17世紀半ばに澄禅が残した『四国辺路日記』は、四国遍路の最古の資料のようです。
まずは澄禅という人物について、見ていきましょう。
澄禅(1613-1680)は、江戸時代の初期に生まれて元禄を前に68歳で亡くなっています。その期間は大坂夏の陣の辺りから、天下泰平の元禄の手前の当たります。彼は肥後国球磨郡の人で、20歳頃に京都智積院の学寮に入り仏道修行を積みます。一時、肥後に里に帰り地蔵院を継ぎますが、太守の接待や檀家とのやりとりなどにストレスを感じ「煩わし」として、ひそかに郷里を逃れます。そして学業に精進する道を選びます。ここからは、世事に疎く名利を厭う、彼の生き方がうかがえます。
澄禅の種子字
再び上洛したて澄禅は、梵語学の研究に打ち込みます。そして、刷毛書梵字の祖といわれるまでになり、『悉曇愚紗』2巻をはじめ多くの著作を残しています。また、僧侶階層でも門下数千と伝えられる運敞能化の高弟、智積院第一座もつとめていたようです。ここからは、彼が中央でも名が知れた学僧であったことが分かります。
そのような中、澄禅は智積院第一座(学頭)の地位にありながら四国巡礼に旅立って行きます。
41歳のことでした。そして、1653年7月18日から10月28日までの100日間にわたる詳細な遍路紀行を残します。
この日記は、宮城県の塩竃神社の文庫の中から写本が発見されました。その巻末に、徳田氏が正徳4年(1714)に写して「右八洛東智積院ノ中雪ノ寮、知等庵主悔焉房澄禅大徳ノ日記也」と書き加えられています。ここからこの日記が、澄禅のこした「四国巡礼日記」であることがわかります。またこの日記の写本奉納記朱印等から、もともとは江戸期の古書収集家村井古巌の収書中にあったものが、実弟の忠著によって、天明6年(1786)冬に塩竃神社に奉納されたことがわかります。
41歳のことでした。そして、1653年7月18日から10月28日までの100日間にわたる詳細な遍路紀行を残します。
この日記は、宮城県の塩竃神社の文庫の中から写本が発見されました。その巻末に、徳田氏が正徳4年(1714)に写して「右八洛東智積院ノ中雪ノ寮、知等庵主悔焉房澄禅大徳ノ日記也」と書き加えられています。ここからこの日記が、澄禅のこした「四国巡礼日記」であることがわかります。またこの日記の写本奉納記朱印等から、もともとは江戸期の古書収集家村井古巌の収書中にあったものが、実弟の忠著によって、天明6年(1786)冬に塩竃神社に奉納されたことがわかります。
この日記は、澄禅という当時としては最高レベルの学識豊かな真言僧によって書かれています。そして伝来も確認できる一級史料のようです。そのため研究者は
「内容もまた豊富で、四国遍路記の白眉とも言うべく、江戸時代前期の四国遍路に実態を最もよく伝えるのみならず、関連部門の史料としても価値のあるもの」
と評価しています。
この日記を読んでいるといろいろな気になる事が出てきます。
17世紀半ばの霊場の姿が、どんなものだったのかに焦点をあてて見ていきます。
高野山を7月18日に出発して、和歌山から淡路島を平癒して、24日に徳島の持明院(現廃寺、跡に常慶院滝薬師)に到着しています。そこで、四国遍路の廻り手形を受け取ると共に、霊山寺(一番)から回るより井土(戸)寺(十七番)からスタートした方が良いとのアドヴァイスをもらっています。
澄禅は、真言宗の高僧でしたから各地の真言寺院からの特別な「保護や支援」を受けていることが分かります。当時の一般の一般遍路衆と比べると、比較にならい好条件だったようです。城下町の持明院に泊り四国遍路の手形を受け、いろいろな情報を受けています。宿泊だけでなく、大師御影像の開帳や、霊宝類の拝観といった面にも、特別の配慮に預かったことが分かります。
それでは巡礼第1日目に訪れた霊場の姿を見てみましょう。
澄禅の遍路は徳島市から始まっていますが、先ほど見たように回る順番は持明院のアドバイスを聞いて、一番霊山寺からでなく、井土寺(十七番井戸寺)から打ち始めています。井戸寺までは、伊予街道(国道192号とほぼ並行)を行ったようです。
17番 井土寺
17番 井土寺
堂舎悉(コトゴト)ク退転シテ昔ノ(礎)ノミ残リ、二間四面ノ草堂在、是本堂也。本尊薬師如来也。寺ハクズ家浅マシキ躰也。住持ノ僧ノ無礼野鄙ナル様難述言語。
堂舎悉(コトゴト)ク退転とあります。【退転】を広辞苑で調べてみます。
〔仏〕修行して得た境地を失って、低い境地に転落すること。
澄禅は「退転」を、この意味で使っているようです。
昔の礎石だけが残り、小さな草葺きのお堂が本堂であり、そこに薬師如来が安置されている。寺は荒れ果て、住職は「無礼野卑で言語に尽くしがたし」と記します。真言宗のエリート学僧である澄禅の怒りをかうような事件が起きたのかも知れません。この記録には住職に関する記述も記されていますので注意しながら見ていくことにします。
最初に訪れた霊場がこの様でした。彼にとってはショックだったかも知れません。昔の礎石があるので、それなりに歴史のあったお寺だったようです。しかし、
「寺ハクズ(屑家 浅マシキ躰(体)」だったのです。
最初に訪れた霊場がこの様でした。彼にとってはショックだったかも知れません。昔の礎石があるので、それなりに歴史のあったお寺だったようです。しかし、
「寺ハクズ(屑家 浅マシキ躰(体)」だったのです。
本尊千手観音 是モ悉ク退転ス。少(ママ)キ 草堂ノ軒端 朽落テ棟柱傾タル在、是其形斗也。昔ノ寺ノ旧跡ト見ヘテ 畠ノ中ニ大ナル石共ナラ(並)へテ在、所ノ者ニ問エハ イツ比より様ニ成シヤラン、シカト不存、堂ハ百性(姓)共談合シテ 時々修理ヲ仕ヨシ。
ここもことごとく「退転」状態です。小さな草葺堂の軒は朽ち落ちて柱も傾いています。昔の寺の跡らしき礎石が畑の中に並んでいます。近くにいた人に聞いても「いつ頃からこんな状態になったのか分からない、お堂は百姓たちと相談して、時々修理している」とのこと。そして、住職については何も記しません。記されていないのは、基本的に無住で住職がいないということのようです。 巡礼を初めて2つの霊場を訪れた結果がこれです。
本尊薬師、少キ草堂是モ梁棟朽落テ 仏像モ尊躰不具也。昔ノ堂ノ跡ト見ヘテ六七間四面三尺余ノ石トモナラヘテ在、哀ナル躰也。
かつての国分寺も、小さなお堂の梁や軒が朽ち果てています。仏像も壊れ、手足がありません。昔の堂跡を見ると、大きな礎石が並んでいるのが哀れになってくると記します。
14番 常楽寺、
本尊弥勒菩薩 是モ少(小)キ草堂也。
ここまで来ると口数も少なくなるように記述も少なくなってきます。ここも小さなお堂に弥勒菩薩が座っています。無住で住職はおらず、荒れ寺であったようです。35年後の『四国偏礼霊場記』にも
「其他坊舎の跡皆あり、今茅堂の傍、一庵あり。人ある事をしらず」
13番一ノ宮(大日寺)
松竹ノ茂タル中ニ東向ニ立玉(給)ヘリ、前ニ五間斗(ばかり)ノソリ橋在リ、拝殿ハ左右三間宛也。殿閣結講也。本地十一面観音也。
一ノ宮とありますが、阿波一宮は大麻山にありますので、村の一宮です。その一宮の別当寺が大日寺だったようです。ここではじめて「殿閣結構」と、まともな伽藍が出てきます。
澄禅から30年後の寂本『四国徧禮霊場記』(1689年)でも、
常楽寺は「茅堂の傍一菴」国分寺は「小堂一宇」観音寺は「堂舎廃毀」などと
荒れた様子が記されています。
現在の国分寺のように、古い礎石が本堂の周囲に並ぶ風景が、どの寺にも見えたのです。傾き架けた本堂と呼ぶにはあまりに小さな草庵に本尊だけが安置され、住職もいない姿だったようです。
現在の国分寺のように、古い礎石が本堂の周囲に並ぶ風景が、どの寺にも見えたのです。傾き架けた本堂と呼ぶにはあまりに小さな草庵に本尊だけが安置され、住職もいない姿だったようです。
なぜ、この寺だけが伽藍が整っていたのでしょうか?
それは一宮神社の別当寺であったことが考えられます。檀家を持たず寺領も失った霊場が荒れたままで放置された状態にあったのに対して、神仏習合下では神社の別当寺にたいしては村人達は信仰を捧げ、伽藍を維持したのではないかと私は考えています。
初日に廻った5ケ寺の内、四ヶ寺までが「退転」状態でした。一日が終わって、宿に入ったときに、澄禅はどんな思いでいたのでしょうか。ある意味、呆然としたのではないでしょうか?。
初日に廻った5ケ寺の内、四ヶ寺までが「退転」状態でした。一日が終わって、宿に入ったときに、澄禅はどんな思いでいたのでしょうか。ある意味、呆然としたのではないでしょうか?。
翌日7月26日 遍路2日目の澄禅を追いかけます。
本堂東向本尊薬師如来 地景尤殊勝也。二王門朽ウセテ礎ノミ残リ、寺楼ノ跡、本堂ノ礎モ残テ所々ニ見タリ。今ノ堂ハ三間四面ノ草堂也。二天二菩薩十二神二王ナトノ像、朽ル堂ノ隅ニ山ノ如クニ積置タリ。庭ノ傍ニ容膝斗ノ小庵在、其内より法師形ノ者一人出テ 仏像修理ノ勧進ヲ云、各奉加ス。
本堂は東向きで本尊は薬師如来、ロケーションは素晴らしい。仁王門は朽ちて礎石だけが残る。鐘楼や本堂の礎石も所々に残っている。残った本堂の隅に二天・菩薩・十二神将・仁王などの仏像の破片が山のように積んである。朽ちるままに放置してきたので、廃屋がつぶれるように、このお寺もつぶれてしまった。庭の隅に小さな庵があり、そこから一人の禅僧あるいは山伏がやってきて、この仏像だけでも復興したいという。訪れた人たちが勧進していた。
泰平の時代になって半世紀が経っていますが、藤井寺に復興の兆しはささやかなものでした。法師が一人のみで小庵に住んで、この寺を守っていたようです。
それから35年後に書かれた『四国偏礼霊場記』では、禅僧がいて堂も禅宗風に造られていると記しています。この間に復興が進んだようです。禅僧による復興ということは、雲水修行の間に無住の堂に留守居に入って、信者を獲得して復興したのかもしれません。そうすると、その寺は禅宗になります。
藤井寺から遍路転がしと言われる急坂を登って山上の焼山寺へ向かいます。
12番 焼山寺
本堂五間四面東向本尊虚空蔵菩薩也。イカニモ昔シ立也。古ハ瓦ニテフキケルカ縁ノ下ニ古キ瓦在、棟札文字消テ何代ニ修造シタリトモ不知、堂ノ右ノ傍ニ御影堂在、鎮守ハ熊野権現也。鐘モ鐘楼モ退転シタリシヲ 先師法印慶安三年ニ再興セラレタル由、鐘ノ銘ニ見ヘタリ、當院主ハ廿二三成僧ナリ。
本堂五間四面で、本尊は虚空蔵菩薩である。いかにも古風な造りである。昔はかわらぶきの屋根であったらしく、縁の下には古い瓦が置いてある。棟札は文字が消えて、いつ修理したのかも分からない。お堂の右に御影堂があり、守護神は熊野権現だ。鐘も鐘楼もなくなっていたのを、先代法師が再興したことが鐘の銘から分かる。今の院主は若い僧である。
ここからは本堂と御影堂、そして復興された鐘楼の3つの建造物があったことが分かります。本堂は、かつては瓦葺だったようですが、この時は萱葺きになっていたようです。
大道より右ノ谷エ入事五町斗ニシテ 二王門在リ、夫より二町斗リ行テ寺在、寺より右坂ヲ一町斗上テ本堂ニ至ル。本堂南向本尊薬師如来、右ノ方ニ御影堂在、其傍五輪ノ石塔ノコケムシタル在、此ハ大師ノ御母儀ノ御石塔也。地景殊勝ナル霊地也。寺ハ真言宗也。坊主ハ留主也。
立江寺
本堂東向本尊地蔵菩薩、寺ハ西向、坊主ハ出世無学ノ僧ナレトモ 世間利発ニシテ冨貴第一也。堂モ寺モ破損シタルヲ此僧再興セラレシト也。堂寺ノ躰誠ニ無能サウ也。
住職は無学だが「世間利発で富貴第一」と記します。真言宗のエリート僧侶である澄禅から見ればそう見えたのでしょう。しかし、壊れていた堂や寺を再興させた手腕はなかなかだと、その経営手腕を認めているように思えます。故郷のお寺の経営に嫌気がさして飛び出した彼には、できない芸当だったかもしれません。どちらにしても、独力で復興の道をたどっていたのがこの寺のようです。
鶴林寺
山号霊鷲山本堂南向 本尊ハ大師一刀三礼ノ御作ノ地蔵ノ像也。高サ壱尺八九寸後光御板失タリ、像ノム子ニ疵在リ。堂ノ東ノ方ニ 御影堂在リ、鎮守ノ社在、鐘楼モ在、寺ハ靏林寺ト云。寺主ハ上人也。寺領百石、寺家六万在リ。
山号捨身山本堂南向 本尊虚空蔵菩薩、宝塔・御影堂・求聞持堂・鐘楼 鎮守ノ社大伽藍所也。古木回巌寺楼ノ景天下無双ノ霊地也。寺領百石六坊在リ。寺主上人礼儀丁寧也。
大龍寺も鶴林寺と共に山上に大きな伽藍を持ち、兵火にも会わなかったようです。そしてここも百石という寺領を与えられています。焼山寺との格差が、どうしてつけられたのか気になるところです。
平等寺
平等寺
本堂南向二間四面本尊薬師如来、寺ハ在家様也 坊主□□ 。
平等寺は「在家のよう」と記され、お堂やその他については何も記されていません。
薬王寺
本尊薬師本堂南向。先年焔上ノ後再興スル 人無フシテ今ニコヤ(小屋)カケ也。
二王門焼テ 二(仁)王ハ 本堂ノコヤノ内ニ在、寺モ南向 是ハ再興在テ結構成。
この寺は火災にあったばかりで、再興途上にあったようです。仁王門は焼けて仁王像は、本堂の中の仮小屋に保存してある。庫裡は再興が終わっていたようです。
一方、恩山寺、鶴林寺、太龍寺は寺観が整っているような様子が伝わって来ます。薬王寺は火災で仮設の本堂であることが記されていますが、庫裏は再興されていたようです。
本堂南向本尊三如来、二王門鐘樓在、寺ハ妻帯ノ山伏住持セリ。
切幡寺は、本堂・仁王門と鐘楼は残っていたようです。そして、住職は妻帯の山伏だったと記します。修験者が誰もいなくなった霊場に留まり、住職化していく姿はこの時代の自国霊場にはよくあったようです。ここでも山伏と遍路の関係が垣間見れるようです。
9番 法輪寺
9番 法輪寺
本尊三如来、堂舎寺院悉退転シテ小キ草堂ノミ在リ。
三如来とは「釈迦・弥陀・薬師」の3つの如来のことのようです。ここも「小キ草堂」で住職はいません。
8番 熊谷寺
普明山本堂南向本尊千手観音、春日大明神ノ御作ト云。像形四十二臂ノ上ニ又千手有リ、普通ノ像ニ相違セリ。昔ハ當寺繁昌ノ時ハ佛前ニテ法花(法華)ノ千部ヲ読誦シテ 其上ニテ開帳シケルト也。近年ハ衰微シテ毎年開帳スル也 ト住持ノ僧開帳セラル拝之。内陣ニ大師御筆草字ノ額在リ、熊谷寺ト在リ、誠ニ裏ハ朽タリ。二王門在リ、二王ハ是モ大師御作ナリ。
このお寺では、法華千部読誦による開帳が行われていたようです。これを何年かに一度やっていたけれども、毎年やらないと、とても寺が維持できないというので毎年開帳していた記されます。
7番 十楽寺
是モ悉ク退転ス。堂モ形斗、本尊阿弥陁如来 御首シ斗在リ。(7)
「堂モ形斗」とあるので、形ばかりのお堂のようです。本尊の阿弥陀如来は「御首斗在リ」とありますので、首のところしかなかったようです。現在の十楽寺には立派な本尊さんがありますから、よそから古いものをいただいてきたということになるようです。ここからは、仏像もあっちこっちに移動していることが分かります。
ちなみに、三十五年ほど後の『四国偏礼雲場記』には、このお寺はかなり復興して立派だと記されています。澄禅の時代は戦乱が収まっても、まだ遍路をするような十分な余裕がなかったようです。それが元禄年間が近づいてくると、遍路も多くなり、復興も軌道に乗り始めてきたことが分かります。
6番 安楽寺、
駅路山浄土院本尊薬師如来、寺主有リ。
5番 地蔵寺
無尽山荘厳院、本堂南向本尊地蔵菩薩、寺ハ二町斗東ニ有リ。當寺ハ阿州半国ノ法燈ナリ。昔ハ門中ニ三千坊在リ、今モ七十余ケ寺在ル也。本堂護摩堂各殿 庭前ノ掛リ高大廣博ナル様也。當住持慈悲深重ニテ善根興隆ノ志尤モ深シ。寺領ハ少分ナレトモ天性ノ福力ニテ自由ノ躰也。(5)
4番 黒谷寺、
本尊大日如来、堂舎悉零落シタルヲ當所ニ大冨貴ノ俗有リ 杢兵衛ト云、此仁ハ無二ノ信心者ニテ近年再興シテ堂ヲ結構ニシタルト也。
3番 金泉寺、
本堂南向本尊寺三如来ト云トモ 釈迦ノ像斗在リ、寺ハ住持在リ。(3)
本堂東向本尊阿弥陁、寺ハ退転シテ小庵ニ 堂守ノ禅門在リ。(2)
ここも退転して小庵に堂守の禅宗僧侶が住み着いていたようです。阿弥陀さまと禅僧の取り合わせを研究者は次のように考えているようです。
「禅門というと禅僧のように聞こえますが、実は雲水系の放浪者です。中世には雲水のかたちをした放浪者がたいへん多くて、たとえば放下という者が念仏踊をして歩きました。本来は「ホウゲ」ですが、遊行者としては放下あるいは放下僧と呼んでいます。こういう僧が放浪しながら回っていって、住みよいところがあるとそこに定住したのです。(中略))『四国偏礼霊場記』によると、「いつの比よりか、禅門の人住せり」とあるので、本来は阿弥陀堂であったところに禅門が住んでいたようです。ここはそういう小さなお堂が霊場となった例で、その都度、希望者が堂守りとして住み込んでいます。このように雲水が、本堂と庫裡を建てて住職をすれば禅宗寺院になったはずです。ところが、札所は大師信仰ですから、現在は高野山言言宗に属する言言宗の寺院となっています。
1番 霊山寺、
本堂南向本尊釈迦如来、寺ニハ僧在。
阿波の二十三の霊場中の十二か寺が「退転」状態で、無住の寺もあります。
なぜこんなに荒れていたのでしょうか?
その理由として考えられるのが戦国時代の被災でしょう。土佐の長宗我部元親による天正(1573~92)の兵火で焼失したことが考えられます。寺伝等によると、霊山寺、極楽寺、地蔵寺、安楽寺、十楽寺、法輪寺、藤井寺、大日寺(一ノ宮)、常楽寺、国分寺、観音寺、井戸寺、恩山寺、立江寺、太龍寺、平等寺の十六か寺が被災しています 。吉野川下流域は長宗我部侵入時と、秀吉軍の侵入期の2度に渡って戦場となりました。特に、澄禅が最初に回った井戸寺から一ノ宮にかけては、四国征圧の命を受けて、侵入してきた羽柴秀長との一宮城の攻防(1585)で主戦場になったあたりになります。この地域にあった寺の被害は甚大だったことが想像できます。
江戸時代なって戦乱が収まって、半世紀たっていますがほとんどの寺が放置されたままで復興がすすんでいない状態です。また、寺により復興がすすんでいる立江寺や黒谷寺は「民間資本の導入」という形で進められていたようで、この辺りがお隣の讃岐とは違うところです。
讃岐は、戦国末に秀吉から支配を任された生駒氏が保護政策を行い、格式を持つと考えられた寺社に寺領を寄進し、復興を援助していきます。その保護政策を、後からやって来る領主達も踏襲した結果、戦乱からの復興が早かったようです。阿波は、蜂須賀家の「復援助計画」がなく、この時点では「放置」されたようです。
さて、土佐の状態はどうだったのでしょうか。それはまた次回にするとして・・・
もう一つは、寺のあり方です。
古代に国家によって作られた国分寺は、中世にはほとんどが荒廃します。
国家が面倒をみなくなると維持できないのです。例えば、奈良の元興寺は南都七大寺随一といわれたお寺ですが、国家が面倒をみなくなって、室町時代に一揆によって本堂が焼かれてしまうともう復興できません。江戸時代まで残った塔も雷火で焼けてしまいました。同じように、権力者なり町豪なりが一人で建てたお寺も、大檀那が死んだり、その家が没落したりすると、どうなるか。それは廃藩置県後の各藩の菩提寺の姿を見れば分かります。
国家が面倒をみなくなると維持できないのです。例えば、奈良の元興寺は南都七大寺随一といわれたお寺ですが、国家が面倒をみなくなって、室町時代に一揆によって本堂が焼かれてしまうともう復興できません。江戸時代まで残った塔も雷火で焼けてしまいました。同じように、権力者なり町豪なりが一人で建てたお寺も、大檀那が死んだり、その家が没落したりすると、どうなるか。それは廃藩置県後の各藩の菩提寺の姿を見れば分かります。
つまり、檀家が組織されず、地域の人々の支援も受けられな寺は、復興の道が開けなかったのでしょう。その点、近世に「道場」を中心に寺が組織された浄土真宗の信徒には、「我々のお寺」という意識が信徒に強く、焼け落ちたまま放置される寺はなかったようです。これが近世はじめの四国霊場の姿のようです。
もうひとつ私が感じることは、中世の辺路修行の拠点としての機能が霊場からなくなっていることです。
もうひとつ私が感じることは、中世の辺路修行の拠点としての機能が霊場からなくなっていることです。
澄禅は真言高僧ですが密教系の修験者ではありません。そのために行場を廻って行道をした気配はありません。行場である奧の院を訪れた様子も見られません。ある意味、現在の霊場巡りと一緒で、お寺を廻っているのです。ここからはプロの修験者が修行のために行場をめぐるという中世的な雰囲気はなくなっています。澄禅の後からは、四国巡礼を行う高野山の僧侶が何人も現れ案内書が出され、道しるべも整備されていきます。そして、それに導かれて素人の遍路達が四国巡礼を歩むようになるのが元禄年間のです。その機運にのって、霊場は復興していくようです
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