土器川で二つに分けられた二村郷
律令時代には鵜足郡には8つの郷がありました。そのひとつが二村郷で「布多無良(ふたむら)」と正倉院へ納入された調の面袋に記されています。二村郷は、江戸時代には土器川をはさんで東二村(飯山側)が西二村に分かれていました。
現在の地名で言えば丸亀市飯野町から川西北一帯にあたります。
二村郷は、いつ、どんな理由で東西に分かれることになったのでしょうか?
二村郷に荘園が初めてが現れるのは13世紀半ばのことです。
荘園が立てられた事情は、仁治二年(1241)三月廿五日の僧戒如書状案(九条家本「振鈴寺縁起」紙背文書)に次のようにあります。
讃岐国二村郷文書相伝片解脱上人所存事副進 上人消息案文右、去元久之比、先師上人為興福寺 光明皇后御塔領、為令庄号立券、相尋其地主之処、当郷七八両条内荒野者 藤原貞光為地主之由、令申之間、依有便宜、寄付藤原氏 女了、皿鸚賜 于時当国在庁雖申子細、上人片親康令教訓之間、去進了、妥当国在庁宇治部光憲、荒野者藤原氏久領也、皿準見作者親康領也、雖然里坪交通、向後可有煩之間、両人和与、而不論見作荒野、七条者可為親康領、於八条者加入本田、偏可為藤原氏領之由、被仰下了但春日新宮之後方九町之地者、雖為七条内、加入八条可為西庄領也云々者、七条以東惣当郷内併親康領也、子細具見 宣旨・長者宿丁請状案文等、彼七八両条内見作分事、当時為国領、被付泉涌寺欺、所詮、云往昔支度、云当時御定、随御計、可存知之状如件。仁治二年三月廿五日 僧戒如進上 両人御中
①二村荘は法相宗中興である笠置山の解脱上人(貞慶)が興福寺の光明皇后御塔領として立荘した。
②その方法は国庁の抵抗を排除して二村郷の七・八両条内の荒野を地主(藤原貞光)から寄進させることにより寺領した。
③ところが鵜足郡の7・8条の荒地は藤原氏領になったが,耕作地は親康という状態で「里坪交通」で領地でたがいに交わっていてわずらわしかった。ちなみに「里坪」とは条里の坪のことです。
④そこで、両者の「和与」(和解契約の話しあい)により,見作(耕地)・荒野を問わず7条は親 康領,8条は藤原氏領とした。


このようにして鵜足郡8条に成立した荘園の中心地が、「春日新宮」と研究者は考えているようです。
藤原氏の氏神さまは春日大社、菩提寺は興福寺ですから藤原氏の荘園が成立すると奈良の春日大社から勧進された神が荘園の中心地に鎮座するようになりました。西二村郷の場合も、興福寺領の荘園ですから春日社を祀ったのでしょう。
藤原氏の氏神さまは春日大社、菩提寺は興福寺ですから藤原氏の荘園が成立すると奈良の春日大社から勧進された神が荘園の中心地に鎮座するようになりました。西二村郷の場合も、興福寺領の荘園ですから春日社を祀ったのでしょう。
それが現在の丸亀市川西町宮西の地に鎮座する春日神社(旧村社)だとされます。
江戸時代の西二村は、西庄、鍛冶屋、庄、宮西、七条、王子、竜王、原等の免からなっていました。これをみると春日神社の氏子の分布は土器川の左岸に限られていたことが分かります。これに対し、土器川右岸に位置する東二村(丸亀市飯野町)は、飯野山の西の麓に鎮座する飯神社の氏子でした。古代は同じ二村郷であった東西の二村が、土器川をはさんで信仰する神社が違っているようです。
なぜ、西二村の人たちだけが春日神社の氏子となったのでしょうか?
それは、先ほど述べたように興福寺領となったのは土器川の西側の七・八両条(=西二村郷)だけだったからでしょう。鵜足郡の条里は、常山ー角山ー聖通寺山を結ぶ線を一条として始まります。そして東から順番に八条まで引かれていました。それは、現在の地名に「土器村西村免八条」とか川西町金山に八丈池があることからも分かります。
また、丸亀南中学は昭和57年に太夫池を埋め立てた上に建っています。この大夫池は古くから「傍示池」とよばれ、鵜足郡と那珂郡の郡界を示す「榜示」(標識)が立っていたところと伝えられています。ここから丸亀南中と八丈池を結んだ線が鵜足郡の8条で、那珂郡との群界という事になるようです。


こうしてみると、宮西に所在する春日神社は八条に位置することになります。春日神社のすぐ南には字西庄という地名が残り、東隣は字七条です。
ここからも興福寺領や泉涌寺領となった二村郷七・八両条とは、二村郷のうち土器川の左岸の地域、すなわち近世の西二村(=川西町)だったことが分かります。そのため、右岸の東二村の地は興福寺とは関係ないので春日社を祀ることはなかったのでしょう。
そして、興福寺領の荘園となった二村荘は、中世の動乱の中で悪党「仁木蒲次郎」の「押横」を受けているのをなんとかしてくれという史料を最後に、記録からは姿を消していきます。おそらく、南北朝時代に消滅したのでしょう。そして、名主や武士達の支配する地域へと姿を変えていったのでしょう。しかし、興福寺の荘園時代に西二村へ祀られた春日神社への信仰は途切れることなく、現在まで続いてきたのでしょう。
最後に、この史料を読みながら私の考えた事
①なぜ、土器川が那珂郡と鵜足郡の群界とならなかったのか?
A① 秦の始皇帝以来川などの「自然国境」を用いなかった。人為的な群界の方が優先された。
A② 古代土器川の流路が今と違っていた。那珂郡と鵜足郡の郡境付近に土器川は流れていた。
②荘園が立荘された時点で、「当郷七八両条内荒野者」とあるように多くの荒野が存在した。
この荒野が現在のように水田化され尽くすのはいつのなのか?
A① 近世においても土器川沿いに入植者が入り、多くの土地を水田化し豪農に成長した家があることが史料から分かる。治水灌漑が未整備な時代は土器川沿いは荒地であり、大水が出たときは水に浸かっていたのではないか。江戸時代の治水事業の伸展によって水田化が進んだ? 以上
最後に、この史料を読みながら私の考えた事
①なぜ、土器川が那珂郡と鵜足郡の群界とならなかったのか?
A① 秦の始皇帝以来川などの「自然国境」を用いなかった。人為的な群界の方が優先された。
A② 古代土器川の流路が今と違っていた。那珂郡と鵜足郡の郡境付近に土器川は流れていた。
②荘園が立荘された時点で、「当郷七八両条内荒野者」とあるように多くの荒野が存在した。
この荒野が現在のように水田化され尽くすのはいつのなのか?
A① 近世においても土器川沿いに入植者が入り、多くの土地を水田化し豪農に成長した家があることが史料から分かる。治水灌漑が未整備な時代は土器川沿いは荒地であり、大水が出たときは水に浸かっていたのではないか。江戸時代の治水事業の伸展によって水田化が進んだ? 以上
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