前回までは、大興寺の歴史や伽藍変遷について見てきました。今回は、報告書を見ながら実際に諸堂を廻ってみたいと思います。その前に「復習」しておくと
①太興寺は白鳳期の古代寺院からスタートしている②中世期は、熊野権現の別当寺として修験者達の拠点でもあった③戦国期に衰退し、江戸時代になって現在地に移転してきて伽藍整備が進んだ④それを勧めたのは現在の房号となっている山伏寺の泉上坊である。⑤よって、建造物は江戸時代後期のものがほとんどである。⑥仏像も近世以後のものが多いが一部平安期に遡るものもある。
まず駐車場から下りて迎えてくれるのは仁王門です。
この仁王門には棟札が残されていて、寛政8年(1796)に再興されたことがわかります。報告書には、その特徴を次のように指摘します。
「建物の各様式は、江戸時代中夜期の特徴をよく現し、後期の装飾性の高い建物への移行を検討する指標になる建物]
「禅宗様を多分に取り入れた折衷様式が18世紀以降盛んに使われて定形化していく過程の位置基準」
仁王門前には寛政元年(1789)の銘のある石造物に、
「再興 仁王尊像井門修覆為廻国中供養」とあり、仁王門の修覆記念碑と考えられます。
ここからはこの仁王門が、寛政元年に長崎廻国の大助が中心となり、仁王門の修覆に取り掛かり、8年後の寛政8年に完成したとものと考えることができます。全国を廻国する勧進者のネットワークの力で二百年以上前に建立されたもののようです。
ここからはこの仁王門が、寛政元年に長崎廻国の大助が中心となり、仁王門の修覆に取り掛かり、8年後の寛政8年に完成したとものと考えることができます。全国を廻国する勧進者のネットワークの力で二百年以上前に建立されたもののようです。
仁王門の阿吽の金剛力士像に、御挨拶します。報告書には次のように紹介されています
力感にあふれた写実的な造形は、鎌倉時代中ごろの制作とみられよう。本像にみる塊量性の強さは、当代に流行した慶派風の引き締まった体躯の力士像とは異質であり、やや古風な趣きのあることが指摘されよう。寛政2年(1790)に彩色がなされ、門の修理がなされたことは木札2と門前の石碑から知られ、肥前長崎の安藤大助が本願主とする廻国行者たちの助力によるものであった。現状は彩色がほとんど剥落しているが、吽形の鼻孔内には朱彩が残る。
つまり、この仁王さん達は、大興寺が現在地にやって来る前の古い伽藍にあった仏達ということになります。戦火の中で仁王門は焼かれても、僧侶達によって運び出され隠されていたのかもしれません。「古風な趣」の仁王さんと評されていますが、確かにボデービルダーのような筋肉隆々感はありません。そして、作られた鎌倉時代には朱で彩られていたようです。
仁王門をくぐると正面に三段の石段が迎えてくれます。
報告書は、この石段についても「調査」しています。その石段にお付き合いします。仁王門から真っ直ぐに本堂に登って行く上図の黒く塗られた部分が凝灰岩が用いられている石段です。3つの石段の内、下段と上段が凝灰岩製の切石、中段が花岡岩の切石を使用していようです。下段の凝灰岩は、よく見ると風化が進み、ひび割れたりすり減ったりして、歴史を感じさせてくれます。
さて、ここから専門家の分析を聞いてみましょうです。
この石段に使用されている凝灰岩には、
小豆島の西の豊島(てしま)で産出される「豊島石」と
三豊と仲多度の境にまたがる天霧山で切り出された「天霧石」
の2種類が確認できる。この2種類の石材の特徴は、
「豊島石」が「含有する黒っぽい安山岩が均質で、長石を含む」「天霧石」が「含有する灰色っぽい安山岩が不均質で、長石が少なく、火山灰が多い」特徴を持つ。この特徴から、石段を詳細にみると、下段は左側に砂岩製の耳石を確認するが、ほとんどが「豊島石」であることが解る。また、上段は左右に「豊島石」の縁石及び耳石を確認するが、これ以外は「天霧石」であることが解る。県内の石塔などの石造物に使用する石材として、「豊島石」は15世紀後半から使用が確認でき、以降多用される。一方、「天霧石」は鎌倉中・後期からの使用が確認でき、17世紀に盛行することが確認されている。 大興寺の石段も当初は「豊島石」を使用していたが、のちに「天霧石」を使用したことが伺われる。
つまり、大興寺で諸堂が相次いで建立され、伽藍整備が進んだ17世紀後半に、ちょうど「豊島石」「天霧石」が石造物に多用されていると指摘します。この下段と上段の石段の整備は、本堂・大師堂の建立に伴い、境内の整備の一環として、構築されたものと研究者は考えています。
大興寺境内では、この他にも、次のような所に凝灰岩の切石が使われています
仁王門の基壇前面の縁石弘法大師堂の基壇右側の縁石天台大師堂の基壇前面の縁石庫裡門の基壇前後の縁石
の4ヶ所で、これらは全て「豊島石」の凝灰岩です。この4ヶ所以外は、花崗岩の切石を使用されています。
報告書では、さらに話を進めて花崗岩の切石で境内を整備した時期がいつなのか探ります。
棟札からは寛保元年(1741)に本堂を再建、天保15年(1844)に屋根の修復を行ったことが分かります。江戸時代後半のこの時期に、風化した凝灰岩に替えて、花岡岩の切石で補修したと研究者は考えているようです。
何気なく踏んで歩いている石段にまで、研究者は「調査研究」の視線を注いでいるようです。あらためて二百年ほど前に、瀬戸内海の島で切り出され、ここまで運ばれてきた石段の上を歩いているのだと、言い聞かせながら石段を登って行きます。
石段の下の段を上って辺りを見回して欲しいのです。このあたりは平地になっています。
前回見てもらった僧寂本によって書かれた『四国徊礼霊場記』(元禄2年(1689)の太興寺です。この平地に、この時点では大興寺があったことが分かります。また、太子堂や天台堂がここに下りてきた時期もありました。今は何もなくなって参道のみとなっています。
階段を登り切ると正面に本堂が迎えてくれます。
○本堂は、以下のような建立・改修を経てきた事が残された史料から分かります。
慶長2年(1597)に仮堂を建立して以来、承応2年(1653)を経て、寛文9年(1669)に本堂を建立し、寛保元年(1741)に、薬師堂(本堂)が再建天保15年(1844)に屋根の修復
しかし、調査報告書は「寛保元年(1741)の、薬師堂(本堂)再建説」に「異議あり!」として、次のような見解を示します。
本堂の細部の様式をみると、寛政8年(1789)に再建された仁王門の頭貫や大斗の木鼻と酷似しており、安直に寛保再建を肯定することはできない。天保棟札にあるように、屋根勾配の緩い箇所や、日当たりの悪い面の修理が行われたこと、同時に仁王門や鐘楼堂の瓦修理も行われたこと、さらに江戸後期の瓦の品質があまり良くないことを考慮すると天保15年の50~60年前に再建されたものと考えられる。
つまり、仁王門の修理と同じ時期の寛政8年(1789)に再建説を唱え、再建時期を50年遅らせるべきだとしています。どちらにしても、約四百年前の仮堂建立から現在まで、本堂の位置はほとんど動いてないようです。
報告書は本堂の総合所見を次のように述べます
内部については、内陣・後陣境の組物等に改修の痕跡がある。(中略)中央来迎壁上部の天女の彫刻が江戸末期のものと推測できることから、弘法大師堂が建設された慶応元年頃に大きな改造が行われたと考える。平面形式では、一正面柱間は中央間から外へ柱間を落とし、側面は正面一間通りを礼堂的な外陣、内竃部分二間は床を上げて、建具で仕切り、柱間を外陣よりやや広くしている。後陣は外部からは半丸柱で二間とするが、内部は一間扱いとなり、外観上は五間堂であるが、梁間の空間は四間と考えられることから、密教建築の流れといえなくもない。どういった意図でこの平面計画としたかは定かではないが、興味深いところである。当本堂は、県下でも数少ない五間堂の遺構で、内部空間の扱いも密教系仏堂の流れがあり、内陣廻に改造がみられるものの、細部の様式も含め近世後期の特徴ある建物の一つに数えることができる。
次の3ポイントを頭の中に入れておきます
①江戸末期の弘法大師堂建設の際に、大きな改造が行われている②内部空間に密教的な流れが感じられる③五間堂は県下でも数少ない近世後期本堂である
さていよいよ本尊様にお会いしたいのですが・・・
薬師如来坐像が本尊です。報告書の所見を読みます
(前略)右肩部から先の腕部は別材を寄せ、腹前で膝前部の横一材を寄せ付ける。左手首は体亙に差し込み、薬壷を掌上に置く。現状の仕上げは体部金泥衣部漆箔かとみられるが、仔細に観察すると大衣部には赤みが感じられるので、朱彩色の名残りとすれば、当初は朱衣金体像であった可能性がある。本像の造形は肩張り緩やかに肥痩なく均整良くまとめられ、全体に彫りの抑揚は少なく穏やかなで優美な印象が強い。この作風は平安時代に流行した、いわゆる定朝様に範をとったものといえる。等身で像ながら割り首としない一木割矧造の技量や、また、頭体の一材共木観をも伝えるものとしても興味深い作例といえる。定朝様は、平安時代中後期において全国的に風廊するが、木像面部にみる瞼の柔かな盛り上がり方や眼嵩の特徴ある窪み、あるいは豊かに張る頬の様子や整えられた衣文などからすれば、その制作年代は定朝活躍の時期に近い11世紀中後半ころかと推測される。
この寺にある仏像は、平安時代3点、鎌倉時代4点、室町時代1点、江戸時代29点で、金銅製の神仏習合時代の懸仏中尊1点以外は、すべて木彫と報告書は記します。
なぜ、お薬師さんがこの寺の本尊なのでしょうか?
それは、まずここには熊野権現が勧進され、熊野神社が鎮座したからです。
神仏習合の時代には、熊野権現の本地仏は薬師さまでした。そこで熊野権現を勧進した行者は、この地の有力者の保護を受けつつ、熊野神社を建立し、別当寺として太興寺を建て、社僧として別当職を勤めるようになったというのが私の想像です。この仏も仁王さまと同じく戦果を逃れて、太興寺がここに遷た以後は、この本堂に秘仏として座っていらっしゃるのでしょう。
観音坐像の脇士として、両脇に立っているのが毘沙門天と不動明王です
不動明王立像は両眼開目して、
牙上出し、巻毛、頂蓮をつける。右手を垂下して剣を執り、左手は屈劈して絹索を握る。着衣の彫りは浅く、忿怒相も控えめであり、制作は平安時代後期期とみられるものである。
現状では後世の修理を受けて粗い彫り口を呈する状態にあるが、頭部天冠台に遺された、列弁の内側に花弁型の飾りをあしらう形式は、平安時後期の特徴的な意匠であり、本像の制作年代を示しているものとみられよう。中尊の左右に不動明王と毘沙門天天像を配する形式は、比叡山横川の観音堂に起源するとされるが、薬師如来が朱、衣金体であることころと併せて尊像構成も天台の系譜をひくものかと推測される。
本尊の薬師さんを、修験者の守護神である不動さんと毘沙門さんがお守りするというのも、いかにも密教修験者の寺らしい取り合わせだと思います。
報告書が気にしているのは「正面外陣に安置される地蔵菩薩立像」のようです。
ほぼ等身大の地蔵さまについて次のように記します作風と構造から江戸時代中ごろ以降とみられる。外陣に安置されることは客仏である可能性が高く、旧所在が不明なのは大いに不審である。像高からしてあるいは中世に所在した旧大興寺の本尊であった可能性もあるのではなかろうか。
以上、本堂まで見てきましたが今回はここまで
最後までお付き合いいただいてありがとうございました。
参考文献 香川県「四国霊場第67番太興寺調査報告書」2014年
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