お山開きの山上での興奮を胸にして、講員達は里に帰ってきます。石鎚参りに行った人たちを、村の人たちはどのように迎えたのでしょうか。
石鎚講ではお山から帰ってくる人たちを迎えることを「お山迎え」といったそうです。
まずは、出発するときに無事をお祈りした氏神やその他末社に、お礼参りをします。また村人の加持祈祷をして廻る事もあったようです。各地の事例を見てみましょう。
今治市北新町などでは、石鎚登拝からもどるとその足でまず大浜八幡神社か吹揚神社に参拝しました。その後、浅川海岸で家族たちの出迎えを受けました。そこで「お山迎え」の酒盛りをして解散する習いだったようです。
越智郡菊間町では、氏神加茂神社の秋祭のお供馬の鞍を付けた飾り馬で、今治まで出迎えたと云います。参拝者達が帰ってくることを知らせる法螺貝が鳴ると、村人も出迎え、一行からお加持(祈祷)をしてもらったり、土産をもらったと云います。
石鎚登拝に門注連をして出発することは以前に述べましたが、帰ってくるとこれを取り外したようです。門注連を外さないと足の疲れがとれぬと伝えられました。
石鎚登拝者は村に帰ってくると、神社参拝にお礼参りをして、それから村内の祈祷をして廻っています。その際には、草履を脱がないで、そのまま座敷口から上がり、裏口に通り抜けると、家が清められ悪事災難を退散させると信じられていたようです。神社と、村周りの祈祷が終わった後で、酒宴をして解散するのが一般的でした。
小部では、氏神に家族がご馳走を運び、ここで登拝者一同が酒盛りをしました。これを「精進落し」と云いました。伊予郡砥部町川井では、先達の家で「お別れ講」をしたといいます。
以上、出発から帰村までをまとめてみると
1 出発時に必ず氏神に参拝して行くこと。2 帰村時にも氏神に参拝し、村人の加持祈祷をして廻ること。3 特定の場所(親戚、神社、先達家、村境)まで食物を用意して出迎え、そこで共同飯食すること。
お山参りの効力は?
修験者は加持祈祷によって、いろいろな願いを叶えられるパワーを持つ「天狗」というイメージを生み出してきました。しかし、そのパワーは里で暮らしていると次第に低下してきます。パワーを上げてレベルアップしていくためには、神聖な行場での修行が不可欠とされました。そこからは、行場から帰ってきたばかりの修験者が一番パワーポイントが高くて「成就力」もあると考えられるようになります。こうして江戸などでは、修行帰りの修験者が聖者視され「流行神」として崇められる例が数多く現れました。
このような風潮の中で、霊山石鎚に参拝登山してきた人たちにも霊力があると云われるようになります。
そのため登拝者を聖者として出迎え、里人がこれに跨いでもらったり、加持祈祷や家の清祓をしてもらったりするようになります。例えば登拝者がお山がけした草履にも呪力があるとされるようになります。その草履をはいたままで田の畦を踏んでもらうと作物がよくできるとか、オゴロ(もぐら)除けになる、種蒔きするとよいと伝わります。また草履で身痛いところを撫でたり、出入口に吊して悪病災難除けの呪物とした家もあるようです。面白いのは、お山に登った草履を履けば、水虫が治るという伝えまであるのです。
石鎚土産と呪物は?
このように参拝登拝者や身につけていたものが効能があるとすれば、石鎚山の御札だけでなくありがたいお土産も買って帰ろうとするのは、自然の成り行きです。
石鎚土産としては、「お山柴」と「助け猿」が定番だったようです。
助け猿
助け猿は、縫いぐるみの小猿で子どもの背につけたり、家の出入口に吊して災難除けとしたようです。伊予郡中川原では、男の子が生まれると、十五歳になれば登拝すると願掛けして、この猿を石鎚山より請けてもどり、願解きのときに倍にしてもどしていたといいます。ちなみに猿は石鎚山のお使いだと言う人もいます。 お助猿は戦後になってもお土産として人気があったようで、石鎚山近くの学校に通っていた人の作文には
「その時期が近づくとお猿さんの形をしたお守りの『助け猿』をたくさん作って、小遣い稼ぎをしていた」
また、当時の石鎚登山の拠点であった伊予小松駅周辺で戦後に売られていたお土産については、次のような記憶が書き留められています
「お山開きのときには、駅前通りの店舗のほとんどが、土産物売場を設置していましたし、出店もたくさん並んでいたことを、よく憶えています。出店の前を通った男の子が、『おいちゃん、ニッケ(クスノキの樹皮を乾燥させてつくった飴)ちょうだい。』とねだっていた光景が思い出されます。
漢方薬もお土産として売られていました。
陀羅尼助とは、俗にオヤマダラスケとかダラスケと呼んで胃腸薬、強壮剤、痛みどめの漢方薬だったようです。黒っぽい塊で、修行僧が長ったらしい陀羅尼経文を読むときに、口に含んで睡魔を追い払ったところから言われだした名前だと云います。ここには、お寺や先達が漢方薬を作り販売していたことがうかがえます。そして、その漢方やニッケの材料を集め、お助猿を作っていたのは、今宮や黒川などの石鎚街道沿いの集落の人たちだったようです。
山伏の中には、元禄期の別子山村に来た南光院快盛法印のように病人に薬草を施して治癒するものもいました。
また、南予の一本松町では、歯の痛みに「楊枝守」と朱印した護符内に木製の楊枝を入れたものを山伏が売っていました。歯が痛むとき、この楊枝で痛い歯をつつくと歯痛が止まるというのです。
山伏がよく口にする呪文に「アビラウンケンソワカ」があります。久万町直瀬では、子どもが虫歯で泣くと、お婆ちゃんがまじないにいに
また、南予の一本松町では、歯の痛みに「楊枝守」と朱印した護符内に木製の楊枝を入れたものを山伏が売っていました。歯が痛むとき、この楊枝で痛い歯をつつくと歯痛が止まるというのです。
山伏がよく口にする呪文に「アビラウンケンソワカ」があります。久万町直瀬では、子どもが虫歯で泣くと、お婆ちゃんがまじないにいに
「秋風は冬の初めに吹くものよ、秋すぎて、冬の初めの下枯れの霜枯れ竹には虫の子もなしアビラウンケンソワカ」
とか呪文を唱えたようです。
また、まむしが多い山に入るときには
「この山に錦まだらの虫おらば、奥山の乙姫に言い聞かすぞよ アビラウンケンソワカ」
戦後になると、小松駅前で下山してきた修験者の中には札を売る者もいたようです。
「修験者は見物人の最前列にいた私に小さな木のお札を示して、『このお札を身に付けていると何が起こっても守ってくれる。』と言って、その木札をタオルで私の額に巻きつけました。そして突然『ヤーッ』と大きな気合いとともに手刀で私の頭を打つまねをしました。私はびっくりして身を縮めて固く目を閉じてしまいましたが、恐る恐る目を開けてタオルを取ってもらうと、額に挟んでいた小さな木札が真っ二つに割れていました。私が唖然としていると、修験者は、『お札があなたを守ったんですよ。』と言いました。見物していた大人たちは納得したのかどうか分かりませんが、お札はどんどん売れました。
以上のような聞き取りが残されています。「データベース『えひめの記憶』えひめ、昭和の記憶 (平成28年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業) 第1章 昭和の町並みをたどる」より
1 石鎚信仰が石鎚講を通じて、そのネットワークを広げて信者を増大させていくシステムを確立したこと
2 明治の神仏分離の混乱を乗り越えて、大正期には予讃線開通もあり、より広くからの信者をあつめるようになったこと
3 地域に根ざした石鎚講は、宗教的な側面だけでなく社会的なボランテイア活動も行い地域を支えたこと
そんなことが見えてきました。
中四国の霊山13 土佐の霊山めぐり
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