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 瓶が森は、今では全面舗装されUFOロードを走れば、お手軽に行ける山になりました。
かつて、重いキスリングザックを背負い面河から石鎚に登り、土小屋から山肌を切り崩した林道に毒づきながら、ここまでたどり着いた時の印象は忘れられません。山頂の西側に広がる氷見(ひみ)二千石原は、天上の楽園のように思えました。緩やかなササ原が広がり、アクセント付けるように、ウラジロモミの林、白骨樹が点在し、かなたには石鎚の姿がドーンと見えます。笹野原の中に幕営し、石鎚に落ちる夕日をながめた記憶は忘れがたいものでした。
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瓶が森からの石鎚

 この時に、子持ち権現の鎖場にも登ったのですが、その時には「石鎚の修験者の行場テリトリーの一部」としか考えていませんでした。しかし、その後に段々分かってきた事は、
石鎚山系には古くは、次の3つの霊場エリアが並立していたということです。
①石鎚山
②瓶が森 + 子持ち権現
③笹ヶ峰
 
今回は霊峰 瓶が森について見ていきたいと思います。
 瓶が森は石鎚山、二ノ森に次ぐ愛媛県内第3位の高峰です。この山は、山頂よりもその下の笹の海の方に目が奪われがちですが、よく見ると山頂は南北の双耳峰です。北側が三角点のある女山、南側が石土蔵王権現を祭る男山です。権現を祀るので霊峰であるが分かります。昭和初期頃までは「石土山」とも呼ばれていたようです。
石鎚山と石土山(瓶が森)

この山は、古くは石鎚山と互いに競いあっていたようです
 山麓の西の川の人々は石鎚山を権現さまとよび、瓶が森と子持権現の山を一緒にして子持ち権現さまとよんでいました。子持権現は瓶が森の西方に岩稜の峰で、切り立った岩壁で、鎖がなくては登れません。ここも大事な行場です。西の川の人の中には、瓶が森と子持権現を一つにして石土山とよんでいる人もいました。
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瓶が森から見た子持ち権現
 麓から見れば石鎚山と瓶・子持は、どちらも力高くて神秘にとざされた山で、両方ともに信仰していたようです。そういう山が並び立つ場合には、山争いの伝承が生まれてくるのが全国的な傾向のようです。ちなみに、早くから開けたのは地元に近い瓶が森のようです。地元では、その頂上には寺の趾があると言ったり、石鎚山は瓶が森が西へ飛んでいって今の山ができたなどという伝承があるようです。

1石鎚古道 瓶が森・子持ち権現
そしてこれには、次のような役行者の伝説がくっついています。
役行者は石鎚山を探しに行ったが、なかなか見つけることができない。途中に一人の老人がハツリをといでいるのに出会った。ハツリとは斧のことである。役行者が老人に一体何をしているのかと聞くと、老人はこのハツリをといで針にするのだという。ずいぶん気の長い話だと思ったが、やはり何事も辛抱が大事なのだと役行者は再び探しに出かけた。
 そこでオトウ(中腹の一地名)の奥の岩穴で修行をしていると、大きい石が割れた。それから二町ほど登ったら穴の薬師があって、その中で石鎚山は大蛇になってこもっていた。そこで、役行者がそこでは参詣者が行きにくいと言えば、石鎚山は飛んでいって今のところに納まったのだという。
 ここからは、
①瓶げが森が地元の人たちにとっては信仰の山であったこと
②しかし、結果として瓶が森が石鎚山に「吸収併合」されたこと
③「吸収併合」や移動させたのは外来の修験者(山伏達)だったこと
が分かります。
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 瓶が森から望む石鎚
別の伝説(西条誌)には、
石鎚権現はもと瓶ヶ森(笹ヶ峰ともいう)に祀られていた。それを西之川の庄屋高須賀氏の先祖が、今の石鎚山に背負って遷した。それで石鎚山祭礼のときは、庄屋は裃をつけ、帯刀して人の背に負われて上席に着く慣例になった。

というもので、これも「瓶が森 → 石鎚」移動説をとります。どちらにしても、今でも地元の西の川や東の川の人達は、両方とも信仰しているようです。
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瓶が森

 さて、中世に霊山が開かれるという事(=開山)は、権現が勧進されるということでした。その勧進の主役は修験者達でした。その結果、権現を管理することになるのは里の別当寺でした。

別当寺を設立の古い順に並べて見ると次のようになります
1 正法寺(新居浜市) 常仙(上仙)  笹ヶ峰
2 天海寺                              瓶が森(石土山) 
3  前神寺と横峯寺         石仙               石鎚 
 ちなみに、正法寺は古代の瓦が出土する古代寺院です。この寺は秦氏の氏寺で、その一族の上仙(常仙)によって開かれたとされます。また、上仙は、修験者で寂仙法師とも呼ばれ、石鎚、笹ヶ嶺、瓶ヶ森等の霊山を開山したとも伝えられています。しかし、歴史的にこのお寺が主張してきたのは、笹ヶ峯の「石鎚権現」の別当なのです。
2石鎚山と石土山(瓶が森)
   それでは瓶が森を行場とし、その権現を祀っていたお寺はどこなのでしょうか?
 瓶が森の「石土(蔵王)権現」の別当を主張したのは山麓にあった天海(河)寺でした。天海寺は瓶ヶ森中腹の「常住」には坂中寺があり、山頂のそばには弥山がもうけられていたといいます。
 今の石鎚は、神仏分離後はロープウエイ終点の「常住」は「成就」となりました。しかし、瓶が森では、神仏分離以後も「常住」と書かれていました。ここは瓶・子持権現を遥拝するにふさわしいロケーションです。石鎚山中腹の成就社と同じように、人がここまで参拝に来ると、神が下りてくる信仰があったのでしょう。かつては、ほんの小屋掛け程度のものがありましたが今は廃墟となっています。瓶が森・子持権現の信仰者が、神のまぼろしを見るのにふさわしい場所だったのでしょう。このように、天海寺は西の川から瓶が森・子持ち権現エリアを行場とする霊域をもっていたのです。
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瓶が森 
そこに中世になって新しい勢力が未開発地に入ってきます。それが前神寺です。
 その行場テリトリーは法安寺から横峯寺、常住の奥前神寺、山頂・天柱石(お塔岩)などを霊地を含みます。なお横峯寺は、かつては天海寺の末寺であったともいわれます。東西に向いあうように対をなしていたこの両寺には。いずれも杉の大木があったと伝わります。
前神寺には、永祚二年(990)の紀年銘のある阿弥陀仏、横峯寺には平安時代末といわれる大日如来や金剛蔵王権現がありますから、平安時代末には、2つのお寺は成立していた事が分かります。そして、このふたつを中心とする石鎚と、天海寺を別当とする瓶が森の東西の霊域が競合していく事になるのです。
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 それが「石鎚山は瓶ヶ森より、扇子の要だけ高い」とか、西条市の伊曽乃神社祭神との神婚説話の「石鎚神の投げ石」の伝説として残っているのでしょう。この話は、その後の石鎚山の信仰上の優位性を、しめす意図から作られた伝承といえます。言い換えれば、瓶が森から石鎚山に信仰が集約されて行く過程で作り出されたものなのでしょう。
  「笹ヶ峰・瓶が森・石鎚の三山は、鼎立して殆ど同時に開け、同様に信仰の標的となったものであるが、中世末期か江戸初期に笹ヶ峰が衰微し、次に瓶ヶ森が衰微したものと思われる。」
と研究者はいいます。
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  そして近世になると石鎚にひときわ強い光が当てられるようになり、四国の霊山としての輝きをますようになるのです。
絵図は「旅する石鎚信仰者https://ameblo.jp/akaikurepasu/entry-12225893233.htmlからお借りしたものを使わせていただいています。