「四国霊場を世界遺産へ」というスローガンの下に、いろいろな取組がされているようです。「学術調査」の面でも予算が大幅に付けられて、霊場や遍路道などの調査が今までにない規模で行われています。その成果を示すように調査報告書が毎年、四国各県で出されています。
その中で、最近手元に入った68番神恵院・69番観音寺の調査報告書(2019年3月発行)を見てみることにします。
報告書は「1 建築物 2 石造物 3 美術工芸品 4 古文書 5 聖教 6 民俗資料」に分類して報告されています。ここには、古文書から始まり本堂の落書きに至るまでの史料も集められています。さて、
この報告書を手にして、観音寺を訪ねてみましょうか。
その中で、最近手元に入った68番神恵院・69番観音寺の調査報告書(2019年3月発行)を見てみることにします。
報告書は「1 建築物 2 石造物 3 美術工芸品 4 古文書 5 聖教 6 民俗資料」に分類して報告されています。ここには、古文書から始まり本堂の落書きに至るまでの史料も集められています。さて、
この報告書を手にして、観音寺を訪ねてみましょうか。
観音寺は山頂に琴弾八幡宮が鎮座する琴弾山の東斜面にあります。
この寺が話題になるのは、68番札所である神恵院と同じ境内にあることです。
まずは、境内に行って見ましょう。ちなみに銭形見学後にこの寺を訪ねると、寺の上から訪れる事になります。これは、便利ですが「正道」ではありません。できれば下から仁王門をくぐりてお参りすることをお勧めします。
まずは仁王門から見ていくことにしましょう。
|構造形式】八脚門、切妻造、本瓦葺
1建立年代】寛政9年(1797年/『琴弾伽藍古録一覧』)
仁王門は階段を登った上にあります。報告書に書かれた専門家の説明を読みましょう。
仁王門は切妻造、本瓦葺の八脚門で、中央間を四半敷の通路とし、両脇問正面側には金剛力士像2躯を祀る。宝永3年(1706)の棟札を残すが、後述する絵様や彫刻からこの時期の建物には見えず、『琴弾伽藍古録一覧』「仁王門」の項に、寛政9年(1797)「地形引直再興」の記事があり、絵様や彫刻から判断される建築年代と難敵はない。したがって、ここでは寛政9年の建築とみておく。
同史料には、「施主当町富田氏世話人定右工門/大工萩田善右工門同栄治/大塚重三郎」とある。基壇は亀甲形の石積基壇で、最上段には後補の花尚岩切石の葛石を並べ、中央通路部分を聚き、上面をモルタルで仕上げている。基壇の規模は必ずしも仁王門の屋根と整合しない。中略以上の構造および細部意匠から、建築的には18世紀後期~19世紀初頭頃の建立年代が想定でき、『琴弾伽藍古録一覧』に記された寛政9年(1797)再興は、信がおけるものと考える。2000年頃の修理時に部材の多くを取り替えているため、当初材は頭貫・台輪の一部・組物・桁・妻飾・彫刻で、垂木以上はほぽ新材だが、建物の規模や意匠に大きな変更はなく、往時の構造・意匠を保っている。全体として構造的には簡素であるが、随所に華麗な彫刻を配しており、特に棟通り中央間に集中する彫刻は立体的で躍動感があり、江戸後期の高い彫刻技術を示している。観音寺の正面を飾るにふさわしい建築と評価できるだろう。
随所にあるという「華麗な彫刻」を探して「立体的で躍動感がある江戸後期の高い彫刻技術」を見る事にしましょう。
さて仁王門をくぐると、内側の参道沿いには、明治30年代の年代が刻まれた石灯寵が7基並んでいます。石造物については、また別の機会に見ていく事にして・・・先を急ぎます。
闘伽井を左手に見て緩い傾斜をもつ石敷きの参道を西へ真っ直ぐに進み、石段を上ると本堂や寺務所、庫裏などが建つ南北に細長い平坦地に出ます。
この鐘楼は彫刻がふんだんにされていて、見ていて楽しいものです
鸚造形式】桁行1間、梁間1間、一重、入母屋造、木瓦葺
1瞳さ年代】文化7年(1810年/『琴弾伽藍古録一覧』)
さて、ここでも報告書を開いて見ます。
柱は上下に踪をもつ角欠きの面取角柱(一辺304mm、面内294mm)で、四方内転びとする。崖地の建つため、平坦面を造る石垣の上に切石を4段積んだ比較的高い基壇を築いている。西面には5曇の耳石付の石階を備え、基壇内側に若干切り込む。基壇上面はモルタル仕上げの土間とし、西面の階段葛分を除き縁辺部に高欄を施す。礎石は方形の切石で、その上に平面角形で側面をはらませた特徴的な礎盤を置き、柱を立てる。現在の基壇・礎石・礎盤は、屋根の葺き替えとともに、2000年頃に改修されたものという。
中略
顎貫・台輪・花肘木は、いずれも部材表面を覆いつくす雲や波の彫刻が施されている。台輪上の中備には四面とも力士像を置くが、各面で意匠が異なる。正面である西面のもの、両手で桁を支える。南北面のものは、外側に正対せずにやや正面側を向いているため、片手で桁を支えている 133)。また東面のものは、正対するものの肩で桁を受けている・・・・・中略評価元禄9年(1696)の鐘楼堂の棟札が伝わるが、現存する鐘楼は意匠的にみてそこまでさかのぼりえない。鐘楼の建築年代は、彫刻の意匠からは19世紀前半と考えられ、『琴弾伽藍古録一覧』「鐘楼堂」の項にみえる文化7年(1810)再建の記事と整合するため、これを認めてよいだろう。また『琴弾伽藍古録一覧』によると、「大工棟梁荻田栄治貞在/後見丸亀永井貞右工門道親/小工荻田嘉兵工良茂」とある。ところで、西面にかかる扁額には、「支那沙門雪珍書」の陰刻銘がある(写真139)。雪片(1649~1708)は黄聚宗の中国僧で、17世紀末~18世紀初頭に伊予国千秋寺の第4代住持であったことが知られる。裏面には「信主営町上町浦/岸氏仁右衛門」の陰刻銘がある。この扁額は、前身の鐘楼に掲げられていた可能性もあるが、鐘楼以外の建物に掲げられていたものかもしれず、現状では雪片と観音寺の関係を含めて明らかでない。なお、梵鐘は昭和22年(1947)のものである。
刻まれた力士達の姿をいろいろな方向から眺めているだけで楽しくなります。また、最後の茶道の流れを日本にもたらす黄檗派の中国僧の扁額というのも気になります。というのも、これから見る本堂の内陣の大形厨子には禅宗様の要素が取り入れられているからです。
「構造形式」桁行3間、梁間4間、一重、寄棟造、向拝1問、本瓦葺
【建立年代】延宝5年(1677年/棟札/室町時代前期 前身堂を改造)
①この堂は、もともとは南北朝時代に建設された方5間の「前身堂」であった②それを万治年間(1658~1661)に大改修して現在の規模(桁行3間、梁間4間)にした③しかし、この時の修理では完成せず、さらに大改造をおこなって、16年後の延宝5年(1677)に上棟した。
つまり、南北朝時代に方5間の規模で建立ものが、江戸寺の始めに大規模な改修を加え、今の形に生まれ変わったようです。この再建は、前身堂の両貿面および背面の各1間を取り除いたもので、柱間の変更、柱位置の入れ替え、軸部の構造の改変などをともなっています。つまり前身堂の「保守的な修理」ではなく、新たな建物に「前身堂の古材を用いた」と考えるレベルの改修規模だったようです。そのため、今の本堂は近世の建築形式・技術で建てられており、建立年代は延宝6年と専門家は考えているようです。その後、明和年間には内陣の厨子と須弥壇を改造して間口を拡大し、寛政13年(1801)には脇仏壇が増築されています。そして昭和35~37年の修理工事によって、脇仏壇が撤去されたのが現状のようです。
このように、この本堂は近世の建立とされますが、南北朝期の前身堂の部材を残し、改造はありますが中世の仏堂の雰囲気を残しているようです。前身堂の復原もある程度可能であり、中世における三豊地方の建築を知る上でも重要とされます。私の中で沸いてくる疑問は、もともと5間あったものを、どうして3間規模の建物に縮小したのか?です。しかし、報告書は、それには答えてくれません。ここの本堂は心地よい印象を受けます。私の中の「讃岐の霊場の本堂ベスト3」の中に入ります。ちなみに、あとの2つは本山寺・屋島寺です。
本堂で私が注目したいのは内陣の大形厨子です。
これは、部分的に禅宗様の細部を取り入れられています。これは、本山寺本堂(国宝、1300年)と、よく似ていると修理工事報告書は指摘します。前回に述べたように、観音寺と本山寺が山号を共に七宝山と号して、不動の滝から稲積山の行場を共有する修験者の辺路ルートの拠点であったという仮説を補強する材料にもなります。
これは、部分的に禅宗様の細部を取り入れられています。これは、本山寺本堂(国宝、1300年)と、よく似ていると修理工事報告書は指摘します。前回に述べたように、観音寺と本山寺が山号を共に七宝山と号して、不動の滝から稲積山の行場を共有する修験者の辺路ルートの拠点であったという仮説を補強する材料にもなります。
また、本山寺に現在の本堂が姿を現したのを追いかけるように、観音寺でも方5間規模の「前身堂」が建立されていることになります。本山寺と観音寺はの関係は深かったことがうかがえます。
両寺の奥の院と考えられる興隆寺遺跡にのこされる大量の石塔群の作成年代は、鎌倉時代の後期から室町時代の末期に及ぶ約200年にわたるとされます。その期間が両寺が「真言密教の道場」として機能した時期なのかも知れません。そして、これらの宗教活動を支えた経済的な基盤は、観音寺の各港を拠点とする交易活動に求める事ができそうです。
両寺の奥の院と考えられる興隆寺遺跡にのこされる大量の石塔群の作成年代は、鎌倉時代の後期から室町時代の末期に及ぶ約200年にわたるとされます。その期間が両寺が「真言密教の道場」として機能した時期なのかも知れません。そして、これらの宗教活動を支えた経済的な基盤は、観音寺の各港を拠点とする交易活動に求める事ができそうです。
本堂の次は・・・? 太子堂というのが常道でしょう。
【構造形式】正面3間、側面4間、一重、宝形造、向拝1間、本瓦葺
【建立年代】宝暦11年(1761年/『琴弾伽藍古録一覧』)
大師堂は仁王門をくぐり、参道の階段を登った正面左手に、愛染堂と並んで建ちます。
太子堂ですから本尊には、弘法大師が祀られています。「各部の虹梁絵様は18世紀中期の様相を示し、宝暦11年(1761)に再興」とあります。ちなみに、太子堂については、『琴弾伽藍古録一覧』に次のような再建記録があります。
①『弘化録』に長和2年(1013)に当堂の存在が確認できること、②弘長3年(1263)の御影堂の棟札(木札資料6-6)、③永禄9年(1566)の御影堂建立棟札(木札資料6-4)、④慶長2年(1597)良海の代に再建されたことが記される。⑤慶安元年(1648)の御影堂再興棟札(木札資料5-3)、⑥延宝4年(1676)の弘法大師堂再興棟札(木札資料5-6)、⑦延宝5年(1677)の御影堂再興棟札(木札資料5-7)
以上の史料が残るようです。①は史料としては不確実なものですが、②以下は棟札ですから、存在した可能性が高いと考えられます。戦国末期の混乱の中でも寺が機能存続していた事がうかがえます。
太子堂の「評価」について、報告書は次のように述べます
当初より、背後に仏壇を突出させていたと考えられ、弘法大師を祀る正堂と、その前方の礼堂という構成をとる。礼堂にあたる主屋は正方形平面の内部に内陣を設けるが、内陣が中央になく背後に寄せて外陣の空間を確保している点が特徴である。
ただし、当初は外陣の構えをもたず、内陣の周囲は間仕切りがなく、あたかも一間四面堂のような様相であったと考えられる。内部に改修はあるものの、当初形式をほぼ留め、天井画などの装飾性が豊かな点も特徴としてあげられるだろう。なかでも、内陣二重折上格天井など高い意匠性を認められ、虹梁絵様の意匠からも18世紀中期の仏堂と評価できる。足元まわりが、昭和51年の土砂崩れの被害を受け、花尚岩製の方形切石を入れてかさ上げされているが、外部の構造・意匠は概ね建立当初の形式を伝えている。社蔵記録から宝暦11年(1761)の再興が明かな点も、同時代の周辺地域における建築の建立年代を考えるうえで重要な意義をもっと考える。
さて次に向かうのは階段の上の薬師堂です。
この建物は、『琴弾伽藍古録一覧』には、大同2年(807)に弘法大師が建立したと記されます。続いて、慶長9年(1604)の上棟、正保4年(1647)と元文4年(1739)の再建の記事があります。さらに
「随正和上代正徳四年寺社帳二ハ 四間四方トアリ、光巌和上代宝暦四年明細帳ハ 五間四方トアリ」
との朱書が記されています。これを信じれば、正保4年再建の堂が4間四方、元文4年の堂が5間四方であったようです。現在の薬師堂は大正時代の再建です。建立に関する資料としては、仏壇の南側の脇間に棟札が置かれているようです。その棟札には「再建西金堂」、[大正三年三月二十一日]、「大工棟梁 大塚竹治」などの字句がみえ、西金堂を再建するという意味で薬師堂を新築したということだそうです。
この建物は「西金堂=薬師堂」という性格をもつようです。
このほか、正面石階の側面羽目石のほか、正面に点在する灯篭・香立て・花立てなどの石造物にも大正3年(1914)の銘を確認できます。また大工棟梁の大塚竹治は、昭和3年(1928)におこなわれた琴弾神社本殿(寛保3年=1743建立)の第37回遷宮(修理)の大工棟梁もつとめていることが、『琴弾八幡宮昭和流記』(1989年)から分かるようです。
この薬師堂の性格を一変させるのが明治の神仏分離令です。
廃仏毀釈運動の影響を受けて琴弾八幡宮の本地仏である阿弥陀如来が、この建物に遷ってくることになります。その結果、第68番札所の神恵院の本堂として使用される事になるのです。それは、2002年に現在のコンクリートの本堂が出来るまで続きました。その役目を終えて、現在は再び薬師堂と呼ばれるようになっています。
それでは報告書の薬師堂の「評価」を見てみましょう
薬師堂は、正方形の内陣の四周に庇をめぐらせる基本的な平面をとりながら、内陣の床や天井を上げることで、正面側を外陣、両側面を脇陣とし、背後に寄せて仏壇を設けるといった平面的な特徴を備えている。正面側まわりと内陣柱との柱筋がそろわないため、内外で柱や束の立てる位置が異なり、また大虹梁側面から挿肘木を出して天井桁を支えるといった変則的な納まりとなるところがあるが、内陣の三方を虹梁で囲い、大きな本尊に対応した高い内陣の空間などが特徴的である。全体の意匠は、和様を基調として、台輪、柱の綜、花頭窓など禅宗様の構造や細部をとりいれ、側まわりを中心に彫刻などの意匠が豊富である。とりわけ向拝周辺の虹梁絵様や彫刻などは精緻で、大瓶東に二重虹梁を挿す構造的な面を含めて薬師堂のみどころの一つである。
また、組物は柱上だけでなく、柱間の東上や柱間にも置くなど、詰組に近い構成となっている。向拝の丸桁や仏壇正面の貫状の水平材に施された地紋彫りは珍しく、彫刻技術の高さを示している。それゆえ、隅柱の内法長押や切目長押の納まりが正統的でないのが、やや不可解である。棟札により、建立年代や大工が明らかである点も特徴に挙げることができる。大きな改修を受けず建立当初の姿を伝えており、近世社寺の流れをくみながらも架構などに独特な点がみられる近代の仏堂と評価できる
疑問が残るのは、なぜ観音寺に薬師堂があり、古仏の薬師像が祀られているかです。
ここにはこの寺のもうひとつの成立由来が隠されているようです。
薬師如来は、中世の神仏習合の時代には熊野権現の本地仏として、密教修験者達に祀られてきた仏です。本堂の一段上に建ち、境内を見守るお堂はその歴史を静に伝えるもののように私には思えます。
観音寺の境内のお堂等を丁寧にお参りしました。
ここにはこの寺のもうひとつの成立由来が隠されているようです。
薬師如来は、中世の神仏習合の時代には熊野権現の本地仏として、密教修験者達に祀られてきた仏です。本堂の一段上に建ち、境内を見守るお堂はその歴史を静に伝えるもののように私には思えます。
観音寺の境内のお堂等を丁寧にお参りしました。
さて、神恵院の本堂は、薬師堂の階段を一旦下りて、観音寺の大師堂と神恵院の大師堂の間を西に進んで、さらに石段を上った所にあります。最初に、この本堂の前に立った時の違和感をいまでもおぼえています。この本堂は、2002年に鉄筋コンクリートで新築された「未来的な建物で、未来的な宗教空間」なのです。これを建てた建築家にエールを送ります。
このお寺の歩んだ歴史については、また別の機会に
南無大師遍照金剛
おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 神恵院・観音寺調査報告書 香川県教育委員会 2019発行
おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 神恵院・観音寺調査報告書 香川県教育委員会 2019発行
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