宝物館の裏から長い階段が伸びています。上にある建物は見えません。登って行くと入母屋の寺院的な建物が現れます。しかし賽銭箱子もなければ宗教的な雰囲気さえしません。なによりもまわりはフェンスで囲まれて、有刺鉄線も張られています。倉庫のような雰囲気さえ醸し出しています。何が祀られているのか?
ここが祖霊社と呼ばれる建物です。
大山祇神社の祖霊社
『大三島詣で』(大山祇神社々務所)は、この建物ついて次のように記します。
「神宮(供)寺は四国霊場八十八ヶ寺の第五十五番札所・月光山神宮寺(今は今治市南光坊)として殷賑を極めた時代もあったが、明治元年の神仏分離令によって仏像・仏具その他全てが他所に移され」寺は大山祇神社末社「祖霊社」になった
祖霊社と呼ばれていますが、今は何にも使われていない建物のようです。しかし、神仏分離前はここが寺院ゾーンの中心センターだったのです。そして、その他の院坊が現在の国宝館辺りには立ち並んでいたようです。確かに、北側に神社ゾーンがあり、それに並ぶように寺院ゾーンがあった気配はあります。
ここでも中世は、神仏習合が行われていたのです。
本地仏の大通智勝仏について
霊力を低下させた神様は、蛮神の仏に姿を変えて人々を救うとされ、神仏習合が中世には広がります。大山祇神が権化(=変身)したのが「大通智勝仏」という仏様です。人の名前のようで聞き慣れない仏名です。この仏については、後に触れるとして・・・
大通智勝仏
大山祇神が権化の本地仏「大通智勝仏」 16人の王子を持ちます
大山祇神社に神宮寺ができるのは保延元年(1135)のことで、当初は「神供寺」と呼ばれていました。「三島宮御鎮座本縁」には
七十五代崇徳院御宇保延元(乙卯)年、天下卒て暗夜の如く、雲靉靆と為し、人民日月光を見ず三日に及ぶ。 時に虚空に軍陣の音隙無く聞へ、其の響き恰も雷霆の如し。 故に人民大に騒動す。 此の時大山積神託宣に曰く、吾諸大地祇を率ひて、これを掃い除く也。 少く頃ありて快晴す。 これに依り諸人奇異の思ひを為しこれを伝へ聞く。 遠近の貴賤当社へ群集参運ころ数日夥しと云云。 此の事叡聞に達し、藤原忠隆を勅使と為し、当社の本宮を始め末社迄悉く造営之宣旨。別て神代巻造化を以て人体に教へ給ふ通り、本社に雷神・高龗を加へ、三社を以て本社に崇むべしとの宣旨これ有り。 此の時に臨み、供僧妙専・勝鑑等国中に進め社の傍に一寺を建立し、神供寺と号す。 外に一宇の堂を建立し、大通智勝仏の像を安置し、大山積の本地と為す。 其の外摂社末社の本地仏を斯の如に調へ、御正体と号し、大通智勝仏の左右に掛け並へ、仏供院と号す。 亦は本寺堂と云。 是れ神供寺の初め也云云。
前半部は暗闇が何日も続く「天変地異」が続いたこと、これを大山祗神が治めたので、朝廷から勅使がやって来て本宮・末社を造営した事が記されます。同時に別当寺が建立されます。さらに
と記します。このようにして、この神社では国家主導の形で神仏習合は進めれたようです。「神供寺のほかに「一于の堂」を建て、そこに大通智勝仏(東西南北四方八方を守護するとされる仏)の像を安置し、大山積神の本地仏とした、また、摂社末社の本地仏も調え、それらを大通智勝仏の左右に並べ、この堂を「仏供院」とも「本寺堂」とも称した、これが大山祇神社の「神供寺」の初めである」
神仏習合時代、神宮寺の最盛期には二十四坊があったと伝えられます。
『大三島詣で』は、その二十四坊の名を、次のように記します。
泉楽坊・本覚坊・西之坊・北之坊・大善坊・宝蔵坊・東円坊・瀧本坊・尺蔵坊・東之坊・中之坊・円光坊・新泉坊・上臺坊・山乗坊・光林坊・乗蔵坊・西光坊・宝積坊・安楽坊・大谷坊・地福坊・通蔵坊・南光坊
『本縁』は、天正五年(1577)には「検校東円坊、院主法積坊、上大坊、地福坊」の四坊しか残っていなかったと記します。南北朝から戦国期に多くの坊が廃絶したようです。ここが修験者たちの拠点であったのでしょう。現在にまで法燈をつないでいるのが、今治市の南光坊(四国巡礼札所)と大山祗社に隣接する東円坊の二坊のみのようです。瀧本坊は、熊野における那智大滝を統括していた坊名です。ここからも大三島における熊野修験者の活動がうかがえます。
神域を歩くと、楠の巨木に何本も出会います。
その中で、もっとも存在感があるのは、境内の中心に聳える「小千命御手植の楠」でしょう。
『大山祇神社略誌』には、次のように紹介されています。
小千(おち=越知氏の祖先)命は神武天皇御東征にさきがけて祖神大山積神を大三島に祀り、その前駆をされたと伝える。境内中央に聳え御神木として崇められている。
そしてもう一本、霊木「能因法師雨乞いの楠」があります。
『略誌』は、この楠について次のように奇譚を述べます。
伊予守藤原範国の命により祈雨のため大三島へ詣でた能因法師が「天の川苗代水にせきくだせ天降ります神ならば神」と詠じて幣を奉ったところ、伊予国中に三日三晩降り続いた(金葉和歌集)という。宇迦神社前の古木がこれである。
お隣の讃岐では、国守の菅原道真自身が雨乞祈祷を行っていますが、ここでは霊験のある修験者に雨乞祈願を行わせています。
そのために能因法師がやって来たのがここです。注意したいのは「幣を奉った」のが本殿ではなく、この大楠であったこと。また、「天の川苗代水にせきくだせ天降ります神ならば神」にしても、本殿神ではなく大楠に宿る神への奉納歌であること。ここからは能因法師は、この大楠に大三島の水霊神(雨を司る神)が宿ると認識していたことがうかがえます。
『略誌』は「宇迦神社前の古木がこれである」と書かれているだけで、その後の説明はありません。しかし、この霊木があるのは宇迦神社の前で、その本尊は龍神のようです。境内の中にも、いろいろな神々が祀られていたことがうかがえます。
『大三島詣で』は、宇迦神社について、次のように書いています。
宇迦神社鎮座地 本社境内(放生池の島)祭 神 宇賀神例祭日 三月十五日木造・素木・流れ造り・屋根銅板葺き。池をはさんで木造・素木・屋根銅板葺きの拝殿。現在の社殿は昭和五十七年十二月新築。例祭のほか、本社の例大祭にさきだち、旧暦四月十五日から二十一日までの七日間、大祭期間中の好天を祈る祈晴祭が、当日晴天のときには旧暦四月二十四日に祈晴奉賽祭が行なはれ、その神饌は放生池に投供される。古来祈雨・祈晴の霊験あらたかな神社として信仰されており、雩の神事には安神山頂の龍神社にお籠りをし、つづいて宇迦神社の放生池(土地の人が、べだいけんと呼ぶ)をさらえ、境内で千人踊りをした。
放生池の中島にまつられる宇迦神社
宇迦神社は「古来祈雨・祈晴の霊験あらたかな神社」とあります。
このことを知っていたから能因法師は、本殿ではなく宇迦神社の前の霊木の前で、雨乞祈祷をおこなったのかもしれません。ここには、大山祗神と宇賀神が「地主神と客神」の関係にあったのではないかという疑問も沸いてきますが、それはここでは封印しておいて・・・
ここで見ておきたいのは、中世において院坊が数多く成立し、そこを拠点に熊野系の修験者が周辺への「布教活動」を展開している様子がうかがえることです。大三島周辺の島々への布教を行い、勃興する村上氏などを信仰下に置いて行ったのは、修験者たちだったようです。
それでは大山祗神社の社僧(=修験者)たちが聖地とし、行場としたのはどこでしょうか?
大山祇神社の神体山はふたつあります。
ひとつは、龍神社を山頂にまつる山が安神山です。
もうひとつが、大山祇神社本殿の右後方に聳える山、鷲ヶ頭山です。この山には現在TV塔が建っていて、サイクリストのヒルクライムのトレーニングゲレンデにもなっていますが、ここに立てば絶景が広がります。
ひとつは、龍神社を山頂にまつる山が安神山です。
もうひとつが、大山祇神社本殿の右後方に聳える山、鷲ヶ頭山です。この山には現在TV塔が建っていて、サイクリストのヒルクライムのトレーニングゲレンデにもなっていますが、ここに立てば絶景が広がります。
さて、この山の谷にあるのが行場の「入日の滝」です。
入日の滝
この滝までが、かつては大山祇神社の神域だったのではないでしょうか?
現在、ここには滝山寺(無住)があり、その本尊は十一面観音です。古い供養塔などがみられ、その鎮守社は小さな祠ですが、祠内には「出雲大社」の神札がみえます。
大山祇神社一の鳥居の横にある観光案内板は、この「入日の滝」について、
「鷲ヶ頭山の山麓にあり、高さ一六m男瀧女瀧にわかれている。その飛沫が夕陽に映じて美観を呈する夢幻境で俗塵が洗われる。古くから蛍の名所として知られている」
と記すのみです。神仏混淆時代の修験者の活動について、触れる事は当然ありません。
滝寺の十一面観音
しかし、しかしここの滝神は、先ほど述べたように本地仏を十一面観音とし、出雲大神を滝神と見立てています。この神仏習合関係を研究者は次のように指摘します「この関係は、熊野・那智と似ています。那智において、大滝の神(飛滝権現)の本地仏は十一面千手観音ですし、熊野那智大社は那智大滝の神を出雲大神としています。また、滝山寺の御詠歌には、「大三島西国第一番台[うてな]の瀧山」とあます。
これは、熊野那智(那智山青岸渡寺)が西国三十三観音巡礼第一番札所であったことを擬したものでしょう。「入日の滝」の滝神が、熊野那智の滝姫神を投影させたものであることは明らかで、熊野那智の滝信仰が、大三島の「入日の滝」にはまるごと再現されているようです。」
ここからも大三島周辺で活躍した修験者達が熊野系であったことが推察できます。さらに一歩踏み込むなら、吉備児島の五流修験の流れではないかと考えられます。五流修験は、修験道開祖の役行者が国家からの弾圧を受けた際に、弟子達が熊野を亡命し、新コロニーを児島に打ち立てて「新熊野」を名乗り、瀬戸内海周辺に影響力を伸ばしていきます。その流れがここまで及んでいるようです。
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