今まで登ってきた山に霊山と呼ばれる山がいくつもあります。昔から人々の祈りの対象となり、その山で宗教活動が行われてきた山です。
なぜ霊山と云われるようになったのか、
またそこで宗教活動を行っていた集団とは何なのか?
その霊山信仰が広まったの背景は?
山に登りながら考えてきた事をまとめておこうと思います。
そんなことで中四国の霊山を、取り上げて見ていきたいと思います。
大山1
伯耆大山

まず最初に取り上げるのは大山です。
 大山は『出雲風土記』には大神嶽と記され、大国主命が国引の時に杭にした山とされています。『延喜式』には、大山には会見郡に大神山神社が鎮座すると記されます。大山神は大山の山宮にまつられた山の神で、大神山神社は里宮にあたるとされています。つまり、明治の神仏分離までは、山上には神社はなかったようです。お寺だけがあったのです。
 また、このは地元では古代から「死霊のおもむく山」とされてきたようです。
亡くなった死者の霊は、大山の谷間に集まり、その後に天上に帰って行くという死生観があったようです。
  この姿は、現在の下北半島の恐山の風景に似ているのかもしれません。死霊が集まり、冥界に去って行くところ、或いは冥界から帰ってくる山、その橋渡しをするシャーマンたち。古代の日本の霊山ではどこでも見られた姿かも知れません。
 そこに渡来神としての仏教が伝来します。
大山寺塔頭洞明院に伝わる『大山寺縁起』には大山の開山について、次のように記します。
出雲国玉作(島根県八束郡玉湯町玉造)の猟師依道が、たまたま美保の浦を通りかかった時に、海底から金色の狼があらわれた。狼は依道をいざなうかのように、どんどん逃げて大山山中の洞に入り込んだ。今がチャンスと依道が矢をつがえて、狼をうち殺そうとすると、矢先に地蔵菩薩があらわれた。驚き恐れる依道の前で、狼が老尼にかわり「私は登攬尼という山の神だが、あなたに一緒に地蔵菩薩をまつってもらいたいと思って狼に姿を変えてここまで導いたのだ」と語った。これを聞いた依道は発心して出家し、金連と名のった。
 金連は山中で仏法を学び修行にいそしんだが、やがて釈迦如来を感得し、南光院をひらいてこれを祭った。さらに阿弥陀如来を感得して祀ったのが、西明院であるという。
 この話を要約すると
①この山の神に導かれた依道が大山山中で地蔵菩薩を感得し、これを智明権現としてまつり、
②さらに釈迦をまつる南光院、
阿弥陀をまつる西明院をひらき、
④これとは別に大日如来と不動明王をまつる中門院がひらかれた
という「霊山への仏教伝来」伝説が記されています。大山が受けいれた仏は
 地蔵 → 釈迦 → 阿弥陀 → 大日(不動)の密教仏
となるようです。
最初に、大山が受けいれた仏は「地蔵菩薩」で、智明権現という形で受け入れたようです。
また、渡来神(客神)である地蔵菩薩は、押しかけてきたのではないようです。地元の山の神に頼まれて祀ったことになっています。背景には、神仏習合の進む中世の雰囲気があるのでしょう。
「地蔵霊験記」には、
  彼権現ハ地蔵ノ応化トソ、大智明神トアラワレ玉イ、和光利物新二在ス、
何ソ忽ノ義ヲ致サシ
ありますので平安後期には「大智明神」、「大智明菩薩」、「権現」などと呼び、その本地を地蔵とする垂述信仰が大山寺には成立していたようです。

賽の河原1

 さて、大山に招かれた地蔵菩薩への期待は、冥界と現世の境にいて、死者の亡魂を導くというものです。
地蔵さんは墓地の入口に六地蔵を建てたり、葬送の時に六地蔵をまつる習いは今でも広く見られます。 古来より大山を「死霊のおもむく山」としてきた周辺の人々にとっては「地蔵信仰」は、新たな霊力のある「仏」としてすんなりと受け入れられたのではないでしょうか。
賽の河原2
次第に、近世の大山寺には次のような光景が見られるようになります。
   里の人々は、四十九日に大川寺の金門の上の「さいの河原」で石を積むようになります。三十三年目の弔いあげに、大山寺の阿弥陀堂で小さな塔婆を作ってもらい、河原で石を積んでから、川に流す人も出てきます。盆の時に阿弥陀堂に参詣したり、盆花を採りに大山を訪れる人もでてきます。
  死者の着物を持って大山寺に参り、附近の地蔵に着せると死者に逢えるとか、供養になるといわれるようになります。とくに幼児の死んだ場合には、御利益があると云われるようになります。
  大山山麓の人びとが、先だった親のためのに、あるいはは子供を失った親が「さいの河原」に登って、小石を積み、亡き親や亡き幼な子の菩提を弔うようになるのです。石を積むこと自体が死者への孝徳とされていました。ことに死んだ子供のためへの祈りは悲痛です。
これはこの世のことならず 死出の山路の裾野なるさいの河原の物語
聞くにつけても哀れなり、 二つや三つ四つ五つ 十にもたらぬみどり子が 
さいの 河原に集りて 父上恋し母恋し 恋し恋しと泣く声は 
この世の声とはこと変り 悲しさ骨身をとおすなり
 大山の山はだをおおう荒涼とした眺めはいかにも「さいの河原」の説話にふさわしく、今もあちこちに小さな石積みが見られます。

大山寺1

 かつて若い頃に何泊かの山行を終えて、この河原に下りてきて重いザックを下ろして、石に腰をかけてバスの時間を待っているときのことです。この石積みが死者への供養塔であること、ここが死者と生者の交歓の場であることを地元出身の先輩から聞きました。今まで見えていた風景が別のものに見えてくるようなショックを受けた事をいまでも覚えています。
 実際に実の子を失ったような悲しみを持ちながら「あの世とこの世」の境に身を置く体験がなければ、なかなか他者に伝わるものではないでしょう。
しかし、この空間に身を置くことを求めて多くの人たちが「参拝者」としてやってくるようになるのです。とくに、遠く離れた岡山南部の人たちの姿が近世後半には増えていきます。その背景には何があったのでしょうか?
備中では「大山」を勧請し「大仙」として祀る寺院が出てきます。
小田郡、浅口郡、井原市の一円では大仙院、大仙堂が現れるのです。そして、大山に行けない人々は、毎月旧の二十四日に参るとか、年の暮れと初めに参るようになります。死者が出ると、肉親者は一週間以内に参る、三五日、あるいは四九日などの中陰あけに参る、新仏の時には毎月参るなど必ずしも一定してはいないようです。
旅探 たびたん】明王院
天台宗明王院
  浅口郡鴨方町六条院、天台宗明王院の大仙堂は、その縁起には、次のように記されています。

白川天皇の王女、提子内親王が六条御所で崩ぜられたのを弔うために永長二年(1097)、大島郷を寄進して荘園とされ、地蔵堂を建立されたのが六条院という地名の起源であるとのべます。注目したいのはその後に、延宝元年(1673)洪水のため諸堂宇が埋没した時に、浅口郡五万人の大びとに勧進して、往古より縁由の深い大山智明権現を勧請して大仙堂と称した。

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笠岡市の大仙院
 笠岡市の真言宗大仙院は、勧進した人物名も分かります。
高橋興左衛門は、かねてから大川寺の智明権現(地蔵菩薩)を信仰していたが、偶偶大病にかかり平癒の祈願をこめて全快した。そこで、元禄5年(1692)に草庵を建てて、大山より智明権現の尊像を勧進し安置したのが起源である。後に彼は出家して政範と称した。

今でも本堂の左右の戸棚には、死者の衣類や生前の持ち物があふれています。本堂前の水向け地蔵に塔婆を供えて水をたむけることは、大川寺の作法通りです。この大仙院の餐銭箱に饅頭を供えると、その饅頭が冥途にいる子供の所に飛んで行くともいわれます。境内に
「法印政範上人、宝永六己年五月廿八日、
南無大師遍照金剛(右)南無地蔵大菩薩(左)」

の碑文のある石塔があります。
このように大山から勧進された「大仙堂」が今でも、地域の信仰を集めているのです。

これをプロモートしたのは、どんな組織なのでしょうか。
それは岡山県児鳥に本拠を持つ、かつては中四国の多くの修験道者達を影響下に置いた「五流修験」といわれています。五流修験は修験道の開祖とされる役行者が国家から弾圧を受けて投獄・遠島送りになった時に、その弟子達が熊野から児島に亡命してきて「新熊野」を打ち立てたのが始まりとされます。そして、中世から近世にかけて大きな影響力を持つようになります。
 岡山藩南部の修験者の多くは、この五流修験に組織化されていたようです。
修験者は祈祷など行いますが、そのためにはパワーポイントを貯めなければなりません。それは厳しい修行によってのみ貯める事が出来ると考えられていました。そこで、修験者(山伏)たちは、行場をもとめて全国を旅する事になります。白山や立山、石鎚などの行場が近くにあればいいのですが、五流修験の拠点である児島には、名のある行場がありません。そこで、修行のために小豆島や石鎚、そして大仙へと足を伸ばす事になります。江戸時代には、五流修験は大山を行場とするようになります。そのため現在も五流一山の祖霊堂は、大仙智明権現と呼ばれています。
 大山は彼らにとっては修行の「ホーム」だったのです。かつての熊野行者が先達として、熊野に「檀那」を連れて参拝したように、岡山南地域の信者達を大山へと導く役割を果たします。こうして岡山からは五流修験の山伏に率いられた人々の「大山詣で」が盛んになったようです。
大山地蔵1

子供の死んだ時は、子どもの着物を持って行き大山に続く地蔵に着物を着せるといいます。
  確かに、阿弥陀堂から続く街道の地蔵は、新しい頭巾やいろいろな布切れを身につけていて、ファッショナブルだと感じた事があります。
死霊の集まる霊山=大山と地蔵信仰 それに岡山の人々を結びつけたのは修験者達だったようです。