なだらかに続く阿讃の山脈(やまなみ)は、どれが頂上か見分けのつきにくい山が続きます。その中で一番高い龍王山と相栗峠をはさんで、並び立つのが大滝山(946m)です。この山の北側周辺は、藩政期から高松藩からの寄進を受け、大滝寺のひろい社領として護られてきたために、上部はいまでもよく自然林が残されています。
大滝山の最高点は神社裏のピーク(946m)です。しかし、残念ながら山頂付近はヒノキが大きく繁り何も見えないので、訪れる人はあまりありません。多くの人が目指すのは、県境尾根を西に進んだ三角点のある城ケ丸です。なだらかで整備された尾根道はには、大きなブナも見えます。讃岐の尾根道で見られるのはここだけではないでしょうか。他にもケヤキ、アカガシ、ヤマザクラなどが茂り、森林浴には最適です。香川県側は「大滝山自然休養林・県民いこいの森」として整備されていますので、森林浴には最適です。
ここまで書いてきてハイキング案内のようになっていることに気付きました。
今日は、修験道の拠点寺院であった大滝寺について、見ていきたいと思います
ここには現在、山頂に西照神社とその下に大滝山がありますが、明治以前の神仏分離以前は、このふたつは一体の施設で、僧籍を持つ修験者が管理していたようです。
「大滝寺縁起」によると、
①奈良時代に行基菩薩が香川県塩江より来山、この寺を建立したこと、②平安期の初め延暦十年(791)空海が来山、修行し、③空海が西照大権現の尊像を彫刻し、法華経出現品を一石毎に一字記し堂の左右に納めた
と記します。
「行基ー空海」開山というのは、真言寺院の一般的な創建由来ですが、郷土史家や地元の人達の中には、この「空海伝説」を積極的に肯定する人も多いようです。
というのは、空海の書である
『三教指帰』の中の「阿州大滝岳に求聞の法を修め……」
とある大滝岳を、この大滝山とみなすからです。
縁起は、また天安三年(859)の聖宝の登山を力説します。現在、寺の西方にある高野槙は、聖宝お手植であることや、聖宝にちなんだ男女の厄除厄流の行事が行なわれていることが記されています。
縁起は、また天安三年(859)の聖宝の登山を力説します。現在、寺の西方にある高野槙は、聖宝お手植であることや、聖宝にちなんだ男女の厄除厄流の行事が行なわれていることが記されています。
どちらにしても「聖」伝説が色濃く漂うお寺なのです。
阿波の美馬町郡里に願勝寺というお寺があります。
古寺で、いくつもの文化財があり、寺独自の記念館も整備されています。
古寺で、いくつもの文化財があり、寺独自の記念館も整備されています。
この寺には中世以来、大滝寺と深い法縁関係があったことを示す史料があります。戦国末期の文禄三年(1594一五九四)に書かれた「願勝寺歴代系譜」です。この系譜は、当時の住職快盤によって記されたものです。その第六代智由上人の項に、大滝寺に関する記述が見えます。
…後空海上人モ阿波二来り 当福明寺(願勝寺の旧名)二留錫シテ 護摩堂ヲ立テ 本尊不動明王ヲ自作、爾来真言密宗二改ムト云、其比、空海上人 阿波卜讃岐中山ナル大滝ノ峯ニ登り 国土安全ノ祈ヲナスノ処 不思議ノ老翁忽然卜現レ、我是汝が遠祖天忍日命ノ神使也卜。
空海曰く 其神跡イヅレナルヤ。翁曰 即此処也卜 古塚ヲ七つ其形バ古十墓 変シテ古塚二入テ身ヲ隠ス扨コト故アラ卜此処 一草庵ヲ構 其霊ヲ祭ル 其草庵後 一大滝寺卜改 其神ヲ西照権現ト号ス・智由ノ弟子智信坊ヲ以テ此寺ノ法燈ヲ続カシム中略……国司藤原道雄西照宮二神田ヲ寄附スト云。
空海が願勝寺で修行後に大滝峯に登って「老翁」に出会い、西照権現を祀るためにそれまであった庵を大滝寺と改めたとします。ここからは、ふたつのお寺が修験道の流れをくむ寺で密接な関係にあったことがうかがえます。
もうひとつは、天正三年(1575)の阿波法華騒動です。
これは「中世阿波宗教史 最大の騒動」といわれれます。
騒動のきっかけは、戦国大名の三好長治が日蓮宗に熱烈に帰依して、阿波国内の一般庶民にまで、法華に改宗を強制したことに始まります。彼は堺の妙国寺の僧三百余人を阿波に派遣し、他宗寺院に改宗の折伏を働きかけたのです。この時に、最も果敢に抵抗を示したのが真言山伏たちでした。三千人の山伏達が、三好氏の居城勝瑞の城下で大デモンストレーションを行います。
「願勝寺歴代系譜」には、その時の様子が次のように記されています
第二十五代快弁上人の項に、
…又五郎勧メニヨリ長治公(義賢の子息)日蓮宗二帰依シ 同三年(天正三年)ニハ 阿波国中生レ子迄一人モ残ラス日蓮宗ニナシ 法花(華)経ヲ戴カセント泉州堺ノ妙国寺、経王寺、酒塩寺ノ三ケ寺ヲ阿波へ招待シテ 本行寺二住セシメ、法華坊主三百人南方北方手分シテ 士農工商ノ隔ナク残ラス法華経ヲ戴キ 法華宗トナルノ時、滝寺ノ上人ハ 上命辞シ難シト直二改宗シテ法華宗ノ弟子トナル。願勝寺快弁ハ 法華坊主ヲ相手トシテ問答ヲナスト雖、時ノ権威二当り難シト弟子三人ヲ連テ其夜二立退キ高野山二登りテ法華退治ノ計議ヲナス。此時阿波国中二真言坊主ハ願勝寺ノ外ナシト上方迄モ風聞ス。
快弁ハ高野山ニテ法華退治ノ一策ヲ儲ケ。阿波へ帰りテ同意ノ寺院ヲ訪ラヒ密事ヲ談シ、阿波国ノ念行者数多クノ山伏ヲ催シ、持妙院へ訴訟シ、日蓮宗対シ不当状ヲ三尺坊二持タセテ本行寺へ遺ス処、妙国寺普伝上人返答延引、ヨツテ法華坊主ヲ打殺スベシト我々三千余人ノ坊主ハ 此度ノ法華ノ為ニスト無鉢二本行寺へ押入り騒動二及フ。其魁トナル人々二ハ 大西ノ畑栗寺、岩倉ノ白水寺、川田ノ下ノ坊、麻植曾川山、牛ノ島ノ願成寺、下浦ノ妙楽寺、柿ノ原別当坊、大粟ノ阿弥陀寺、田宮ノ妙福寺、別宮ノ長床、大代ノ至願寺、大谷ノ下ノ坊、河端大唐国寺、高磯ノ地福寺、板西ノ南勝坊、同蓮華寺、矢野ノ千秋坊、蔵本ノ川谷寺、一ノ宮ノ岡之坊、此外添山薬師院、香美虚空蔵院等ナリ。忌部郷忌部十八坊ヲ始 其余ノ神宮寺別当附属ノ修験神坊ノ行者共ハ 此事二与セズト雖、国中ノ騒動大方ナラス、是事ヲ聞テ三好家ノ大老篠原自遁馳来リ、種々曖ヒニヨツテ妙国寺、経王寺、酒塩寺等ヲ初メ此外三百人法華坊主ヲ森志麻守請取テ船ニテ上方へ送リケレハ、篠原自遁真言宗ノ寺々ヲ呼出シ、夫レ元ノ宗旨ヲ守ルベシトノ厳 命ニヨツテー旦(其騒動治リ……(後略)
この中の法華教反対運動の中心として活動した寺院の中に、大滝寺の下寺的存在であるお寺がいくつかあるようです。それらの中に、先ほど見た願勝寺や脇町方面からの登山口の岩倉の地にあった白水寺(岩倉の坊)があります。これらの反対運動の背後に、大滝寺があったことがうかがえます。同時に、大滝山が中世の修験道山伏の一中心でもあったことも分かります。
一方で、修験道でも「忌部十八坊」や「滝寺ノ上人」は、反対運動に参加しなかったようです。これは忌部十八坊が修験道の世界において、大滝山の系統と別系統であり、対立関係にあったことを示しているのではないかと研究者は指摘します。忌部十八坊は「忌部氏」を祀る地方的な修験道であり、中央(高野山)と連がる大滝山とは、相入れない一面をもっていたようです。
ちなみに、大滝修験道と忌部修験道(高越山)には、こんな話が残っています。
大滝山と高越山は仲が悪く、再三にわたり「石合戦」をしたというのです。
高越山から投げた石が大滝寺の床下にあるとか、脇町や隣接の阿波町のあちこちに残っているという話が伝わっています。また逆に、大滝山から投げた石は、高越山まで届かず「拝原」と呼ぶ地にあるとかいわれます。この石合戦の背景には、大滝山と高越山をそれぞれ拠点とする山伏が修験道の世界では属する集団を別にして仲が悪かったということなのでしょう。
岩倉の白水寺は江戸時代には愛行院と称し、この地方の修験道の一方の旗頭でした。
『阿波志』には
「愛行院、岩倉村に在り白水寺と称す、天文約書に見ゆ。泉あり白くして甘し、優婆塞居る、租及び丁役を除す」
江戸時代の大滝寺は?
大滝寺は寺伝によると、江戸時代にはこの地方の支配者稲田氏から禄を与えられます。
大滝寺は寺伝によると、江戸時代にはこの地方の支配者稲田氏から禄を与えられます。
その他にも、西照神社の峰より東へ八丁、西へ八丁、それから麓に至るまで寺領として認められたといいます。また、寺の裏手(北側)も高松藩より権現林として寄附されていました。さらに同藩から供米として五十石を与えられていたと記します。
その結果、山頂の伽藍の建築物としては、登山道には鳥居の数が十八基、寺域には西照大権現一宇、竜王堂・観音堂・不動堂・護摩堂・奥院に熊野十二社大権現などのほか、多数の建物があったと記します。今日に残された自然環境は、この時の寺域のようです。当時の盛大さがしのばれます。
その結果、山頂の伽藍の建築物としては、登山道には鳥居の数が十八基、寺域には西照大権現一宇、竜王堂・観音堂・不動堂・護摩堂・奥院に熊野十二社大権現などのほか、多数の建物があったと記します。今日に残された自然環境は、この時の寺域のようです。当時の盛大さがしのばれます。
しかし、明治の神仏分離によってお寺と神社は分けられ、お寺は下に下ろされました。そして、多数あったという伽藍の建築物も地に帰り、ケヤキ、アカガシ、ヤマザクラやブナなどの巨木が茂る神域として私たちを迎えてくれます。
参考文献 田中善隆 阿波の霊山と修験道
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