「丸亀より金比羅・善通寺・弥谷寺案内図」と題される絵地図です。大坂から金毘羅船でやって来た参拝客に丸亀の旅籠や土産店屋が配ったと云われます。時代とともに数多くの種類が刷られて、それを歴史順に並べて比較すると、建物や鳥居に違いがあって金比羅街道の移り変わりが楽しめます。
少し、見方を説明しておくと、
②双六で云えば、丸亀湊をスタートにこまを進めていく事になります。ランドマークタワーでもある丸亀城に見送られ、讃岐富士を左手に、一番左奥の象頭山へと丸亀街道を南へ足を進めていきます。
③丸亀街道は、丁石が150あったと云われるので約15㎞。江戸時代の人にとってはゆっくり歩いても3時間足らずの道程だったのではないでしょうか。この手の絵図は、その道程は大きく省略しています。
さて、最初にこの絵図を見たときの私の疑問は題名が「金比羅参拝絵図」でないことです。
「丸亀より金比羅・善通寺・弥谷寺案内図」
なのです。大阪からやって来る人たちは、こんぴらさんを目指してやって来ているのだと思っていました。ところが、そうとは言い切れなかったようです。それが、この絵図の題名にも現れています。
弘法大師信仰が広まった江戸期には、その生地とされる善通寺や、学問・修行に励んだとされる弥谷寺も「聖地」とされ人気が高かったようです。弥次郎兵衛と喜多八のコンビも金比羅・善通寺・弥谷寺をめぐっています。
これについても、金比羅詣でのついでに善通寺に詣でているのだと思っていたのですが、そうとばかりは言えないようです。
善通寺参りのついでに、金毘羅山に参っていた信者の話です。
善通寺参りのついでに、金毘羅山に参っていた信者の話です。
主人公は酒井弥蔵という阿波の商人です
金毘羅信仰が高揚期を迎える19世紀初頭に阿波国半田村で商家を営んでいた父・武助と母・お芳の子として生まれました。半田町は吉野川中流にある町で、素麺が有名な所です。彼の父は、俳人でも有り、その影響から弥蔵も俳諧をたしなむ一方、易・相撲・芝居などにも興味を持って注解書を書くほどであったようです。また神仏への信仰心も篤く、亡くなる明治25年(1892)までの間に、伊勢始め高野山など数多くの参詣旅行をしていたことが、彼が残した参拝記録や日記から分かります。
しかし、彼の旅は参拝だけでなく、仕事上の旅もありました。彼の商売記録である『大福帳』には、半田の大きな薬屋の代行として、目薬の商品入れ替えのための旅もあったようです。富山の薬売りをイメージしますが、そのため旅慣れていたようです。
そんな彼が最も多く訪れていたのが、お隣の讃岐でした。
弥蔵の住んでいた半田からは、吉野川を渡り箸蔵寺を通って、二軒小屋を越えると讃岐の山脇集落に降りていけます。健脚な彼は、一日でこんぴらさんや善通寺に詣でる事はできたでしょう。
善通寺から弥谷寺への道
さて、平蔵はこんぴらさんに何回くらいお参りしているとおもいますか? 研究者が彼の参詣記録をまとめた一覧表によると、生涯を通じて200回以上も参拝しているようです。 弥蔵の金毘羅参詣記録から研究者は次のようなことを指摘します。
「特定の日の参拝回数が極端に多い」というのです。
特定の日とは、3月21日と10月12日です。
なぜ酒井弥蔵は、この日を選んで金毘羅参詣に行ったのでしょうか。まず、3月21日が、どんな日であったかを見てみましょう
特定の日とは、3月21日と10月12日です。
なぜ酒井弥蔵は、この日を選んで金毘羅参詣に行ったのでしょうか。まず、3月21日が、どんな日であったかを見てみましょう
こんぴらさん側のことを調べても分かりません。これは善通寺と関係があるのです。
善通寺は空海の生誕地とされ「弘法大師信仰」の高まりの中で、信者達からは「聖地」とされてるようになりました。弥蔵も弘法大師信者であったようです。彼は、生涯を通じて50回以上、善通寺に参詣をしています。そして、善通寺を同参拝した日には、46回もこんぴらさんにも参拝しているのです。しかし、これだけだとこんぴらさんにお参りしたついでに、善通寺にも参拝したとも言えます。
ところが参拝日が集中している3月21日は、善通寺に特別な行事があった日なのです。
この日は弘法大師が入定した日です。真言系の寺院にとっては特別詣の日に当たります。高野山では弘法大師の古くなった御衣を取り替える「御衣替」が行われます。そして、善通寺でも「百味講」という講が行われていたようです。では、この「百味講」とは、どのようなものなのでしょうか?
『毎年三月正御影供百味御膳講之記』には、「百味講」について次のように記します
讃岐之国善通寺は弘法大師第一の旧跡たる事、皆人の知る処にして、其昔より毎年三月二十一日信心の輩 飲食を奉る事久し。一度其講中に縁を結ぶ者は真言をさづかり又七色の御宝のおもひ出此事にして、現当二世安楽うたがひなきと、言事を物を拝し奉りて有がたさの数々短き筆に印しがたし。誠に此世 人々に進る者也。
ここからは百味講が、3月21日に信徒が百味(いろいろな飲食物)を奉納し、善通寺に伝わる「七色の御宝物」を拝見する講だったことが分かります。弥蔵の『散る花の雪の旅日記』によると開帳される「七色の御宝物」とは、
一 泥塔 大師七歳之御作一 五色仏舎利 八祖伝来一 水瓶 大師の御所持一 木鉢 同断一 一字一仏法華経文字 大師尊形御母君一 二十五条袈裟 祖師伝来一 閻浮檀金錫杖 同断
の七つの宝物であったと記します。弥蔵の百味講最初の参加は『散る花の雪の旅日記』の中で、
「斯講中を結びて、大師の霊場に参詣に趣事、去年今年両度なり」
どうして弥蔵は百味講に参加するようになったのでしょうか?
百味講は、単に宝物開帳の場であっただけでなく、先祖供養の場でもあったようです。弥蔵が最初に参加した弘化二年には、祖父・孫助や父・武助を始め合計15名の供養を行っています。また文久三年の百味講では、母や妻など五名が加えられています。ここから弥蔵が百味講に毎年参加するようになったのは、先祖供養を行うためだったことがうかがえます。
以上から三月二十一日は、先祖供養のために善通寺での百味講参加するために讃岐にやってきて、その途上にあるこんぴらさんにお参りしたようです。彼にとって、この日は善通寺が主であり、こんぴらさんは従だったのかもしれません。
この参拝絵図は和歌山の沽哉堂から出された『象頭山参詣路紀州加太ヨリ讃岐廻並播磨名勝附』です。左下が大坂で、紀州加太から播磨を経由して金毘羅へ参詣するための経路が描かれています。
この中にも、弘法大師誕生の地である善通寺や、八十八ヶ所霊場の弥谷寺なども描かれています。高野山をお参りする参拝者にとって「弘法大師生誕地・善通寺」という地名は、彼らを惹き付ける魅力的な聖地であったのでしょう。そして、実際に和歌山から舟で阿波に上陸した参拝客には「この機会にこんぴらさんにもお参りしよう」という意識が強くなって行ったのかも知れません。
この中にも、弘法大師誕生の地である善通寺や、八十八ヶ所霊場の弥谷寺なども描かれています。高野山をお参りする参拝者にとって「弘法大師生誕地・善通寺」という地名は、彼らを惹き付ける魅力的な聖地であったのでしょう。そして、実際に和歌山から舟で阿波に上陸した参拝客には「この機会にこんぴらさんにもお参りしよう」という意識が強くなって行ったのかも知れません。
こんぴらさんの幕末の賑わいは、善通寺や四国霊場、或いは法然をめぐる巡礼などの聖地巡りの渦の中から生まれてきたのかも知れないと思うようになってきたこの頃です。
さて、もうひとつの疑問であった酒井弥蔵の金毘羅詣が10月12日に多いのはどうして?これについては、また次回に・・・
関連記事は
参考文献 鬼頭尚義 寺社参拝の意識 酒井弥蔵の金毘羅参詣記録から見えてくるもの 京都精華大学紀要44号
関連記事は
参考文献 鬼頭尚義 寺社参拝の意識 酒井弥蔵の金毘羅参詣記録から見えてくるもの 京都精華大学紀要44号
コメント