阿波の酒井弥蔵のこんぴらさんと箸蔵寺の両参りについて
前回に続いて金比羅詣が200回を越えた阿波の酒井弥蔵についてです。研究者は彼の金毘羅詣が3月21日と10月12日に集中してることを指摘し、前者が善通寺の百味講にあたり、先祖供養のためにお参りしていたことを明らかにしました。言うならば、彼にとってこの日は、善通寺にお参りしたついでの、金比羅参拝という気持ちだったのかも知れません。
それでは弥蔵が10月12日に、こんぴらさんを参拝したのはどうしてでしょうか?
すぐに思い浮かぶのは、10月10日~12日は地元では「お十(とう)かさん」と呼ばれるこんぴらさんの大祭であることです。これは、金毘羅神がお山にやって来る近世以前の守護神であった三十番社の祭礼である日蓮の命日10月10日を、記念する祭礼がもともとの行事であったようです。
どうして祭りの最後の日にお参りに来ているのでしょうか。
実は、その翌日に彼が参拝しているのが阿波の箸蔵寺なのです。
弥蔵は、大祭の最後の日にこんぴらさんにお参りして、翌日に箸蔵寺に詣でることを毎年のように繰り返していたのです。ここには、どんな理由があるのでしょうか?
このこんぴらさんの例祭について 『讃岐国名勝図会』には、次のような記されています。
『宇野忠春記』曰く(中略)同日(11日)晩、別当僧並びに社祝頭家へ来り。 (中略)御神事終りて、観音堂にて、両頭人のすわりたる膳具・箸を堂の縁よりなげ捨つるを限りに、諸人一統下山して、方丈門前神馬堂の前に決界をなし、この夜は一人も留山せず。この両頭人の捨てたる箸を、当山の守護神その夜中に拾ひ集め、箸洗谷にて洗ひ、何所へやらんはこびけると云ひ伝ふ。
『宇野忠春記』という本には
「ここには、例祭の神事に使用した箸などを観音堂から投げ捨て、全員が下山し、方丈門から上には誰もいない状態にした。そして、その投げ捨てられた箸は、箸洗谷で洗われて何処かへ運ばれる
と書かれていると記されます。
この箸を洗った「箸洗谷」については、 『金毘羅参詣名所図会』には、
これ十月御神事に供ずる箸をことごとく御山に捨つるを、守護 神拾ひあつめ、この池にて洗ひ、阿州箸蔵寺の山谷にはこびたまふといひつたふ。故に箸あらひの池と号す。
と記されています。ここから「箸洗谷=箸洗池」だったことが分かります。そして、『讃岐国名勝図会』では洗った箸は
「何所へやらんはこびける」
とあいまいな表現でしたが『金毘羅参詣名所図会』では、
箸はその夜に阿州箸蔵谷へ守護神の運びたまふと言ひ伝ふ。」
と記されています。はっきりと「箸蔵寺のある箸蔵谷」へと運ばれると記されています。このように、金毘羅の祭礼で使われた祭具は、箸蔵寺に運ばれたと当時の人は信じていたのです。
なぜ箸蔵寺へ運ばれなければならなかったのでしょうか?
箸蔵寺の縁起『宝珠山真光院箸蔵寺開基略縁起』の中には、
敬而其濫觴を尋奉るに、 我高祖弘法大師入定留身の御地造営ありて、父母の旧跡を弔ひ玉ひ善通寺に修禅の処、夜中天を見玉に正しく当山にあたり空に金色の光り立り、瑞雲これを覆ふ。依て光りを尋来り玉ふ。山中で金毘羅大権現とその眷属に会う。其時異類ども形を現し稽首再拝して曰、
我々ハ金毘羅権現実類の眷属也。悲愍たれ免し給へと 乞時に山中赫奕して いと奥深き 巌窟より一陣の火焔燃上り 光明の真中に 黒色忿怒の大薬叉将忿然と出現し給へバ、無量のけんぞく七千の夜叉随逐守護し奉り 威々粛然たる形相也。薬叉将 大師に向ひ微笑しての玉ハく、吾ハ東方浄瑠璃世界医王の教勅に従ひ此土の有情を救度し、十二微妙の願力に乗じ天下国家を鎮護し、病苦貧乏の衆生を助け寿福増長ならしめ、終に無上菩提に至らしめんと芦原の初穂の時より是巌窟に来遊する宮毘羅大将也。影を五濁の悪世にたれ金毘羅権現とハ我名也。然るに猶も海中等の急難を救わん為、東北に象頭の山あり。彼所へ日夜眷属往来して只今帰る所也。依而往昔より金毘羅奥院と記す事可知。
この縁起は空海と金毘羅大権現を一度に登場させて、箸蔵の由来を説きます。まるで歌舞伎の名乗りの舞台のようです。
①善通寺で修行中の空海は、山の上空に立つ金色の雲を見て当地にやって来ます。
②そこで金毘羅大権現と出会い自らを名乗り「効能」を説きます。
③その際に自分は「海中等の急難を救わん為に象頭山」いるが、「彼所(象頭山)へ日夜眷属往来して只今帰る所也」と象頭山にはいるが、本来の居場所はここであるというのです。
④金毘羅大権現は空海に、当山に寺院の建立と金毘羅宮で使用した箸などの奉納を求めます。
⑤それを聞いて、空海はこの地に箸蔵寺を開山します。
⑥こうして、箸蔵寺は古来より金毘羅の奥之院として知られるようになった
以上が骨子です。
しかし、象頭山における金毘羅大権現の創出自体が近世以後のものです。空海の時代に「金毘羅大権現」という存在自体が生み出されていません。また、この由来が「海中等の急難を救わん為」とすることなどからも、金毘羅信仰の高揚期の近世後半に作られたものであることがうかがえます。
同時に、この由来には空海と金毘羅大権現の問答を通じて、箸蔵寺が金毘羅大権現の奥社であり非常に関係が深いことが語られています。
この由緒に記されたように箸蔵寺は近世後半になると
この由緒に記されたように箸蔵寺は近世後半になると
「こんぴらさんだけお参りするのでは効能は半減」
「こんぴらさんの奥社の箸蔵」
「金比羅・箸蔵両参り」
を唱えるようになります。また、自らの金毘羅大権現の開帳を行い、何度も本家のこんぴらさんに訴えられた文書が残っています。この文書を見ると、岡山の喩迦山と同じく「こんぴらさんと両参り」は、箸蔵寺の「押しかけ女房」的な感じが私にはします。
少し横道にそれたようです。話を弥蔵にもどしましょう。
少し横道にそれたようです。話を弥蔵にもどしましょう。
彼がこんぴらさんにお参りした10月11日〜12日は、金毘羅の例祭が行われる日でした。そして当時は、金毘羅の例祭において箸蔵寺は非常に重要な役割を果たしていると考えられていたこと、、また箸蔵寺は金毘羅の奥之院とされていたこと。こうした信仰的な繋がりを信じていたから、弥蔵はこんぴらさんの大祭が終わる10月12日にこんぴらさんをお参りし、箸がこんぴらさんからやってくる箸蔵寺をその翌日に参詣したのでしょう。
ここには、前回にこんぴらさんと善通寺を併せて同日に参拝した理由とは、違う理由がるようです。吉野川中流の半田に住む弥蔵にとって、信仰の原点は地元の箸蔵寺への信仰心から始まったのかも知れません。それが「こんぴらさんの奥社」という箸蔵寺のスローガンにによって、その本山であるこんぴらさんに信仰心が向かうようになり、そしてさらに、弘法大師生誕の地として善通寺に向かい、弘法大師信仰へと歩みだして行ったのかもしれません。どちらにしても、この時代の庶民の信仰が「神も仏も一緒」の流行神的な要素が強く、ひとつの神社仏閣に一新に祈りを捧げるというものではなかったことは分かってきました。
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