虚空蔵山7

虚空蔵山(こくぞうさん) 675mは土佐市、須崎市、佐川町の境にまたがり、どこからみても形のよく、眺望も素晴らしい山です。こんな山は古代から甘南備(カンナビ)山として崇拝されてきました。
霊山は、死後は死霊として山岳に帰り、清められて祖霊からさらに川神になって帰ってくる山でした。
年間の行事をとって見てると、
正月の初山入り、
山の残雪の形での豊凶うらない、
春さきの田の神迎え、
旱魅の際山上で火を焚いたり、
山上の池から水をもらって帰る雨乞、
盆の時の山登りや山からの祖霊迎え、
秋の田の神送りなど、
主要な年中行事はほとんど甘南備山と関係しています。山やそこにいるとされた神霊は、里人の一生にまた農耕生活に大きな影響を与えてきました。

虚空蔵山9
 山は、里人に稲作に必要な水をもたらす水源地として重視されました。
山から流れる水は飲み水としても、用水としても里人にとって命の源でした。こうしたことから山にいる神を水を授けてくれる水分神として崇める信仰が生まれます。水分神の信仰は、竜神とされることも多く、蛇や竜がその使いとして崇められることもあります。
漁民たちも山の神を航海の安全を守ってくれるものとして信仰しました。
これは山が航海の目標になったからです。中国や琉球への航路の港としてさかえた薩摩の坊津近くの開聞岳は、航海の目標として崇められた山として有名です。この虚空蔵山は「土佐の開聞岳」として、東シナ海を越えた交易ネットワークのひとつの拠点「燈台」の役割を果たしていたのではないかと私は考えています。
虚空像山1
 この山には次のような「徐福伝説」が伝わります。
 その昔、不老長寿の妙薬を求めて、秦の始王帝が日本の国の仙人が住んでいるという、不老長寿の地にある霊山に部下を遣した。暴風雨に遭い土佐の宇佐に漂着した彼らは、この虚空蔵山に登って祈願したが仙人には会えず、携えていた宝を埋めて紀州へ向けて去って行った。その宝は「朝日さす夕日輝く椿のもとにある」と伝えられる

遠い昔の蓬莱山の伝説が「埋められたお宝」と共に今に伝わります。
仏教が伝わる以前は、この山は何と呼ばれていたのか、今になっては知りようもありません。
虚空像山2
古代から霊山として信仰されてきた山に、仏がやって来るとどうなるのか?
この山の三角点のすぐそばに虚空蔵菩薩が祀つられています。虚空蔵山という名前は、弘法大師がこの山に虚空蔵菩薩を祀ったという由来から来ているようです。

それでは虚空像菩薩とは、どんな仏さんだったのでしょうか?
仏教の概説書には、虚空像菩薩は地蔵菩薩とペアの菩薩から説明がはじまります。
地蔵菩薩  大地を表す「地」と「蔵」
虚空蔵菩薩 無限の知恵と慈悲が収まっている蔵(貯蔵庫)
虚空蔵菩薩は、人々の願いを叶えるために、それらを蔵から取り出して与えてくれる、とっても優しい菩薩さまと云ったところです
そして、空海によって中国から密教がもたらされる前から、無限の記憶力を得て、仏の知恵を体得できるという「虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)」の本尊とされるようになります。

虚空蔵菩薩2
神護寺の虚空蔵菩薩
 しかし、虚空蔵菩薩を信仰していたのは、百済からの渡来集団の秦氏のようです。
秦氏の信仰の中から虚空蔵菩薩は、次のように生み出されたと研究者は考えています。
秦氏の妙見信仰・虚空蔵

 鉱山集団の秦氏一族が信仰してきたのが妙見神で、その信仰の中から虚空蔵求菩薩は生まれます。それが修験道の中に取り込まれていきます。こうして虚空蔵菩薩は、吉野山で真言系の山岳修行者が守護仏とされるようになります。虚空蔵菩薩信仰を持った山岳修行者から空海は、虚空蔵求聞持法を学んだことになります。それは当然、秦氏系の僧侶であったことが考えられます。また、伊勢の朝熊山をはじめ当山派の修験者の霊山では本尊を虚空蔵菩薩としている所が多いようです。土佐の霊山は、熊野系の本山派の修験者達によって開かれたところが多いことを前回はお話ししましたが、この山は虚空像菩薩をお祀りしているので真言系当山派の拠点であったことがうかがえます。

虚空蔵菩薩
虚空蔵菩薩
霊山は時代と共にリニューアルされて姿を変えていきます。
 この山の山上一帯には、石鎚神社への鉄鎖、石室の通夜堂、御手洗池、弘法大師の岩屋などがあります。その他、精進ヶ岩、クロウ嶽、神武天皇のいたオオネギ(王が畝に来たの意)、附心の滝など、神と仏のワンダーワールドなお山です。
 山の形は双耳峰なので鉾ヶ峰とも呼ばれ、西峰に石鎚神社、東峰に虚空蔵菩薩が鎮座します。虚空蔵堂は、頂上近い崖下にあって、広い境内には通夜堂、変事があれば必ず揺るぐという大きな揺るぎ石もあります。戸波村史には、本尊は一尺五寸の木立像。文政七年(1824)の棟札あり、伊勢朝熊山より勧請されたといいます。ここにも、当山派の修験者(山伏)達の姿が垣間見れます。

虚空蔵山10

西方峯には、石鎚神社が勧進されています。

これは石鎚信仰が盛んになる近世以後に安置されたようです。土佐の石鎚参拝は、仁淀町の安居渓谷を経て手箱山・丸滝山を経てのルートが一般的でした。このルートを経て、近世末期から近代には、先達に導かれて多くの信者達が、お山開きには参拝に訪れました。そして、信者達は自分たちの地域で石鎚山がよく見える山の山頂に遙拝所を開き、石鎚権現(蔵王権現)を勧進するようになります。この山にもある石鎚神社も、そのような経緯を経ているようです。
虚空像山の石鎚権現2

 虚空蔵山の八合目あたりの平坦地をシオリガ峠と呼びます。
海辺から担ってきた塩を求めて、塩市がここで開かれていたからだとも、戦国時代は草刈場で、その争奪戦のあったところだともいわれています。しかし、名前の由来は、このシオリガ峠が土佐市から佐川方面への主要往還であったことから、道祖神として柴折峠が本来の語意だと研究者は考えているようです。
 縁日は春秋の彼岸中日で春を大祭とし、かつては近郊はもちろん、窪川町・葉山村・室戸方面からの参詣者もあったそうです。麓下の家々は縁者知人を招いての酒宴で賑わったといいます。

虚空像山4
しおりとうげ

 虚空蔵堂では「大世の引き分け」と称する作占いが行われていました。
 紙片に早稲、中稲、晩稲などと記して祈祷・数珠三昧をして、数珠に付着した品種を植付作柄としました。いただいた護符を田畑に立て、また堂床の土を持ち帰り田畑に入れます。こんな慣習からか、お参りした人たちの世間話から稲作が話題となるのは自然で、知り合いになった参拝者の家を、後日訪ねて行き種籾を交換したそうです。このような中から生まれた高知生まれの品種が「虚空蔵」・「福七」だそうです。
 またこの山は、雨乞祈念の場ともされています。里人が「虚空蔵は百姓神、作神、作仏」だというように作神的な性格がうかがえます。これは山上の地蔵信仰と共通するようです。

虚空像山の石鎚権現
 
虚空蔵山の第二の性格は祖霊信仰です
 麓下の集落では旧七月十六日を虚空蔵の夏祭りが行われていました。夕方になると老若男女が山を登り、山頂に立っつと眼下四方に盆のホーカイ火(送り火)が数限りなく揺れてみえたそうです。その揺れる灯り見ながら霊を送ったといいます。
 中腹にある静神部落の明治28年生れのお爺さんは、次のように話していたそうです。

「小さい頃、盆の十三、十四、十五日の夕方には仏さんを迎えに行くと言って、松明をもやし山に登った。十六日は仏を見送るのだといって、松明を持たずに登った」

十六日登山は仏送
であったようです。
この山には、いろいろな風習が他にも伝わっていたようです。
 秋彼岸には彼岸講といい、永野地区では十軒前後で講を作り、その宿元が代参する習慣がありました。その夜は山頂のシキビを手折り持ち帰り、トーヤの床にさし、燈明を燈じ、講組の者が集まって小酒宴を開いたそうです。
 卯月八日にも、頂上で茶をいたくために山に登りました。節分には年替りの日として、一年間の加護の礼と翌年の庇護を願うて登ります。信者であれば一度は命拾いできるといい、彼岸前日から当日にはかつては青年団が登山、キャンプをしていたそうです。これもかつて村人が通夜堂で寵った風習の延長だったのかもしれません。
 ここには仏教以前の霊山への祭礼の形が、見え隠れしているようです。里人が霊山と崇めていた所へ、聖や修験者たちが仏を勧進し、宗教的な重層性を重ねていったことがうかがえます。なお、本堂の虚空蔵仏は丑寅(鬼門)の方に向いて立っているそうです。

虚空蔵山8

参考文献 大山・石鎚と西国修験道所収  高木啓夫     土佐の山岳信仰
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