前回は笹ヶ峰・瓶が森・石鎚の3つの霊山が開山され、それぞれのお山に権現が勧進され、それを里の別当寺が管理し、山岳信仰がそれぞれのエリアで展開される鼎立状態にあったことをお話ししました。しかし、中世から近世にいたる中で、他を圧倒するようになったのが石鎚だったのです。今回は、近世の石鎚信仰を見ていきたいと思います。
中世の石鎚山 役小角伝説が広がり
中世期になると、吉野や熊野では役小角伝説が広がり、彼を開祖にした修験集団が発展していくようになります。それに少し遅れて、地方の修験霊場も役小角やその門弟を祖とする「修行伝説」を生み出していくようになります。この結果、どこの修験者も開祖は役小角となってしまいます。
鎌倉時代の「金峰山創草記」には、
役小角が仏法流布の地を求めて三本の蓮花を東に向って投じたところ、一本は伊与国石辻に、一本は大和国弥勒長に、残る一本は伯者国三徳山に落ちたとの「三徳山縁起」の伝承がのせられています。
こうして「伊与国」の石鎚山も、中央の修験集団の間では「役小角有縁の地」として受けとめられるようになります。また、石鎚山側もこれに応えるかのように、室町時代以降になると役小角が弟子の石仙などの案内で石鎚山を開いたとの伝承を広げるようになります。
中世の石鎚山に関しては、いくつかの遺物が知られています。
年代順にこれらをあげて見ると、
興国五年(1344)の銘のある前神寺梵鐘建徳二年(1371)の銘文がある横峯寺鰐口元中三年(1386)沙門亮賢が勧進して作製した「大般若経経函」応永十四年(1407)福島真守が奉納した「石鉄山」の神額
今に残るのは「大般若経経函」(讃岐・水主神社所蔵)だけですが、十四世紀末には石鎚周辺では、修験者が活発な山岳信仰活動を行っていたことがうかがえます。
室町時代末の文明九年(一四七七)の年号が入った石鎚山の弥山山上の御宝殿の扉の銘書には次のように記されています。
扉右側に願文として
啓白帰命頂礼蔵王権現、奉造立赤銅金繰之御宝倉 右依造立功徳
金輪聖皇御願円満 国郡泰平庄内安穏真俗繁昌
諸人快楽一切善願悉皆成就殊奉念願処如此、于時文明九年丁酉三月十二日
大願主として、別当権少僧都良真 俗姓当国朝倉住人長井弾正忠之息男・大工・小工六の名称が記され、左側には「奉 遷宮導師吉祥寺住侶権少僧都円意」の他大檀那の源勝久・越智通直・同通春・同通生・同重秀・同通重・藤原久永・奉職 吉辰若・勧進聖の澄順・秀範・義通・宥円・円良・法印の慶通・広勢・基因の名が記されています。
ここからは、別当の前神寺・良真の発願で、勧進聖や法印の努力と、領主の源(細川)勝久や越智(河野)通朧ら越智氏の一族などの保護のもとに宝殿を完成させたことが分かります。そして前神寺と近い関係にあった吉祥寺住職の手で遷宮の法要がいとなまれています。
この頃に前神寺別当良真が、金剛蔵王権現を本尊とし、石仙を開祖にいただく、石鎚山の信仰を地元の有力者の保護を受けながら、協力関係にある寺院の手を借りて展開していたことがうかがえます。
石鎚山は河野家の外護と別当前神寺の努力で繁栄していたようです。
その後、前神寺は戦国末期の混乱をうまく乗り切り、寺領を維持していきます。そして、天正15年(1587)に新領主として入国してきた福島正則の信心を得る事に成功します。正則は深く石鎚権現を信仰し、前神寺に宿坊を建てて参拝したと伝えられます。さらに、慶長14年(1609)豊臣秀頼は、正則を普請奉行として常住に神殿を建立するのです。こうして、前神寺はどんでん返しが多発した戦国末期において「危機管理」に成功し、寺勢を伸ばすことになります。
近世の石鎚山
江戸時代に入ると石鎚信仰は、西条藩の保護と別当前神寺の展開する積極的な布教が功を奏して広く庶民に広がって行くようになります。
例えば西条藩の保護政策を挙げると
①明暦三年(1657) 藩主一柳直興による里前神寺の堂宇建立
②寛文十年(1670) 紀州藩徳川出身の松平頼純による石鎚山社への寄進状
③元禄八年(1695) 石鉄山別当前神寺に殺生禁断の制札
④吉宗以降の将軍家の祈願を石鉄山社と伊曾乃神社が行う決定
しかし、参拝者を増やすためには、ソフトウエアが必要でした。
当時の石鎚参拝は今と違って、個人でお参りするものではありません。中世の熊野詣でと同じで、先達が地域の信者達を伴って集団でやってくるというスタイルです。そのため先達達を増やす事が、参拝客増加の重要なポイントでした。石鎚信仰PRと石鎚講普及のために前神寺は、独自の「先達制度」を調えていきます。
当時の石鎚参拝は今と違って、個人でお参りするものではありません。中世の熊野詣でと同じで、先達が地域の信者達を伴って集団でやってくるというスタイルです。そのため先達達を増やす事が、参拝客増加の重要なポイントでした。石鎚信仰PRと石鎚講普及のために前神寺は、独自の「先達制度」を調えていきます。
前神寺に『先達所惣名帳 金色院』という記録が残されています。
延宝四年(1676)辰五月廿九日のものです。ここには、道前道後の寺院、堂庵六四ケ寺院、村名、先達名が記されています。前神寺は、ここに記録された先達所を拠点にして。地域の講組織を作り上げていったようです。これを「先達所分布図」にしてみるといろいろなことが見えてきます。
延宝四年(1676)辰五月廿九日のものです。ここには、道前道後の寺院、堂庵六四ケ寺院、村名、先達名が記されています。前神寺は、ここに記録された先達所を拠点にして。地域の講組織を作り上げていったようです。これを「先達所分布図」にしてみるといろいろなことが見えてきます。
明和六年の「先達惣名帳」に載っている各地の先達分布図からは次のようなことが分かります。
①この時点では、先達はほぼ伊予の国に限られています。②道後が43、道前が22と道後の方が多くなっています。これは石鎚講が地元の西条よりも道後平野を拠点にして組織されたことを示しているようです。③高縄半島に分布が少ないようです。これは、熊野行者の存在があって、彼らは石鎚には参拝しません。④この先達所の分布は、後の安永九年の鎖奉納の先達や講中と一致する所が多いようです。これらの講から先達達が信者を連れて参拝にやって来るとともに、いろいろなものを寄進し、登山道なども整備されていったのでしょう。
こうして石鎚山が世間に知られるようになると、延宝五年(1677)には、木喰が石鎚山に登って「夢想記」を書いて紹介したり、正徳三年(一七一三)に刊行された寺島良安の『和漢三才図会』にも石鎚山や里前神寺、横峯寺が紹介されるようになり、伊予以外からの参拝者達も増えてくるようになり、石鎚信仰はレベルアップしていきます。
石鎚修行の目玉でもある「大鎖」が講によって設置されるのも、この頃のようです。
安永八年(1779)弥山の大鎖が切れると翌年に、作りかえた時の記録が残っています。これによると、前神寺が勧進帳を出し、尾道で鎖を作り、4月に西条本陣にはこび、5月前神寺で銘をきざみ、5月5日に極楽寺、6月奥前神寺と運ばれ、開山にあわせて7月に山上にかけています。
その銘文には、次のように刻まれています。
「奉再興石鉄山 大悲蔵王権現 御鎖大小二筋施主 予州松山城下弁道後七郡及諸国当山信心講中、安永九年庚子二月吉日 石鉄山別当前神寺住持仁岳記」とあり、
奉納者の名前が続きます。勧化頭取の予州松山三津浜俗先達の木地屋市左衛門・同和田屋信八郎、御鎖用掛の予州松山城下大唐人町、河野平治右衛門、越智義篤、世話人の唐人町講中、大先達の和気寺・得誉廓山居士の名前があげられ、予州の松山城下・同三津浜、温泉・伊予・和気・久米・浮穴・風早・越智の各郡、予州久万山・芸州広島領、備後の尾道・福山・松永及び諸国の講中、御鎖をあげる人夫の費用を寄付した予州新居郡O講中、治工の尾道鍛冶町の佐渡屋七良兵衛の名が見えます。
①山名は石鉄山で、祀られているのは大悲蔵王権現です。石鎚という文字はありません。「石鎚」が使われるのは神仏分離以後です。
②勧進頭取は地元の西条藩ではなく松山の三津浜の先達二人です。
③鎖を作った治工は尾道鍛冶町の職人です。それが舟で西条に運ばれています
④この時期になると伊予以外の芸州広島領、備後の尾道・福山・松永にからの講が拡大しています。
ちなみに、鎖の掛かえに功労があった木地屋市左衛門は、その年に一番活躍した先達として「先達絵符」が与えられました。これが現在の先達絵符制度のはじまりと云われます。こうして、先達達の活動に報いると共に、先達のランキング制を調え競争心も刺激していくシステムに「改善」していきます。これは先達のやる気を育て、数を増やすことにもつながります。18世紀末には土佐、宇和、備前にも石鎚登拝の講が作られていきます。信者や講のエリアを広げているのは、その成果なのでしょう。
石鎚常夜灯について
讃岐の金毘羅大権現につながる旧金毘羅街道(伊予街道)を歩いていると「金・石」の文字が刻まれた常夜燈によく出会います。
「金」は金毘羅大権現、「石」は石鉄山の略記のようです。
石鎚講は、集めた資金で石鎚参拝だけでなく自分の住んでいる所に、石鎚山遥拝所や、常夜灯を建てるようになります。○石=「石鉄(鎚)山」と○金=金毘羅大権現を刻んだ常夜灯が金毘羅街道沿い増えていくのは18世紀末からです。今風に言うと石鎚参拝という「集団登山」の中で養われた信仰心や一体感、帰属意識を「地域貢献」のために活用していると言えるのかも知れません。石鎚講は、地域では積極的に社会ボランテイア活動も行っていたようです。
それでは石鎚講の地域での日常活動は?
毎月、集まり「月並祭」を行う講が多かったようです。その日は、宿元に集まり、オツトメ(勤行)して、会食します。
松山市東野の石鎚講では、
昭和初年まで十戸位で講をつくり、正・五・九月に各自が米、野菜、食器を持ち寄って宿元で会食していたそうです。その日は必ず入浴して集まることが決まりだったといいます。宿元の床の間に、不動権現の軸物を掛け、供物を供え、大数珠繰りをします。先達が「六根清浄」と言えば、講員が「ナンマイダンボ」と唱和します。始めは左廻しに数珠を繰り(これは石鎚に登る意という)、終わると反対に右廻しに繰(下山の意)ります。数珠廻しが終わるとこの数珠で先達が加持祈祷します。次いで会食し、解散する。これが松山地方における石鎚講勤行の一般的パターンだったようです。
昭和初年まで十戸位で講をつくり、正・五・九月に各自が米、野菜、食器を持ち寄って宿元で会食していたそうです。その日は必ず入浴して集まることが決まりだったといいます。宿元の床の間に、不動権現の軸物を掛け、供物を供え、大数珠繰りをします。先達が「六根清浄」と言えば、講員が「ナンマイダンボ」と唱和します。始めは左廻しに数珠を繰り(これは石鎚に登る意という)、終わると反対に右廻しに繰(下山の意)ります。数珠廻しが終わるとこの数珠で先達が加持祈祷します。次いで会食し、解散する。これが松山地方における石鎚講勤行の一般的パターンだったようです。
温泉郡重信町では、講員が常夜燈の場所に集まり、
石鎚山を遙拝の後で、組中を巡回してから当元で勤行していたといいます。そして各戸から米を集めて廻り、それで会食します。この会食を常夜燈の所で行いオツヤをする所もあったようです。
石鎚山を遙拝の後で、組中を巡回してから当元で勤行していたといいます。そして各戸から米を集めて廻り、それで会食します。この会食を常夜燈の所で行いオツヤをする所もあったようです。
伊予郡松前町中川原では12月に代参者と宿元を決めます。
宿元は神床に注連縄を張り、海藻をつけます。石鎚不動明王の軸物を掲げ、供物をします。その日講員は入浴し、潔斎してから宿元に集合します。宿元の家の入口では、口を漱いでから家に入ります。まず会食があって、終わってから再び外に出て口を漱ぎ、改めて次の勤行を先達に従って行います。①懺悔文 ②礼文 ③登り念仏 ④詠歌 ⑤不動寄せ ⑥般若心経 ⑦不動真言 を唱える。この間、法螺貝が吹き鳴らされたようです。
宿元は神床に注連縄を張り、海藻をつけます。石鎚不動明王の軸物を掲げ、供物をします。その日講員は入浴し、潔斎してから宿元に集合します。宿元の家の入口では、口を漱いでから家に入ります。まず会食があって、終わってから再び外に出て口を漱ぎ、改めて次の勤行を先達に従って行います。①懺悔文 ②礼文 ③登り念仏 ④詠歌 ⑤不動寄せ ⑥般若心経 ⑦不動真言 を唱える。この間、法螺貝が吹き鳴らされたようです。
広島県竹原市福本講中は石鎚講の古いスタイルを伝えるといいます。
福本講中では、大祭中の石鎚登拝に先立ち、講員は講元宅に参集して「幟起し」の行事を行います。幟は一本で講元宅の庭に立てます。終わって直会があります。講中で石鎚登拝をするのを「マイリ講」といい、毎月の月並祭は「コウマワシ」と呼ぶようです。
出発にあたっては精進料理で直会をします。この直会の席で、船のコースや潮流について講元・先達・元老格の三者で協議してコースの決定と舵取りを行う者を決めます。また出立に先立ち、講元宅で力餅をまきます。祭壇に蔵王権現、弘法大師、不動明王の三幅の掛軸をかけ、その前に供物や奉納品を供えます。この祭壇前で講員一同でハナガタメ(直会)をします。それは(石)印付きの箱膳にご馳走を並べた大盤振舞の直会だったようです。
このように石鎚講は「参拝登山」の一時的なものでなく、地元の講組織に属することで日常的な社会的・宗教活動も伴っていたことがわかります。
現在の四国霊場巡礼団のように知らない人たちが集まって一時的に形成されるものではなかったのです。また先達は「ツアーコンダクター」ではないということです。これは、中世の熊野詣の「檀那と先達」の関係に近い要素を残しています。「お客(参拝者)にサービスを提供する」というものではありません。どちらかというと「先達=導者」的で、師弟関係的な要素が多分にあったようです。
現在の四国霊場巡礼団のように知らない人たちが集まって一時的に形成されるものではなかったのです。また先達は「ツアーコンダクター」ではないということです。これは、中世の熊野詣の「檀那と先達」の関係に近い要素を残しています。「お客(参拝者)にサービスを提供する」というものではありません。どちらかというと「先達=導者」的で、師弟関係的な要素が多分にあったようです。
以上のように、前神寺は「先達所」を決定し、また村落の指導者層を俗先達に任命してそれに「講頭補任状」や「院号、袈裟補任状」を発行してきました。それは石鎚講の組織化を図るためでした。このソフトウエアがうまく機能したために、前神寺は石鎚講というソフトウエアを組織することによって他藩にまで布教拡大策が行えたようです。
参考文献 森 正史 石鎚信仰と民俗 大山・石鎚と西国修験道
参考文献 森 正史 石鎚信仰と民俗 大山・石鎚と西国修験道
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