考古学の発掘調査報告書は読んでいて、私にとってはあまり楽しいものではありません。その学問特性から「モノ」の描写ばかりだからです。そのモノが何を語るのか、そこから何が推察できるのかを報告書の中では発掘者は語りません。それが考古学者の立ち位置なのだから仕方ないのでしょう。だから素人の私が読んでも「それで何が分かったの?」と聞きたくなる事が往々にしてあります。
そんな中で図書館で出会ったのが「善通寺史」です。
この本は善通寺創建1200年記念事業として総本山善通寺から出版されたものですが、書き手が地元の研究者で、今までの発掘の中で分かったことと、そこから推察できる事をきちんと書き込んでいます。「善通寺史」の古代編を読みながら「古代善通寺王国」について確認しながら、膨らましたし想像やら、妄想やらを記したいと思います。
この本は善通寺創建1200年記念事業として総本山善通寺から出版されたものですが、書き手が地元の研究者で、今までの発掘の中で分かったことと、そこから推察できる事をきちんと書き込んでいます。「善通寺史」の古代編を読みながら「古代善通寺王国」について確認しながら、膨らましたし想像やら、妄想やらを記したいと思います。
まず丸亀平野における稲作の開始です
丸亀平野の中でも、善通寺市付近は、稲作に適した条件を満たしていたようで、弥生時代に大きく発展した場所のひとつです。漢書地理志の「分かれて百余国をなす」と記された百余りの国のひとつだったかも知れないと近頃は思うようになりました。
丸亀平野の中でも、善通寺市付近は、稲作に適した条件を満たしていたようで、弥生時代に大きく発展した場所のひとつです。漢書地理志の「分かれて百余国をなす」と記された百余りの国のひとつだったかも知れないと近頃は思うようになりました。
丸亀平野で稲作を始めた弥生時代前期の遺跡としては
①丸亀市の中ノ池遺跡、②善通寺市の五条遺跡③善通寺市から仲多度郡にかけて広がる三井遺跡
などが平野の中央に散らばる形で、多数の集落遺跡が知られています。私は、これらが成長・発展し連合体を形成して、善通寺王国へ統合されていくものと考えていたのですが、どうもそうではないようです。この本の著者は次のように述べます。
「それらの集落遺跡はその後は存続せず、弥生時代中期になると人々の生活の拠点は現在の善通寺市の低丘陵丘陵部に集まり始める」
弥生前期の集落の多くは長続きせず、消えていくようです。その中で、継続していくの旧練兵場遺跡群のようです。この辺りは看護学校・養護学校・大人と子どもの病院の建設のために、発掘が毎年のように繰り返された場所です。その都度、厚い報告書が出されていますが、目を通しても分からない事の方が多くてお手上げ状態です。そのような中で「善通寺史」は、この遺跡に対して、次のような見方を示してくれます
旧練兵場跡出土の大型土器
もともとの「旧練兵場」の範囲は「国立病院+農事試験場」です。そのため今までは「旧練兵場遺跡」と呼ばれてきました。しかし、
「近接した同時期の遺跡すべてをあわせて、旧練兵場遺跡群」
と呼んではどうかというのです。つまり、周辺の遺跡を含め範囲を広げて、トータルに考えるべきだというのです。確かに、報告書の細部を見ていても素人には分からないのです。もっと巨視的に、俯瞰的に見ていく必用があるようです。それでは、発掘順に遺跡群見て行く事にしましょう。
1984年発掘 遺跡群西端の彼ノ宗遺跡
この遺跡群の中で最初に発掘されたエリアです。弥生時代中期から後期にかけての40棟以上の竪穴住居と小児壷棺墓一五基、無数の柱穴と土坑群がみつかり、その上に古墳時代の掘建柱建物跡二棟とそれに伴う水路が出てきました。また二重の周溝をもつ多角形墳の基底部など夥しい生活の痕跡が確認されています。ここからは、弥生から古墳時代にまで連続的に、この地に集落が営まれており、人口密度も高かったことが分かります。
入れ墨を施した人の顔
1985年発掘 彼ノ宗遺跡から東に約500m程の仙遊町遺跡
ここは宮川うどんから仙遊寺にあたるエリアで、ここからは弥生時代後期の箱式石棺と小児壷棺墓三基が発見されています。このエリアは「旧練兵場遺跡内の墓域」と考えられているようです。また、箱式石棺の石材には、線刻された入れ墨を施した人の顔の絵がありました。
『魏志倭人伝』には、倭国の入れ墨には「地域差」があったことが記されています。香川や岡山、愛知で発見されている入れ墨の顔は、よく似ています。また入れ墨石材の発掘場所が墓や井戸、集落の境界など「特異な場所」であることから入れ墨のある顔は、一般的な倭人の顔ではなく特別な力を持ったシャーマン(呪い師)の顔を描いたものではないかと考えられています。香川・岡山・愛知を結ぶシャーマンのつながりがあったのでしょうか?
『魏志倭人伝』には、倭国の入れ墨には「地域差」があったことが記されています。香川や岡山、愛知で発見されている入れ墨の顔は、よく似ています。また入れ墨石材の発掘場所が墓や井戸、集落の境界など「特異な場所」であることから入れ墨のある顔は、一般的な倭人の顔ではなく特別な力を持ったシャーマン(呪い師)の顔を描いたものではないかと考えられています。香川・岡山・愛知を結ぶシャーマンのつながりがあったのでしょうか?
もうひとつ明らかになってきたのは、多度津方面に広がる平野にも数多くの集落遺跡が散在することです。
1987年発掘 旧練兵場遺跡群から北方五〇〇mの九頭神遺跡、
弥生時代中期から後期頃の竪穴住居や小児壷棺墓・箱式石棺墓等が確認されました。
九頭神遺跡から東には稲木・石川遺跡が広がります。ここでも弥生時代から古墳時代にかけての竪穴住居群や墓地、中世の建物跡などが多数確認されました。さらに、中村遺跡・乾遺跡など多数の遺跡が確認されています。
これらの集落遺跡に共通するのは「旧地形上の河道と河道の間に形成された微高地」に立地すること、そして「同時期に並び立っていた」ことです。また、そのなかには周囲に環濠を廻らせたムラも登場しています。 このように同時並立していた周辺のムラ(集落遺跡)も含めてとらえようとすると「旧練兵場遺跡群」という呼び方になるようです。
このうち善通寺病院地区とされる微高地の 1つ では南北約 400m、 東西約 150mの範囲において中期中葉か ら終末期までの竪穴住居跡 209棟 、掘立柱建物跡 75棟、櫓状建物跡 3棟、布掘建物跡 4棟、貯蔵穴跡、土器棺墓などを検出している。他の微高地 も同程度の規模 を持つため、本遺跡が県内でも最大級の集落跡であるといえる。そうしてこれ らの遺構群は、まとまりごとに見られる属性の違いか ら機能分化が指摘 されている。また出土遺物にも銅鐸、銅鏃、銅鏡などの青銅器、鉄器、他地域か らの搬入土器など特殊なものが数多く見られる。「旧練兵場遺跡群」(10と 近接する遺跡 (稲木遺跡、九頭神遺跡、今回報告す る永井北遺跡など)の関係については 「大規模な旧練兵場遺跡を中心 として、小規模な集落が周辺に散在する景観を復元できる」 とされ、本遺跡の周辺地域で集中して出土する青銅器を継続して入手 した中心的な拠点であつたことも指摘 されている。こうした様相から地域の中核をなす遺跡 と位置づけられている。
この遺跡が弥生時代の讃岐における最大集落であり、他地域との活発な交流・交易が行われていたようで、その中から威信財である青銅器も「継続して入手」していたと記します。
この拠点集落が祭器として使用した青銅器について見ておきましょう。 善通寺市内から出土した青銅器の代表的なものは、次の通りです。
①与北山の陣山遺跡で平形銅剣三口、②大麻山北麓の瓦谷遺跡で平形銅剣二口・細形銅剣五口・中細形銅鉾一口の計八口、③我拝師山遺跡からは平形銅剣五口・銅鐸一口、北原シンネバエ遺跡で銅鐸一口
など、数多くの青銅器が出土しています。
こうしてみると香川県内の青銅器の大半は善通寺市内からの出土であることが分かります。善通寺の讃岐における重要さがここからもうかがえます。青銅器が出土した遺跡は、善通寺から西に連なる五岳の丘陵部にあたります。これらの青銅器は、旧練兵場遺跡群や周辺部のムラが所有していたものが埋められたものでしょう。
こうしてみると香川県内の青銅器の大半は善通寺市内からの出土であることが分かります。善通寺の讃岐における重要さがここからもうかがえます。青銅器が出土した遺跡は、善通寺から西に連なる五岳の丘陵部にあたります。これらの青銅器は、旧練兵場遺跡群や周辺部のムラが所有していたものが埋められたものでしょう。
九州や大和の遺跡でも、青銅器は大きな集落遺跡の近くから出てきます。このことから善通寺周辺のムラが、祭礼に用いた青銅器を、霊山とする五岳の山々の麓に埋めたと考えられます。この時点ではムラに優劣関係はなく並立的連合的なムラ連合であったようです。それが次第にムラの間に階層性が生まれ、ムラの長を何人も束ねる「首長」が出現してくるようになります。
こうしたリーダーは3世紀後半になると、首長として古墳に埋葬されるようになり、大和を中心とする前方後円墳祭祀グループに参加していきます。
首長の館跡などは、まだ善通寺周辺では見つかっていません。「子どもと大人の病院」周辺は、新築のたびに発掘調査が進みました。しかし、その東側には広大な農事試験場の畑が続きます。この辺りが善通寺王国の首長の館跡かなと期待を込めて私はながめています。
卑弥呼が亡くなった後の三世紀末頃に、首長墓は前方後円墳に統一されていきます。
墓制の統一は、これまで多くのクニに分かれていた日本が、前方後円墳に関わる祭礼を通じて、ひとつの統一国家となったことを示していると研究者は考えているようです。敢えて呼び名をつけるなら「前方後円墳国家の出現」と言えるのかも知れません。善通寺周辺部でも、三世紀後半に旧練兵場遺跡群を中心に飛躍的な発展があったようです。
旧練兵場遺跡
それを大麻山に作られた埋葬施設の変化から見てみましょう。 古代人には「祖先神は天孫降臨で霊山に降り立ち、死後はその霊山に帰り御霊となる」という死生観があったといわれます。大麻山は、祖先神の降り立った霊山で、自分たちもあの山に霊として帰り子孫を見守る祖霊となると考えていた人たちがいたようです。大麻山中腹では、卑弥呼と同時代のものと思われる弥生時代後期末頃の箱式石棺墓群が三〇基以上も確認されています。この中には、積石を伴うものや副葬品として彷製内行花文鏡がおさめられたものもあります。
有岡大池から仰ぎ見る大麻山
大麻山を霊山と仰ぎ見て、そこに墓域を設定したのはだれでしょうか。
それは旧練兵場遺跡の首長たちだったようです。彼らが霊山と仰ぐ大麻山に、箱式石棺墓を造り始め、最終的には野田野院古墳へとグレードアップしていきます。
善通寺の前方後円墳群は、野田院古墳がスタートです。
それに先行するのが、弥生時代の箱式石棺墓になります。この間には大きな差異があります。社会的な大きな転換があったこともうかがえます。しかし、その母胎となった集落はやはり旧練兵場遺跡であったことを押さえておきます。
それに先行するのが、弥生時代の箱式石棺墓になります。この間には大きな差異があります。社会的な大きな転換があったこともうかがえます。しかし、その母胎となった集落はやはり旧練兵場遺跡であったことを押さえておきます。
大麻山8合目の野田院古墳 向こうは善通寺五岳
いよいよ野田院古墳の登場です。
改めて、その特徴をまとめておきましょう
いよいよ野田院古墳の登場です。
改めて、その特徴をまとめておきましょう
①大麻山北西麓(標高四〇五m)のテラス状平坦部という全国的にも有数の高所に立地する②丸亀平野では最古級の前方後円墳である。③前方部は盛土、後円部は積み石で構築されている。
野田院古墳は、特別史跡の指定に向けて発掘調査が行われました。
その調査結果は、研究者も驚くほど高度な土木技術によって古墳が造られていたことを明らかにしました。「傾斜地に巨大な石の構造物を構築する際に、基礎部を特殊な構造に組み上げていることで、変形や崩落を防いでいる」と報告書は述べます。
「古代善通寺王国」では、稲木遺跡で弥生時代後期末頃の集石墓群が確認されているようです。しかし、
「小規模な集石墓が突然に、大麻山の高い山の上に移動して、構築技術を飛躍的に進化させて野田院古墳に発展巨大化した」
というのは「技術進化の法則」では、認められません。
類似物を探すと、海の向こうです。朝鮮半島ではこの頃、高句麗で数多くの積石塚が作られています。研究者は、善通寺の積石塚との間に共通点があることを指摘します。渡来説の方が有力視されているようです。
野田院古墳
野田院古墳の首長は、何者か?
野田院古墳には、継承されている部分と、大きな「飛躍」点の2つの側面があります。継承されているのは、霊山の大麻山に弥生時代の箱式石棺墓から作られ続けた埋葬施設であるということでしょう。「飛躍」点は、その①技術 ②規模の大きさ ③埋葬品 ④動員力などが挙げられます。
手持ちの情報を「出して、並べて推測(妄想)」してみましょう。
①丸亀平野では最古級の前方後円墳であり、霊山大麻山の高い位置に作られている。
ここからは、並立する集落連合体の首長として、今までにない広範囲のエリアをまとめあげた業績が背後にあることが推測できます。その結果、今までの動員力よりも遙かに多くの労働力を組織化できた。それが古墳の巨大化となって現れた。
②造営を可能にする技術者集団がいた。先ほど述べた高句麗系の集団の渡来定着を進め配下に入れた豪族が、「群れ」の中から抜け出して、権力を急速に強化した。
③ヤマト政権から派遣された新しい支配者がやってきて、地元首長達の上に立ち、善通寺王国の主導権を握った。それが、後の佐伯氏である。
今の時点での私の妄想は、こんなところです。
支離滅裂となりましたが、今回はこれまでにします。
最後までおつきあいいただいてありがとうございました。支離滅裂となりましたが、今回はこれまでにします。
参考文献 笹川龍一 原始古代の善通寺 善通寺史所収
コメント