土佐神社4
土佐神社
高知の神社で他県から勧請されたものを数えると、熊野系が128社と圧倒的に多いようです。その他では金峯(吉野)36社、石鎚が12社と続きます。熊野神社が数多く見られるは、土佐特有の現象です。
  それでは熊野行者達が、どのようにして土佐に熊野権現を広めていったのでしょうか。その前に「仮説」を示しておきます。
空海以前の辺路修行者による行場・霊山の開発
プロの修験者の辺路修行社の巡礼・廻国
熊野修験者による熊野詣で
有力豪族の熊野行者保護と熊野権現の勧進
江戸時代の土佐藩の本山派修験道保護と当山派の衰退
土佐神社1
土佐神社(高知市)

 まず土佐郡一宮の土佐神社を見てみましょう。
 ここは旧国幣中社の名社で、土佐最初の国造小立足尼の祖先一言主神を祀っています。
土佐神社祭神
土佐神社の祭神は、一言主神

 社伝では、雄略天皇が大和の葛城山で狩をした時に、一言主神が神異を顕わした(大王家と同格の振る舞いを行った?)ために、この地に移し祀った(流刑?)と伝えます。土佐郡には葛木男神社、葛木眸神社の両式内社がありますが、どちらも葛城山の伝承と結びつけられています。土佐に移住した加茂氏や葛城氏の一族布氏が、祖神を祀ったものと研究者は考えているようです。

土佐神社2

 ここからは、熊野・吉野(大峰)と並ぶ本山派修験の中心的な修行道場である葛城の神々が早い時点から土佐に祭られていたことが分かります。これは、土佐での熊野行者たちの伝播を、助けることになったでしょう。
 古代から聖や修行者が集まった土佐の寺院を挙げて見ると、次のようになります。
①空海が修行窟とされる室戸岬の最御崎寺(東寺)
②最御崎寺の本寺とされる金剛頂寺(西寺)、
③熊野の若一王子宮の神宮寺である長岡郡本宮町寺家の長福寺
④中国の五台山になぞらえられた高知市の五台山竹林寺
⑤修行僧善有によって開かれた安芸郡の妙楽寺
⑥補陀洛渡海信仰とむすびついた足摺岬の金剛福寺
 これらを見てみると室戸岬・足摺岬、その中間に位置する吾川郡秋山村の種間寺など補陀洛渡海の伝承と結びついた寺院が岬や海辺近くにあることに気付きます。室戸岬から足摺岬に到る海岸線は「辺路修行」の道で、後には「四国遍路道」となっていくと研究者は考えています。これに対して、奥地ある寺院や霊山を見ておきましょう。
⑦安芸郡和田に比定される妙楽寺、
⑧香美郡の高板山や石立山、
⑨長岡郡の白髪山、
⑩土佐郡の土佐山の長泉寺
⑪石鎚山系につらなる瓶ヶ森、
⑫高岡郡の横倉山や虚空蔵山、
⑬幡多郡の白皇山や篠山
これらの山々は、現在でも信仰されている霊山です。このように古代土佐の山岳信仰には、次の2種類があると研究者は指摘します。
A 海岸に面した岬や小丘
B 内陸の諸山

1香我美史 若一王子
 
 熊野信仰は、だれがどんなルートでもたらされたのでしょうか。
まず、最初に土佐に勧進された4つの熊野権現を見てみましょう。
①高岡郡越知村の横倉山、
②長岡郡寺内の吾橋庄、
③香美郡の大忍庄、
④幡多郡の伊与木近辺
橫倉宮2
橫倉山
このうち最も早いのは横倉山への勧請で、保安三年(1122)です。
 この熊野権現は横倉山南の本社で、今は北の本社には、吉野の金峰山の蔵王権現が勧請されています。つまり、横倉山は最初に真言系修験者がやってきて、吉野金峰山の蔵王権現を祀り、その後に熊野修験者がやってきて熊野権現を祀ったということになるようです。横倉山については、複雑なので、また別の機会に触れたいと思います。先を急ぎます。

豊楽寺 大豊町寺内
長岡郡寺内(大豊町) 豊楽寺は熊野信仰の拠点

 吉野川の大歩危の上流に位置する長岡郡寺内にあった吾橋庄は、のちに熊野権現領となります。
 この庄の長徳寺に伝わる平安末期の安元二年(1176)十二月三日付の文書には、次のように記されています。

「土佐国庁、北条吾橋山、奉免長徳寺 并王子殿四至内……」

ここからは、12世紀の吾橋庄に熊野王子社が勧請されていたことがわかります。そして、このエリアの熊野信仰拡大の拠点となっていくのが、国宝の薬師堂を持つ豊楽寺です。

豊楽寺 大豊町寺内2
豊楽寺の薬師堂

 土佐における熊野権現社領の代表的なものは大忍荘ですが、そこに勧進された熊野権現神です。

若一王子宮1 香南市
若一王子宮(香南市)

 村上永源上人が紀州熊野から御厨子を背負ってきて、この地に勧請したと伝えられるのが若一王子宮です。弘安九年(1286)には、禅源が、さらに文保三年(1319)には、その子増源がこの社の別当を務めています。永源上人に供奉して、この地に来た山伏の子孫と称する家が六軒あり、紀州の熊野と同様に鳥喰いの神事を伝えていたそうです。

香南市 若一王子宮1
若一王子宮(香南市)

 同じ頃、南国市の田村庄にも、熊野先達入交源六兵衛沙弥浄円によって若一山東光寺が建立されています。このように土佐への熊野権現の伝播にあたっては、背景に次のようなうかがえます。
①荘園などを媒介とした熊野との社会経済的関係
②熊野聖・山伏・熊野比丘尼などの勧進活動
③それにもとづく師檀関係の成立

次に13世紀から16世紀にかけて、勧進された熊野権現です
①文治二年(1186)平家の家臣大野源太左衛門紀州熊野より新宮を勧請(熊野神社。安芸郡馬路村)
②元亨元年(1321)安田三河守元高、紀州熊野から熊野権現を勧請(熊野神社、安芸郡中山村大字別所宇鍛冶屋敷)
③建武年間(1334~)藤原朝臣長山信濃守信安、神託により熊野より勧請(熊野神社、高岡郡東津野村)
④文亀二年(1502)源重隆、新宮三所権現を再興.
 これよりさき延徳四年(1492)に豊後入道次男が同社別当職となっている(新宮神社、長岡郡十市町)
⑤永正年間(1504)領主隠岐守元国勧請(若一王子宮、吾川郡芳原村)
⑥永正十六年(1519)別当珍光阿闇梨再興、願主は泰氏茂親(本宮神社、土佐郡旭町)
⑦大永五年(1525)大峰先達長泉坊、長徳寺を再興
⑧弘治三年(1557)藤原資重、嫡子弥陀保子丸、二男重家入道沙弥良範か建立(熊野神社、幡多郡山中村)
⑨永禄二年(1559)真福寺権大僧都昌誉法印再建.当初は十二人の山伏が熊野から勧請したという(十二所権現、高岡郡北原村)
⑩永禄四年(1561)長曾我部元親勧請(若一王子、香美郡王子村)
⑪天正年間(1573)蚊居太子楠女勧請(熊野神社、長岡郡新改村)
⑫天正三年(1575)長曾我部元親勧請(熊野神社、長岡郡大篠村)
①②③④⑤⑧⑩⑫は土豪または武将やその関係者による勧請、
⑥⑦⑨は山伏、⑪は熊野比丘尼の勧請と考えられるものです。
吾橋庄のある長岡、大忍庄を持つ香美、横倉山を含む高岡などに熊野権現が増えています。これらの場所が熊野行者の活動拠点であったと推察できます。

 土佐は遊行宗教者や戦いに敗れたり、種々の事情で放浪の生活に入らざるをえなかった人が訪れて定着することが多かった土地です。
行基や弘法の巡錫伝説、『今昔物語』にあげられている醍醐寺の観幸、信濃の猟師であったが発心して出家した工藤大主、さらには重源、一遍、一向なども土佐を訪れています。また、俗聖などが土佐を訪れて、生をおえることも多かったようです。このため、やってきた聖をまつったり、御霊神の類にも遊行者をまつったものが見られます。
  熊野聖・山伏・比丘尼をはじめとする遊行者が、土地の土豪達と結んで熊野権現をはじめとする諸社を勧請するのに、大きな役割をはたしたことがうかがえます。
熊野信仰が広まるにつれて、土佐から熊野に参詣に行く人もでてきたようです。
応永25年(1418)幡多郡の瑳詑山住職が熊野参詣の先達職に任じられています。
永享 9年(1437)香曾我部氏の一族西山氏が、熊野参詣の費用を作るために地頭職を売ったことを示す文書が残っています。
文明十年(1478)十月 熊野那智の御師実報院に伝わる「米良氏諸国檀那帳」には、同院が玉井から土佐・八木氏を檀那として十三貫文で譲り受けたことが記されています。
慶長四年(1599) 熊野那智の潮崎氏は、それまで所持していた土佐国の長曾我部、香曾我部、一条、浅野一門、中村姓、ふく井姓、蓮池姓、きら氏の檀那株を新宮御師方に売却しています。
  このように中世末期には、那智や新宮の御師と土佐や他地域の先達、土佐の土豪を中心とする檀那の三者の関係が成立していたことをしめす文書があります。
  土佐からも先達である熊野行者に導かれて、熊野詣でを行う土豪達がいたのです。先達と檀那の関係は、現在のツアー旅行のツアコンとお客の関係ではありません。先達を師とする「師弟関係」のようなものでした。熊野への長い旅を通じて、強い人間的な信頼関係を先達と檀那は結ぶ事になります。檀那達を熊野へ導いた修験者の社会的な地位は高かったのです。その御礼として、熊野権現を自宅周辺に勧進し、氏神とすることもあったようです。
 近世土佐の修験道は本山派が優位になっていきます。
 研究者によると土佐には、江戸時代の初めには、250人、幕末には150人位の修験者がいたようです。例えば幡多郡では、本山派は中村の龍光院を中心に、聖護院院家の播州の伽耶院に属し、当山派は寺山の南光院に支配されていました。そして龍光院は40人、南光院は20人の修験者をその支配下においていたようです
 しかし、幕末の文久四年(1864)に江戸幕府に出された「霞書大略」には、土佐は伽耶院の「霞」(テリトリー)で、当山派の修験者はいないと報告されています。ここには、真言系当山派の土佐における凋落が進んだことがうかがえます。この背景には、土佐山内藩の本山派保護策と当山派への冷遇策があったようです。そのため、幕末には当山派は土佐藩から一掃されていきます。
 本山派聖護院所蔵の「院家院室末寺修験頭分書上帳」には、近世末期の本山派修験の拠点寺院が各国ごとに記されていますが、土佐に関しては次の通りです。
 直末院   佐川        安楽院    
 準年行事  土佐郡江之口村   明星院    
 準年行事  香美郡香宗土居村  龍蔵院    
 準年行事  安芸郡和倉村    改宝院
    準年行事  幡多郡中村     龍光院  
    準年行事  安芸郡伊尾喜村   寿福院  
    準年行事  吾川郡長浜村    常楽院  
これらが聖護院側から見た土佐の本山派修験の支配層だったようです。