仁淀川からのぞむ橫倉山
土佐の霊峰といわれる横倉山(774㍍)は高知市の西にあり、安徳天皇御陵参考地とされます。以前に安徳天皇伝説が物部村→香北町→土佐町→本川村→仁淀村→越知町(横倉山)
へと土佐の霊山をつなぐように伝えられている事。このルートを使って宗教活動を行っていたのが、物部いざなぎの修験者達ではなかったのかという仮説をお話ししました。
今回は、その伝説の終着地点(?)の横倉山を見ていきたいと思います。
阿波祖谷より国境尾根を越えて、土佐の物部に入り、物部川と仁淀川沿いに歩くと横倉山にやってきます。安徳帝は、横倉山で正治二年九月八日 二十三で崩御したと伝えられます。
橫倉山
この山の祭祀遺跡は、安徳帝行在所説に付会されること多く、山号ミタケ山も御嶽と表記されています。まず、安徳帝以前の山の様子を見ておきましょう。 安徳帝以前から修験の山であったとするのが「八幡荘伝承記」で、次のように記します。
土佐国司惟宗朝臣永厚の子康弘の次男経基は、この一帯で別府の氏姓を称して勢力を拡大していた。経基は大昆羅祖蔵権現を尊び山伏修行をしていた。天暦八年六月別府荘奥山谷深く登りつつ本尊を鎮座すべく決心した。そして家人為右衛門及び喜全坊を、大和へ上らせ、自らも大昆羅坊・山律坊と称した。そして山頂で天神の詔を聞いたのである。天神は「みだりにこの山には人誰も入るものでなく、吾ただいま降りて天地の礼法を伝ふ」として祭地と祭神を告げる。
そこで、次のように神仏を祀った
①桜に柏の木の森があって、日向の滝と称する東の嶽には、大日大乗不動明王・紀国日前大明神を②檜の森があって日室の滝と称する中央(南)には、紀国日像神とて天照大神の荒御魂の分霊・本尊大日如来を③水無滝のある西嶽には阿波の人津御魂神・大田氏神・薬師如来をこれら三滝大権現、三滝三聖大権現を祀ったのは天徳元年十二月であった。
ここには、ミタキ山は三嶽山と表記し、横倉山祭祀の始まりと伝えます。11世紀半ばに修験道関係の仏が祀られ、修行の場となったと言うのです。今は、本宮西方の住吉社のある嶽を黒嶽とよんでいます。しかし「御嶽神社記」には
「黒嶽に安徳帝の念持仏の不動像と鏡を納めた」
と黒嶽の名が出てきます。どちらにしても、これが「三嶽勧請伝承」です。ここからは安徳天皇が葬られたとする時代よりも2世紀ほど早い時点で、この山は修験者達によって開かれていたことになります。
横倉山のことを金峯山とも呼びます。
吉野の金峯山は空海が修行した霊山です。また、醍醐寺を開いた聖宝も金峰山で修行しました。吉野は弥勒にはじまる法相宗の道場でしたから末法思想が盛んになると、その奥の金峰山は弥勒下生の地とされるようになります。そして藤原道長など貴族の間で御岳詣が盛んに行われます。道長は、修験で知られた観修に祈祷をさせてもいます。
金峰山には、金剛蔵王権現がまつられました。
これが平安末になると、金剛蔵王権現を役小角が金峰山上の岩から導き出したと神格とする信仰を生み出します。こうして、金峰山には山上・安禅・山下の蔵王堂、石蔵寺・一乗寺などの寺院が建立され、白河上皇・堀河上皇・鳥羽上皇らが御幸するようになります。
後には、この山で修行した修験者達が各地に散らばり、霊山を開き蔵王権現を祀るようになります。横倉山も、吉野金剛山で修行を積んだ修験者が、大きな影響力を持った時代があったようです。そのために、この山も金峰山と呼ばれるようになったのでしょう。それを資料的に見ておきましょう。「土陽淵岳誌」延享三年(一七四六)に
里人曰く権現尤霊験アリテ 怒ヲ発スレハ山必鳴ルト云 曰自古伝ヘテ 此山二金石ヲ伏ス 金気抑彭シテ外へ発セサレハ 則震動雷ノ如シト云ヘリ
と「金石ヲ伏ス 金気抑彭」と金峯山についての伝承があります。
文政八年(1825)「横倉山考証記」には、金峯山御岩屋御宝殿と記した各棟札が以下のように伝えられています。
文明十六年(一四八四)横倉蔵王権現宮天正十一年(一五八三)ざわうごんげん(=蔵王権現)元禄十七年(一七〇四)社家改記録に「蔵王権現神体大小五但シ唐金」「唐金ノ如ク 鏡ナル像ヲ鋳タル」
と蔵王権現像が作られた事が記されています。
「文明十四年(1482)別府十二社権現宮 三嶽山総山焼はげとなりたる時焼失し 新宮建立、同十六年大和国金峯山権現を勧請」
ここからは、横倉山に金峯山蔵王権現がやって来たのは天明16年(1484)で、そのきっかけは、2年前の「焼はげ=大火」の原因を占った結果「金峯山を勧請すべき」と出たからのようです。
祭神は安徳天皇、本殿は春日造り、拝殿は流れ造りです。由緒は正治二年(1200)八月八日、安徳天皇は二十三歳で山の上の行宮で亡くなられ、鞠ヶ奈路に葬られた。同年九月八日、平知盛が玉室大神宮とあがめて横倉山頂に神殿を建てて祭る。歴代領主が崇拝し、しばしば社殿の修改築をした。現在の建物は明治30年(1897)頃の改築で、以前は横倉権現と言ったが、明治4年に御嶽神社と改め、昭和24年(1949)12月二十三日天皇崩御七百五十年祭の時に横倉宮と改められた。
ここには安徳天皇以前のことには、触れられていません。そして、安徳帝を祀る神社が安置された事からスタートします。ちなみに安徳天皇を12世紀の時点で祀った事は、残された根本文書には何も記されていないことになります。そして最後に、明治の神仏分離に触れています。ここからは蔵王権現は、明治の神仏分離によって安徳天皇を祀る神社に「変身=リニューアル」されたことが分かります。もともとは、橫倉宮には蔵王権現が祀られていたのです。
「歴史の重層性」を、改めて思い知らされます。そして、明治以後の神道界では金峯山という名前も、避けられるようになり横倉山が「正式名称」となったようです。
「歴史の重層性」を、改めて思い知らされます。そして、明治以後の神道界では金峯山という名前も、避けられるようになり横倉山が「正式名称」となったようです。
横倉神社(下宮)
麓にある横倉神社(下宮)を見てみましょう。
下宮は南北社二つあり、北社を金峯神社と称していました。明治の神仏分離後に、横倉神社と改称し、明治14年に南社の横倉大権現を合祀して現在に至っています。文禄四年の「金峯山御岩屋御宝殿」棟札は、頂上本宮にあったものですが、この棟札からは、この頃までは横倉山を金峯山と呼んでいたことが分かります。
麓にある横倉神社(下宮)を見てみましょう。
下宮は南北社二つあり、北社を金峯神社と称していました。明治の神仏分離後に、横倉神社と改称し、明治14年に南社の横倉大権現を合祀して現在に至っています。文禄四年の「金峯山御岩屋御宝殿」棟札は、頂上本宮にあったものですが、この棟札からは、この頃までは横倉山を金峯山と呼んでいたことが分かります。
吉野金剛山寺の蔵王権現
山上の本宮が鎮座する崖下の岩屋からは、古銭や興矢根などが多く発見されています。ここからは、金峯山信仰と密接な関係があったことがうかがえます。さらに、ここには檜材一木造の「木造蔵王権現立像」(高さ55㎝)が今に伝えられています。蔵王像は全国的にも珍しいもので、県下では唯一のものです。研究者は次のように評します。
「その表情も力強い忿怒の表現を見せ、古拙ではあるが形制よりして藤原時代に遡るもので、平安末修験道造像の古例として注目されている」
(高知県文化財調査報告書11集・文化庁文部技官倉田文作氏)と評する逸品です。この蔵王像は、横倉山の金峯山信仰が古くからあったことを示します。
橫倉宮
残されたその他の修験関係の遺品としては、次のようなものがあります。①蔵王権現の本地仏である釈迦如来を表現した銅板線刻如来鏡像(平安後期作)②蔵王権現立像と一連の天部形立像・男神倚座像・騎馬神像③線刻地蔵菩薩鏡像(大平神社蔵)④懸仏9面(鎌倉時代~南北朝時代)
⑤修験の行場に置かれた鉄剣(鎌倉時代)⑥中国宋の湖州鏡(大平神社蔵)⑦経塚関係の遺物として経筒(平安後期~鎌倉時代)⑧経筒の外容器の陶器、副納品の土器
これらを見ても、安徳天皇伝説につらなるものはないようです。
蔵王権現に遅れて勧進されたのが熊野権現です。「八幡荘伝承記」には、次のように記します。
別府氏十代高盛は延暦寺に詣で仏事を修し、嘉承二年(1107)帰国、坊名を然天坊崇真と号す。永久二年(1114)二月紀州熊野宮に参詣し権現尊勧請、四月末帰国し仮の宮を造り納め、保延三年(1137七)吾川山荘高峰別院(現黒森山という)に安置した。
「高吾北文化史」には治承三年(1179)蓮池家綱が建立した別府十二社権現と、熊野権現とが文安元年(1444)に合祭されて横倉山大権現宮と改称したと記します。
以上から横倉山には、三嶽大権現、熊野権現、金峯山蔵王権現が順番に勧進され安置されていたことが分かります。
年代記銘がある最古のものは保安三年(1122)の経筒です。これを、基準に前後の事項を、資料から拾い年代順にまとめてみます。
天暦九年(955)経基家人為右衛門・喜全坊を大和へ天徳元年(959)東西中の三嶽に神仏勧請、三嶽大権現と称す永久二年(1114)高盛が熊野に詣り、熊野権現勧請仮宮に奉置保安三年(1122)本宮に経筒を奉ず保延三年(1217)熊野権現吾川山荘高峰別院に納む(黒森山)治承三年(1179)蓮池家 綱別府十二社権現を三嶽山に建立文治元年(1185)安徳帝横倉山へ正治二年(1200)安徳帝崩御文安元年(1444)別府十二社権現、高峰別院熊野権現とを合祭文明十四年(1482)三嶽山焼け別府十二社権現焼失文明十六年(1484)大和金峯山権現勧請天正三年(1575) 別府山延命院横倉寺建立
この年表からは安徳帝以前から横倉山は、信仰の山で修験者の活動拠点であったことが改めて分かります。そこへ吉野の金峰山の蔵王権現、ついて熊野権現が勧請されたのです。
橫倉山の平家穴
しかし、いつのころからかこの山から修験者の姿は消え、安徳天皇伝説が急速に広がり始めます。それでは横倉山で修験者が活動したのは、いつ頃までだったのでしょうか?
源平の争い、南北朝時代など中世は戦乱が相続き、人々が不安におののいた時代でした。そんな時に、験力を看板にした修験者は宗教界のみでなく、政界にも大きな影響を与えます。さらに修験者は山中の地理にくわしく、敏捷だったこともあって武力集団としても重視されます。源義経が熊野水軍を、南朝が吉野の修験を、戦国武将が間諜として修験者を用いたのは、こうした彼らの力に頼ろうとしたからなのでしょう。土佐も同様で、修験者の活躍できる機会がいろいろな方面に広がっていました。長宗我部元親も修験者達を側近に用いて、情報収集や外交、教育などのブレーンとして活用していた事が知られています。
かむと獄石鎚神社
江戸時代に入ると、幕府は修験道法度を定め、修験者を次のどちらかに所属登録させます。
①聖護院の統轄する本山派(熊野)②醍醐の三宝院が統轄する当山派(吉野)
そして、両者を競合させる政策をとります。この結果、諸藩でこの両派の勢力争いが起きるようになります。土佐では山内藩の保護を受けたのは本山派でした。そして、保護を失った当山派は幕末には土佐から姿を消す事になります。
また幕府は、修験者が各地を遊行することを禁じ、彼らを地域社会に定住させようとしました。こうして修験者達は全国の行場を渡り歩く事が出来なくなります。各派の寺院に所属登録され、村や街に根付いた修験者は、それぞれの地域の人々によって崇拝されている山岳で修行したり、神社の別当となってその祭を主催するようになるのです。そして、村々の加持祈祷や符呪など、いろいろな呪術宗教的な活動を行うようになります。
以下は私の仮説です。
このような中で大きな打撃を受けたのが物部いざなぎ流の修験者たちではなかったでしょうか。
安徳天皇伝説が伝わる
「 阿波祖谷の剣山 → 物部の高板山 → 土佐横倉山 」
は、いざなぎ流修験道の活動ルートであり、
物部村→香北町→土佐町→本川村→仁淀村→越知町のルート
はいざなぎ流の太夫たちの活動領域ではないのかという仮説を最初にお話ししました。
この仮説の上に立つと江戸幕府の修験道法度は、修験者の各地遊行を禁止するものでした。この結果、物部修験者の活動は大きな制約を受けたはずです。それまで、頻繁に行き来していた物部と横倉の修験道ルートが閉鎖されたとすれば、横倉山の修験道の衰退は理解できます。
橫倉山からの展望 左が仁淀川
この山は、江戸時代には、山内家・家老深尾家の祈願所として、その命脈は保ちます。がこの山が修験の山であったことは忘れられていきます。 明治の神仏分離で、このお山は大きく姿を変えたのはお話ししました。
明治五年、政府は権現信仰を中心とし淫祠をあずかるとして修験道を廃止します。そして修験者を聖護院や三宝院の両本山に所属したままで天台・真言の僧侶としました。その際に還俗したり、神官になった修験者も少なくなかったようです。全国各地の修験者が依拠した諸山の社寺でも、神社に主導権をにぎられていきます。こうして教団としての修験道は姿を消します。
国家神道のもとでこの山は、安徳天皇伝説で染め上げられていく事になります。
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