高峰神社
 かつては、山それ自体に神霊が坐し、その聖なる地を不入(いらず)といい、鬱蒼とした茂みが村々のあちこちにありました。明治元年の神仏分離令の際に、村々の神社を「取調報告」するようにとの通達が全国に出されます。しかし、神社と言っても山そのものを信仰していた村では、本殿も拝殿も御神体もありません。これに対して土佐藩は
神体無キ神社等ハ、向後鏡・幣ノ内ヲ以神体卜致シ可レ奉祭候事
鏡・幣を今後は身体とせよ通達しています。同時に、小さな祠や神社は集めて合祀するように指示しています。
例えば旧幡多郡敷地村五社神社は、
「五社大明神 無宮 右勧請年歴不相知 山を祭り来」
と神社明細帳にあります。また旧土佐郡土佐山村菖蒲の山祗神社は近辺の山神八社を合祀したもので、いずれも「古来以 神林祭之」のように山を神として祀っていたのです。
 このように、特定の神体も安置せず山そのものを拝んできた姿をみることができます。それは山に対する最も素朴な信仰の形でした。
黒尊渓谷6

山の神霊はいろいろな姿となって現れます。
旧幡多郡西土佐村黒尊山では、次のような「桃源郷」が物語られていました。
黒尊山の神は大蛇で霊験ありよく願を叶えていた。
元禄の頃という。農夫、一羽の山鳥を追って宮林に入り、なおも追いゆくと一つの楼門に至り、宮殿は金銀の壁、琥珀の欄干、陣口の簾、五色の玉の庭のいさごを敷きつめていた。
 黒尊神は農夫の常々黒尊山を崇拝するを労い饗応の善美を尽し、巻物一巻を授け、決して他言せざる由を告げる。里に帰ってその巻物の事を問われて、すべてを口外してしまう。とたちまち農夫乱心し躍り上りて
「我こそ黒尊の神なり、おのれ人に洩すな堅く申含めしを早くも人に語りしか」と大いに怒り掻き消すごとく行方知れずになったという。
黒尊渓谷2
白髪の老翁も山神の化身としてよく語られます。土佐郡本山町白髪山の神は
背長七尺有余 御眼ハ日月ノ如ク輝キ 御鼻ハ殆高ク 御顔色赤面ニテ 左ノ御手二鉾ヲ持 右ノ御手二三ツ。亦逆木ノ杖ヲ突キ 巌上孤立チ給フ 御容鉢実恐シキ尊像
であり、猟神的性格をみせます。
3黒尊渓谷
工石山は雨乞信仰の霊山のようです。
各地に工石山という名前が付いた山があります。例えば旧土佐郡土佐山村高川前工石山、同村中切中工石山、旧長岡郡本山町奥工石山ですが、これらの山には雨乞伝承があります。例えば前工石山では
「妙タイト申大岩有 之右岩ノ内二三尺四方斗雨露之不掛所有之、其所ヲ左ノ通相唱候由、妙タイヒジリ権現無宮神体無之」
と伝えられます。奥工石山も
雨乞霊験あり 汚すことあれば神怒にあう」と言います。
5黒尊渓谷
 土佐は「海の国」ですから、高山の巨岩が光り輝いて舟を導いた因縁を語る話が多く伝わります。また、神聖な山(カンナビ山)を拝んでいた遥拝所が祭地となった所も多くあります。先ほど述べた前工石山や中工石山も、もともとは奥工石山の遥拝所であったようです。土佐町の三宝山も本川村稲叢山の遙拝所だったと言います。しかし、時の流れとともにいつの間にか、本山の方の祭祀伝承は忘れられ、遥拝所があたかも昔からの祭地であったごとく思われるようになります。
 石鎚神社勧請地も土佐の各地にありますが、その多くはかつてあった高峰から麓へと下ろされています。鉄鎖だけが山頂で錆びたままになっているという姿が各地で見られます。
  それは近世になって山岳修行を忘れて、里に留まり加持祈祷に専念した修験者の姿にダブって見えてきます。

幡多郡100景1
 次に県西部に多い「地蔵を祀る霊山」を見てみましょう
  旧幡多郡十和村高森山にも地蔵が祀られていました。旧三月、七月二十四日を縁日として、大人相撲がありました。シメアゲと称して、土俵の注連縄を取り除く時に三人組合せの相撲が取られたようです。三人相撲は、起源は神相撲で、神に捧げられたものあったのでしょう。また神社からいただいた幣を田畑の地神に立てます。これを「鎮めの地蔵」とよんでいたようです。
幡多郡100景3
  佐川山は幡多郡大正町奥地にあり、この山頂には伊予地蔵、土佐地蔵があります。
旧三月二十四日大正町下津井、祷原町松原・中平地区の人びとは弁当・酒を提げて早朝から登山したそうです。この見所は喧嘩だったそうです。土佐と伊予の人々が互いに口喧嘩をするのです。このため佐川山は「喧嘩地蔵」といわれ、これに勝てば作がいいといわれてきました。帰りには、山上のシキビを手折って畑に立てると作がいいされました。
  このような地蔵は西土佐村藤ノ川の堂ヶ森にもあり、幡多郡鎮めの地蔵として東は大正町杓子峠、西は佐川山、南は宿毛市篠山、北は高森山、中央は堂ヶ森という伝承もあります。また一つの石で、三体の地蔵を刻んだのが堂ケ森、佐川山、篠山山です。これら共通しているのは相撲(喧嘩)があり、護符(幣)、シキビを田畑に立てて豊作を祀ることです。
 これらの山々のさらに奥地の高岡郡祷原町雨包山、星ケ森にはエビス像があり、やはり作神信仰がみられます。祷原地方は、社家掛橋家を中心に橘家神道の盛んな地方ですので、地蔵信仰の作神的要素がエビス神と結合していたものと、研究者は考えているようです。
黒尊渓谷4
 地蔵由来はさらに発展・変化を見せるようになります。
佐川山ではいつの頃からか、山が荒れに荒れ、死者など不吉なことの続くと、毎月二十四日をモソビ・或いはタテビ(休日)と呼んで、山仕事一切を休みとするようになります。もしこの禁を犯せば、山の怪に遭うといわれ、この日は地蔵さんが獣を自由に遊ばす日だとされるようになります。毎月二十日の山ノ神祭りよりも地蔵の崇りを畏れ、この日は炭竃の火を見る時は、事業所(営林署)に勧請している地蔵に線香をあげ許しを乞うてからでないと竃に近寄らなかったと伝えられています。

五在所の峯
 旧高岡郡窪川町と幡多郡佐賀町の境に五在所の峰があります。
ここには修験者の神様といわれる役小角が刻んだと伝えられる地蔵があります。矢のあとがあることから「矢負の地蔵」とも呼ばれていました。この山はもともとは不入山で、小角が国家鎮護の修法をした所として、高岡・幡多郡の山伏が集って護摩を焚く習わしがあったようです。このように山上の地蔵は修験者(山伏)によって祀られ、山伏伝承を伴っています。地蔵尊などが置かれた高峰は修験や両部の祭地であり行場であったところです。村々を鎮護すべき修法を行った所と考えれば「鎮めの地蔵」と呼ばれる理由が見えてきそうです。
 昔から霊山で、地元の振興を集めていた山に、新たに地蔵を持込んで山頂に建立することで、修験者の祭礼下に取り込んでいったようです。
高峰神社2
 土佐にも豊作祈願の対象となる穀霊信仰の山々が多いようです
穂掛けの風習と稲作を司る神の伝承が豊富に伝わるのは旧土佐町芥川の三宝山高峰神社です。三宝山と名がつけば稲作信仰があると見てまず間違いないと研究者はいいます。
稲が稔ると祈願成就の供物として、引き抜いたままの稲穂を社殿に吊り掛ける「掛穂」の風習がこの神社には残っています。今では高知は、ビニールハウス全盛ですのでハウスの床土を持ってきて拝殿下に撒く人もいます。掛穂については次のような伝承が伝えられています。
 いつの頃か芥川主水なる者、猪猿多くて作を損なうので作小屋を山中に造り、夜夜に猪猿を追い払っていた。ある深更に小屋の棟から大きな足が下ってきた。主水これを弓矢で射んとしたところ、我は三宝山に仕える者であるが、この山の大神は作物豊熟守護し給う神であるから、もうここに来る必要はないと告げ、鐘、太鼓を響かせて山上に去って行った。
 主水は伏拝して直に帰宅し再び作小屋に来ることもなかった。さて秋の穫り入れ頃に来てみると猪猿の害少しもなく豊作であったので、その初穂を山頂の大檜に掛け献じた。これより年々大歳の夜に掛穂をする風が生じた。
高峰神社3
こうして
「御社ハ無之シテ大三輪神社ノ如ク 只御山一体ヲ社トシテ 各遥拝ヲシタリ 又大檜ヲ神体卜祭リタリトソ」
といわれ豊受神を祀りはじめたと記されます。
 この高峰神社は、旧本川村稲叢山を本宮としています。
 稲叢山については次のような話が伝えられます
夏は雨と霧に隠れて樹木茂りて闇く、冬は雪降りて常に白く、村人これを不入山とも呼ぶ。もし入る者あれば七日の精進が必要であった。当時、高峰神社は、稲叢山の遥拝所であったが、養老年間のことという二百歳まで生きた十郎、九郎、粟丸の三兄弟が稲叢山の神々を勧請したという。
 またある年大いに不作で三宝山に参り立願したところ、老人どこからともなく現れ、「粟一升を汲み切りにして蒔けよ、すれば秋には三石三斗三升穫れよう。その返礼には粟の神楽を致すべし、其の神楽の法は、清浄な所に竃を築き三升炊ぎの羽釜に三升三合三勺の粟をコシキに入れ 十二返洗って蒸し、湯のわき上る時に神々を招けば神等勇み給う」と告げて姿を消したという。
 ここから三升三合三勺を穫った時は、必ず粟神楽を奉納したと伝えます。この竃を築いた所が芥川の竃森といいます。 稲叢山の名称は稲に似た草の自生するためとされ、これが稲叢山の神々や山人の食料でした。
高峰神社4
さらに次のように続けます
 ある年に栗ノ木部落の住人太郎平なる者、これを刈取らんと鎌かけるや、たちまちに山は鳴動して暗闇となり、大いなる翁が現れて鎌を奪ったという。それより鎌取り山神と申して祀り栞ノ木に小社を建立したという。
 安芸郡下の藤右衛門なる者、ある年に半分ほど稲刈りをしたが平年の半分ほどしかない。加治子米の減量を願い出たが許されず稲穂と鎌を持って三宝山に詣でたところ、老翁現われその鎌を片手に叢中に消えて行った。家に帰ると刈り残した稲は重く垂れて満作になっていたという。それ故か、毎月三日の日の出時に鎌の手を休めば朝日のごとく栄え、三宝山に詣る者一生食物に不自由せずという。
 以上の伝承で注意したいのは、鎌が物語られていることです。これは恐らく鍋釜の釜からの付会伝承で、湯の沸いた時に神を招くのは、湯立の信仰に基づくものと研究者は考えているようです。
鉢が森2
旧香北町鉢ケ森は安徳帝伝説の地ですが、帝の兜の鉢を埋めた話が伝わります。
 山の主とよぶ妖怪変化を鎮めるために「兜の鉢」を埋め山祇命草野姫命を奉祀したというのです。ここには「兜の鉢」が祭祀具として語られています。
また安徳帝御陵参考地の横倉山に接する高岡郡仁淀村都にも帝の奉持されたという釜跡があります。これら釜や鉢は、湯立祈祷用の祭具であったと研究者は考えているようです。

鉢が森大権現1
これら伝承地の峰々へと続く香美郡物部村では、今でも湯立の卜占と清祓が行われているからです。そこには
香美郡物部村→香北町→土佐町→本川村→仁淀村→越知町
へと四国山地の山々を湯立を伴った宗教者が移動していったことがうかがえます。それは恐らく物部地方のいざなぎ流と密接な関係ある一団だったのではないかと研究者は考えているようです。彼らが、これら山々の村人たちの山への信仰に大きな影響を与えたようです。阿波祖谷から土佐横倉山に至る安徳帝潜幸伝説の残る山々は、特定の宗教者達で結ばれた信仰の道だったのかもしれません。
黒尊渓谷8

参考文献 高木啓夫  土佐の山岳信仰 大山・石鎚と西国修験道所収