これは今から約120年ほど前の大興寺の伽藍図です。
日露戦争直前の明治末にあたる時代で、神仏分離を経た境内の姿が描かれています。これを見ると中央に本堂、本堂から見て右に大師堂、左に天台堂があります。大師堂前には茶堂、手洗が、天台堂前には地蔵菩薩立像、鐘楼が描かれています。
日露戦争直前の明治末にあたる時代で、神仏分離を経た境内の姿が描かれています。これを見ると中央に本堂、本堂から見て右に大師堂、左に天台堂があります。大師堂前には茶堂、手洗が、天台堂前には地蔵菩薩立像、鐘楼が描かれています。
さらに左に客殿、庫裡などの建物があります。伽藍配置は、本堂と大師堂、天台堂が横一線に並び、前側に茶堂、手洗、鐘楼が並んでいます。階段を下ると右側に護摩堂があり、左側は竹藪です。また、仁王門前の境内外には地蔵堂が描かれています。
この明治35年の絵図と現在の大興寺境内の建物配置は、基本的には同じことが分かります。この百年間は伽藍配置は大きく変わっていないようです。ただ現在は茶堂、護摩堂、地蔵堂がなくなっています。例えば、現在の仁王門の川の向こう側に立っていらっしゃる地蔵さまは、この絵図の右下地蔵堂にあったものかも知れません。
私が、気になるは本堂の左の社です。
明治の神仏分離の跡なので、境内の外にあるようにも見えますが、この社が熊野権現です。鳥居があるのが分かります。この社は熊野権現が勧進されもので、その別当寺を勤めていたのが大興寺だったことは前回にお話ししたとおりです。そういう意味では、この寺の原点はこの熊野権現の社であったともいえます。それは、蔵王権現の本地仏が薬師如来で、このお寺の本尊として祀られていることからも分かります。推測を交えて言うのなら、かつては熊野権現は北面して鎮座し、それに仕えるように北へ延びる参道の西側に本堂や太子堂・天台堂が並んでいたとも考えられます。
一番上の段に鎮座する熊野神社
戦国から近世、そして神仏分離後の近代までのこのお寺の伽藍配置を今回は見ていきたいと思います。
中世の大興寺は、往時真言24坊、天台12坊の合計36坊が萱を連ね、真言天台二宗が兼学したという珍しい性格のお寺として隆盛を極めたと伝えられていますが、資料的な裏付けはありません。しかし、現在の大興寺境内にはは本堂に向って左側に弘法大師堂があり、右側には天台宗第三祖の智顎を祀る天台大師堂が並んであります。また、研究者は
「本尊脇侍が不動明王と毘沙門天と天台様式であり、真言天台二宗の兼学の名残を留めている」
そして報告書は、太興寺の伽藍変遷を追いかけます。
頼りにする史料は、棟札と紀行文です
頼りにする史料は、棟札と紀行文です
①慶長2年(1597)の棟札には
「願主 泉上坊 乗林坊 慶長二丁酉歳九月八日」「諸堂大破 而瑕(仮)堂建立」
とあります。ここからは末寺の「泉上坊」と「乗林坊」が願主となり、生駒家が讃岐領主になって世情が安定した時期に「仮堂」を建立したことが分かります。
②僧澄禅によって書かれた『四国遍路日記』(承応2年(1653)には
ちなみに澄禅は、荒廃していた周辺の霊場を次のよう挙げています。( )内は霊場番号
出釈迦山(我拝師山、十三番出釈迦寺=曼荼羅寺の奧の院)が「吹崩」崇徳天皇(白峯宮、現在の七十九番高照院天皇寺はが「退転」大窪寺(八十八番、)が「本坊ばかり」
金蔵寺(七十六番金倉寺)や道隆寺(七十七番)は「昔は七堂伽藍」として衰微したことをにおわせてはいますが、「荒廃」しているとは書いていません。ここからは、讃岐の霊場が土佐や伊予などに比べると、領主の保護政策によって戦乱からの復興が早かった事が分かります。
その中でも大興寺は、復興が遅れたようで「小庵」と記されています。つまり、この寺は領主の保護寄進を受けるようなランクの寺ではなかったことを物語ります。
この報告書には
この報告書には
「慶長2年(1597)~承応2年(1653)までの56年間大興寺は、諸堂が大破した後、主要な建物として仮の本堂「薬師」のみの小庵のような状態であった」
と述べます。
「遺跡略記」には、
「今の薬師堂(本堂)建立は寛文九己酉年、塩飽島において、奉加の力を得、二間半四方建立成就せしものなり」
さらに「今の御影堂は寛文十一辛亥年二間四方、真価、自分建立す」とあり、薬師堂(本堂)建立に続いて2年後の寛文11年(1671)に御影堂が建立されたようです。
以上をまとめると次のようになります。
慶長2年(1597)~寛文8年(1668) 瑕(仮)堂(小庵)寛文9年(1669)~寛文10年(1670) 薬師堂(本堂)建立寛文11年(1671) 御影堂建立
元禄年間を前に、世の中が落ち着くにつれて、薬師堂(本堂)と御影堂が建ち並ぶ伽藍配置に復興していったことが分かります。しかし、そのレイアウト配置については報告書は「不明」とします。
それから16年後に、この寺を参拝した僧真念の『四国辺路道指南』(貞享4年(1687))には、
「六十七番小松尾山東向き。豊田郡辻村。本尊薬師 坐長二尺五寸、大師御作」
と記すのみです。ここには薬師堂(本堂)・御影堂など、諸堂についての記述はありません。本堂についてのみ、今と同じ「東むき」の建物配置であったことが分かります。
さらに2年後に、僧寂本によって書かれた『四国徊礼霊場記』(元禄2年(1689)には
「小松尾山大興寺、此寺大師弘仁十三年に開聞し玉ふとなり。そのかみは七堂伽藍の所、いまに堂塔の礎石あり。其隆なりし時は、台密二教講学の練衆蝗のごとく群をなせりとなん。豊田郡小松尾の邑に寺あるが故に、小松尾寺ともよび、山号とするかし。本尊薬師如来、脇士不動毘沙門立像長四尺、皆大大師の御作。十二神各長三尺二寸、湛慶作なり。本堂の右に鎮守熊野権現の祠、左に大師の御影堂、大師の像堪慶作なり。天台大師の御影あり、醍醐勝覚の裏書あり。大興寺とある額あり、従三位藤原朝臣経朝文永四丁卯歳七月廿二日丁未書之、如此うら書あり。是経朝は世尊寺家也、行成八世の孫ときこゆ。むかしのさかえし事をおもひやる。ちかき比まで宝塔・鐘楼ありとなり。」
この挿絵を見ながら内容を確認していきます。
①弘法大師開祖で、かつては七堂伽藍の大寺でいまに礎石が残る
①弘法大師開祖で、かつては七堂伽藍の大寺でいまに礎石が残る
②隆盛を極めた時代には、台密二教(天台・真言)の学徒が蝗(いなご)のごとく群をなして、この寺にやってきて学んだ=学問寺であった。
③本堂の右(本堂に向って左側)に鎮守熊野権現の祠、
④本堂は左(本堂に向って右側)に御影堂と並んで建っていた。
⑤別当寺の本興寺は本堂の下の段にあった
伽藍配置は、現在と変わっていない事が挿図からも分かります。ただし、仁王門はありません。
次に、110年後の『四国遍礼名所図会』(寛政12年1800)を見てみましょう。
当院も大師の御建立也。本尊薬師、脇士仏各大師の御作なり。詠歌 植おきし小松尾寺をながむれば法のおしえの風ぞふきける本堂本尊薬師如来坐像、脇士不動明王御長四尺、毘沙門天各大師御作、十二神御長三尺弐寸、湛慶の作、相生の松本堂の前に有、大師堂本堂より石だん下り、仁王門。」
①本堂右(本堂に向って左側)に鎮守熊野権現の社が一段高い所にあります。
②本堂(薬師堂)には薬師の脇士として不動明王と毘沙門天が祀られます。これは、修験道系の山岳信仰の寺院に共通することです。ここからは、このお寺が「山伏寺」的な性格を持っていた事がうかがえます。
③本堂左(本堂に向って右側)には建物が描かれていません。今まであった大師堂は石段を下り、右に描かれています。
④参道の左側には入母屋造の建物と茅葺の細長い建物が描かれています。
⑦表記や挿図から、仁王門、鐘楼、茶堂が確認することができます。
最後にQUESTION?
大興寺は、いつ、誰の手によって現在地に移動してきたのでしょうか?
大興寺は、いつ、誰の手によって現在地に移動してきたのでしょうか?
これについては、既に示した史料から推察する事が出来ます。
①慶長2年(1597)の棟札の「願主 泉上坊 乗林坊 慶長二丁酉歳九月八日」「諸堂大破而瑕 (仮)堂建立」とありました。ここからは「諸堂大破した後に瑕堂を建立」したことが記されています。そして、その願主は末寺の「泉上坊」と「乗林坊」です。
②前回示した周辺に残る古い地名で「泉上坊」がどこにあったかを探すと、それは大興寺の現在地周辺にあります。
「移転」を行った「泉上坊」と「乗林坊」とはどんな性格の宗教者だったのでしょうか?
さらに推測を重ねますが、それを考える材料は
①「近世の太興寺が萩原寺の末寺に属し、現在は真言宗善通寺派に属していること」
②「雲辺寺との関係の深さ」
です。ここからは、真言系密教寺院の色合いが感じられます。「泉上坊」と「乗林坊」は、修験者のお寺だったと私は考えています。同時期に象頭山で金比羅を勧進して、金毘羅大権現を生み出していったような修験者がここにもいたのかもしれません。
①「近世の太興寺が萩原寺の末寺に属し、現在は真言宗善通寺派に属していること」
②「雲辺寺との関係の深さ」
です。ここからは、真言系密教寺院の色合いが感じられます。「泉上坊」と「乗林坊」は、修験者のお寺だったと私は考えています。同時期に象頭山で金比羅を勧進して、金毘羅大権現を生み出していったような修験者がここにもいたのかもしれません。
最後に、このお寺の伽藍配置の変遷を推察して終わりとします
①熊野行者によって勧進された熊野権現が一番高い所に社として祀られた。
②熊野権現の本地仏である薬師如来をまつる薬師堂が本堂として、一段下の壇に建立された。
③本堂両脇に弘法大師と天台宗の御影堂が並んだ
④さらに一段下に、別当寺である太興寺があった。
⑤さらにその一段下の小川に石橋が架けられ仁王門が姿を現した。
⑥一段下にあった大興寺が本堂の北側に庫裡と共に移動した
⑦仁王門前に地蔵堂が建立された。
以上、長い間、お付き合いいただいてありがとうございました。
次回は伽藍配置の変遷を、残された木札、石造物から確認して行きたいと思います。
参考文献 香川県「四国霊場第67番太興寺調査報告書」2014年
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