像、鏡、石、仏像・鏡などが納められていたことが分かります。仏像・仏具類は近くの寺院へ移しています。粗略に扱ったり、集めて燃やすなどの「廃仏」的な行為は、行っていません。これは、小豆島巡礼の八幡さんに祀られていた仏さんが神仏分離で、近くの新しくお堂に移されていたり、かつて四国巡礼の札所で会った観音寺の琴弾神社にあった仏さんが、観音寺の境内に移されているのは、この時の検査チェックの結果だということが分かります。一宮の田村神社には、仏さんは祀られていなかったようです。
この他にも、棟札などの古いものを入れてあるところもあります。また神像にも木像、立像、坐像、男神、女神と実にさまざまな御神体が出てきました。「御一新」の名の下に社殿の奥深くから引き出され白日のもとにさらされた神々もびっくりしたでしょう。
こうして御神体が仏像などであった場合は、取り除かれました。
すると御神体がなくなる神社が出てきます。そこで新政府は、明治二年(1869)5月
「御神体なき神社には新しい御神体を勧請せよ」
という通達を出しています。この時に、新しくご神体を調えた神社も多かったようです。
調査が進められている中で、さらなる通達がやってきます。
【太政官布告】 第七百七十九(布)太政官 (明治3年)閏10月28日
今般国内大小神社之規則御定ニ相成候
条於府藩縣左之箇条委細取調当12月限可差出事
某国某郡某村鎮座 某社1.宮社間数 並大小ノ建物
1.祭神並勧請年記 附社号改替等之事 但神仏旧号区別書入之事
1.神位
1.祭日 但年中数度有之候ハゝ其中大祭ヲ書スヘシ
1.社地間数 附地所古今沿革之事
1.勅願所並ニ宸翰勅額之有無御撫物御玉?献上等之事
1.社領現米高 所在之国郡村或ハ?米並神官家禄分配之別
1.造営公私或ハ式年等之別
1.摂社末社の事
1.社中職名位階家筋世代 附近年社僧復飾等之別 1.社中男女人員
1.神官若シ他社兼勤有之ハ本社ニテハ某職他社ニテハ某職等の別
1.一社管轄府藩縣之内数ヶ所ニ渉リ候別
1.同管轄之庁迄距離里数
項目を見れば、神社については、社殿の間取りや大きさから始まり、いつ勧進してきたのか、新旧の社号、神社の歴史沿革、勅願所の有無、社領の石高、さらには神官については神職の職名や、僧侶からの還俗者であるかどうか、他社との兼務有無など多岐にわたっています。
これは、新政府の神祇科が進めようとする神社のランク付け(神社位階)や延喜式の式内神社指定の根本資料になるものでした。この作成を行う事になったのが「御神体チェック」作業を行っていた7人のメンバー達でした。彼らはすでに、主な神社には出向いて調査を行っていました。さらに各神社に通達を出し、これらの項目についての回答を求めると供に、再度出向いて確認も行ったはずです。彼らは調査権を行使できる立場にあったのです。彼らは、讃岐の神社の実態データーを握ったことになります。そして、神社の専門家に育っていきます。
さて、調査される側の立場に立って見ましょう。
この調査票が送られてきた神社は、どう対応したのでしょうか。
神職がいた神社は対応ができたでしょうが、神職がいない「村の鎮守さま」などはどうしたのでしょうか。村の庄屋層たちが集まって、協議したでしょう。しかし、村の鎮守のような小さな神社は、歴史・沿革などは分からないこと多かったようです。にもかかわらず、藩からは期限を切って提出を求められてきます。提出しなければ神社として認められないのです。存続のためには「創り出す」ほかありません。後世の適当なことを付会することに追い込まれた所も多かったようです。極めて短期間に、この「調書」は作成されたようです。そのため
「神社取調とは、大半の由緒不明の神社で、付会・でっち上げを行う過程であった」
と指摘する研究者もいます。
こうして、提出期限までの約2ヶ月の間に、各神社の「取調」書が作成され新政府の神祇科(じんぎ)に送られました。この作業に従事したメンバーは讃岐の神社について最も精通している人物たちに成長していきます。なかでもその後の神道界の権威になるのが松岡調です。彼については次回に見ていく事にして、先を急ぎます。
明治三年11月には政府から
「伝説による神号で呼んでいるところは神道による神号へ改めよ」
という通達が来ます。
この結果「伝説神号」とされた次のような神社名が新しい名前に改められます。
この結果「伝説神号」とされた次のような神社名が新しい名前に改められます。
祇園社 → 須賀神社王子権現 → 高津神社妙見社 → 産巣日神社皇子権現社 → 神櫛神社十二社権現社 → 木熊野神社金毘羅権現 → 琴平神社
こうして、讃岐の二十六の神社に新しい神号が与えられます。
調査が進んでいくと、金毘羅大権現がたどった道と同じような道を歩む寺院が出てきます。つまり、神社の別当寺の僧侶が還俗し、神主となるという対応です。
その結果、次のような別当寺が廃寺となります。
大川郡では志度町鴨部にあった西光寺ほか十二力寺。木田郡では牟礼村の愛染寺、最勝寺ほか五ヵ寺。小豆郡は土庄町渕崎の神宮寺ほか四力寺。香川郡は香南町の由佐にあった宝蔵寺。綾歌郡では綾南町滝宮にあった竜燈院ほか三ヵ寺。高松市は前田地区の押光寺ほか十四ヵ寺。坂出市が川津町の宝珠院ほか三ヵ寺。丸亀市は土器町の寿命院ほかIヵ寺。仲多度郡は琴平町の金光院ほか一力寺。観音寺市は粟井町の大円坊一力寺のみ。三豊郡では山本村財田大野の阿弥陀院ほか六ヵ寺。
讃岐全体では総数で六十一力寺が廃寺となりました。 しかし、この数は高知と比べると1/8程度の数です。
どうして、讃岐では廃寺となる寺院が少なかったのでしょうか。
それは還俗する僧侶の数が少なかったからです。高知では全体の2/3近い僧侶が還俗する「雪崩現象」が起きましたが讃岐ではそれが見られません。その原因を考えて見ましょう。
以前にも示しましたが神仏分離令を契機として、廃仏毀釈へと運動が燃え広がって廃寺が多く出た藩には、次の共通する3つの要因があります。
以前にも示しましたが神仏分離令を契機として、廃仏毀釈へと運動が燃え広がって廃寺が多く出た藩には、次の共通する3つの要因があります。
① 平田神学・水戸学などの同調者が宗教政策決定のポスト近くにいたこと。② 廃仏に対する拒否感のない殿様がいたこと。③ 庶民の寺院・僧侶への反発や批判が強く、寺院擁護運動が起きなかったこと
①については、讃岐の神社・仏閣の調査メンバーは、平田神学信奉者ではなく過激な「廃仏毀釈」行動はとっていません。神社に祀ってあった仏像などへの対応ぶりからも、それはうかがえます。
②丸亀藩の最後の殿様は、明治政府の「華族は神道式の葬儀・墓石」という指示にもかかわらず国元の墓は仏教式を用いています。ここからも神道強制には批判的な立場であったことが分かります。高松藩も神仏分離は行うが「廃仏毀釈」まで踏み込もうとする姿勢は見られません。
③については、前回にお話ししたように小藩の多度津藩では「一藩一宗位置寺院」という過激な寺院削減縮小案が初期には出されますが、領民挙げての反対を受けて、撤回に追い込まれています。
つまり「廃仏毀釈」の火の手が大きく上がっていく条件にはなかったようです。
さらに、加えるなら讃岐は真宗王国で浄土真宗のお寺が8割を越えます。
特に、高松藩は婚姻関係を何重にも結んでいた西本願寺興正寺派のお寺を保護してきた経緯があります。興正寺派のお寺のネットワークは宗学研究や講活動などでも活発な日常活動をを行っており、宗教的な情熱をもつ僧侶も多かったようです。これらが多度津藩の「一藩一宗位置寺院」への反対運動を支援したりもしています。
特に、高松藩は婚姻関係を何重にも結んでいた西本願寺興正寺派のお寺を保護してきた経緯があります。興正寺派のお寺のネットワークは宗学研究や講活動などでも活発な日常活動をを行っており、宗教的な情熱をもつ僧侶も多かったようです。これらが多度津藩の「一藩一宗位置寺院」への反対運動を支援したりもしています。
さらに、中央においても東西本願寺は新政府への奉納金などを通じて、深いつながりをすでに作っていました。神仏分離の際には、真宗エリアの地域には新政府は配慮を行ったといわれます。こうした要因が、讃岐で廃仏毀釈運動が広がらなかった要因と私は考えています。
「神社取調」が終わった後の村では、今までと違う光景が見られるようになります。
例えば、村の八幡神社とその別当寺は隣接して、一体のもとして住職さんが祭礼を行っていました。しかし、神社とお寺の間には、垣根や玉垣などの人工的な境界が作られ分離されていきます。また、お寺の目の前の神社の祭礼を行うのは、他の村に住む神主さんがやってきて行うという光景が見られるようになるのです。
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