多くの霊山が行場としての機能を果たさなくなって久しくなりますが、今なお修験者の行場としてその命脈を保っているのが土佐の高板山(こうのいたやま)です。この山は高知県の物部川の上流にそびえ、一ノ森、ニノ森、三ノ森を併せて高板山と呼びます。北は阿波との国境尾根で、かつては平家伝説のある祖谷地方との婚姻も行われるなど交流が行われていました。そのためか物部にも安徳帝潜幸伝説があり、横倉山に至った安徳帝は、再び高板山に還幸されてこの山で崩御したとされます。
高岩山の一ノ森には剣のように切り立った四国岩とよぶ嶽が屹立します。ここから帝は、四国をながめたので「四国王目岩」と名付けられたいます。また、ここには「三種の神器」の内の神鏡を埋められたと伝わり、不動明王が祀られます。
ニノ森は平坦地で、帝の行在所であり、陵墓で、伊邪那岐命を祀ります。ここは別名は御天上ともいい、別に聖大権現を祀っていましたが、その社地が「不入ず」であったために、麓の笹部落に移したと言います。ニノ森、三ノ森には高板大権現が鎮座すると伝えられ、中腹の高板神社(旧称高板大権現)が遥拝所であったようです。ここには通夜堂もあり、これより先が女人禁制になります。
縁日は春秋の四月、十月の九日から十日両日で、九日は通夜があります。順を追って祭礼を見ていきましょう。
①夜は採燈護摩を焚きます。以前は六角形であったようですが、今は四角形の井桁組みになっています。②唱文のあと五方に矢を放ち、太刀で九字を切ったのち点火されます。③やがて導師が経木を投じ、続いて修験者が願立て(家内安全など)住所氏名を書いた護摩木を火中に投じられます。④この間、導師は印を結び、太刀で九字を切りつつ祈祷、やがて火伏せの太刀を振ります。⑤参寵者は、右廻り三回の火渡りを行います。⑥続いて通夜堂でも壇護摩が焚かれ、この間参寵者の数珠繰りがなされる。百人前後の人びとの群がる大きな数珠です。
祭礼日には、奥の院への「獄めぐり」も行われていたようです。記録によって「獄めぐり」をたどってみましょう。奥の院まで約八キロメートル、帰路は約五キロメートル、先達に伴われて、各行場で行を勤めながらの参拝で、所要時間六時間。信者は白装束の石鎚信者が多かったようです。嶽めぐりの道筋には、童子像が迎えてくれます。その数は三十六王子。
像のある所は崖上、崖下、崖中の行場で、その都度、南無阿弥陀仏を唱えて祈念します。
像のある所は崖上、崖下、崖中の行場で、その都度、南無阿弥陀仏を唱えて祈念します。
一ノ森、ニノ森では、入峰記録の巻物を供え、しばし経文を唱えます。その間に捨て宮滝(腹這いで岩の間を跳ぶ)セリ岩(廣向きでないと通れないほど狭い)地獄岩(長さ10mほどの岩穴を抜ける、穴中童子像あり)そして、四国岩、千丈滝、三ッ刃の滝などの難所が続きますあります。滝とは「崖」のことであり水は流れていません。
当時の人たちはどんな気持ちで山をながめ、お山開きにやって来ていたのでしょうか?
修験道にとって山は、天上や地下に想定された聖地に到るための入口=関門と考えられていました。天上や地下にある聖界と、自分たちが生活する俗界である里の中間に位置する境界が「お山」というイメージです。この場合には、神や仏は山上の空中に、あるいは地下にいるということになります。そこに行くためには「入口=関門」を通過しなければなりません。
異界への入口と考えられていたのは次のような所でした。
異界への入口と考えられていたのは次のような所でした。
①大空に接し、時には雲によっておおわれる峰、②山頂近くの高い木、岩③滝などは天界への道とされ、④奈落の底まで通じるかと思われる火口、断崖、⑤深く遠くつづく鍾乳洞などは地下の入口
山中のこのような場所は、聖域でも俗域でもない、どっちつかずの境界として、おそれられました。このような場所は行場であり、聖域への関門であり、異界への入口だったのです。そのために、そこに祠や像が作られます。そして、半ば人間界に属し、半ば動物の世界に属する境界的性格を持つ鬼、天狗などの怪物、妖怪などが、こうした場所にいるとされました。狐・蛇・猿・狼・鳥などの人里の身近かな動物も、神霊の世界と人間の世界をむすぶ神使として崇めおそれられたのです。境界領域である霊山は、こうしたどっちつかすの怪物が活躍しているおそろしい土地と考えら、人々が立ち入ることのない「不入山(いらず)」だったのです。
その山が、年に一度「開放」され「異界への入口」に立つことが出来るのが、お山開きの日だったのです。ワンダーランドに行くようなワクワクした気持ちで、参拝した人たちもいたのではないでしょうか。
高板山の現在
高板山は現在は神池、椿佐古部落で祭祀されていますが、もともとは、安丸部落の安丸家が祭祀していました。安丸家は大和国から入国、安丸城主となりその後、江戸時代には笹・明賀地区の番所役人であったようです。そして、安丸城八幡宮とともに高板山を祭祀していました。高板山に「いざなぎ流」太夫が、関与していたことは明らかです。
今では場所も分からなくなった「御つるい」という祭地では、「ミタツ天王」「丸し天王」「十万八天宮」を祀っていたと言われます。修験者たちは役行者を始祖として祀りますが、物部の祈祷集団いざなぎ流は「丸し天王=摩利支天」を祖神して祀っていたようです。
「いざなぎ流」とは、なんなのでしょうか。
「いざなぎ」とは「いざなぎ祭文」に登場する「いざなぎ様(大神)」に由来するようです。その祭文には、日本に生まれ経文の修行を始めた占い上手の「天中姫宮(てんちゅうひめみや)」が登場します。彼女が人を救うための祈祷(呪術)を求めて天竺にわたり、「いざなぎ大神」から人形祈祷や弓祈祷などの祈祷法を習い日本に伝えた、ということが語られています。
これが「いざなぎ流御祈祷(ごきとう)」です。これは古い「民間信仰」史料として貴重とされ、国重要無形民俗文化財に指定されてます。宗教なのですが組織はありません。「太夫」がさまざまな知識を習得し、管理しています。世襲制ではなく、なりたいものが師匠に弟子入りをして伝授するという形式です。太夫は普段は、林業や農業に従事し、依頼があると出かけていきます。
太夫の役割は4つあり、
氏神や家の「神祭り」、病気治しの「病人祈祷」、弓を叩いて神憑りし託宣(占い)をする「祈祷」、山の神や水神をなだめ、自然災害を防ぐ「鎮め」
です。
その中の病人祈祷の「盛りかえの法」には、次のように記されています。(意訳)
一斗二升、一貫二百匁の供物をし、神木十二の幣、大木七ツ幣、小木九ツ幣で祭壇をしつらえる。そして盆の中央にオテン様のお米と称して米粒を少々盛る。その周囲には十二ヶ月に擬えて米粒を十二盛りにする。そして各々の上に一文銭を置く。まず祈祷は病人の生死から判じる。病気を克服できるものなれば、オテン様の米粒が一文銭の穴から立てるのである。日天様に生死をうかがうのである。いくら祈念しても生と出なければ祈祷はそれで終わる。米粒が上向けば続いて「盛りかえ」の祈禧に移る。十二ヶ月の米粒のいずれかが上向くまで祈祷は続く。上向いた月によって何歳まで生きると判じる。つまり病人の黒星を白星にかえる、いわば命をつなぐ法が「盛やかえの法」である。
もうひとつ紹介します。 いざなぎ流祈祷の基本である「米占い」です。
米粒を入れた盆を祈念しつつゆすり、
その米粒の描く形状によってどこの何神の崇りと判じる。災厄の根元を判じるのである。そこで災厄を、除くには湯祈祷、憑物などには火祈祷などと具体的な祈祷となる。この米占いは元来巫女の職分であって、かつてはこれをなす老女が行っていた。
このように物部地方の祈祷は、米占いを基盤にいろいろな祈祷法があります。
また、「湯立て」もします。これは「湯立て神楽」と呼ばれています。
湯立てをすることから考えて、西日本地域では湯立てをおこなう神楽が非常に多いので、そのような神楽の流れを汲んでいることがわかります。こうしたいわば導入的な神楽をした後に、「本神楽」に入ります。本神楽は、家で祀っている神々のための祭りで、「御崎様の神楽」や「天の神様の神楽」「ミコ神様の神楽」など、家によって多少違いがみられますが、次々におこなっていくわけです。このような神楽の舞台には、「白蓋」と呼ばれる、一種の天蓋がつるされ、神楽はその下でおこないます。
ここで前回にお話しした、土佐の旧香北町や仁淀町に伝わる安徳天皇伝説を思い出してください。「湯の沸いた時に神を招く=湯立の信仰」がありました。そして、物部では、今でも湯立の卜占と清祓がいざなぎ流によって行われているのです。ここからは
香美郡物部村→香北町→土佐町→本川村→仁淀村→越知町
へとつながるいざなぎ流の太夫たちの移動がうかがえることを、お話ししました。別の形で言うと
阿波祖谷 → 物部の高板山 → 土佐横倉山
の安徳帝潜幸伝説の残る山々は、いざなぎ流修験道の活動ルートであり、テリトリーであったのではないでしょうか。
物部川と仁淀川の上流の霊山を見ていると、いざなぎ流修験者の痕跡が浮かび上がってきたようです。
参考文献 参考文献 高木啓夫 土佐の山岳信仰 大山・石鎚と西国修験道所収
参考文献 参考文献 高木啓夫 土佐の山岳信仰 大山・石鎚と西国修験道所収
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また祖父山中松次(1873-1949)は太夫と呼ばれ、「まっこと妙な踊りを踊った」「皿回しが上手じゃった」という母のことば、あるいは家を取り壊したとき屋根裏から沢山の書類や紙切れの束が出てきた、という話を総合するとまさしくいざなぎ流の神職であったと思われます。葬儀も冠と装束を身に着けて座棺のなかに座る、他では一度も見たことない不思議極まるものでした。
地図上の安丸城址は、土地では「もあんさま」と呼ばれ、時節は忘れましたがのぼりを立てて収蔵品を虫干しする祭礼がありました。ブログを拝読してその由来を初めて知りました。
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