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善通寺東院

藤原道長全盛期の11世紀の半ばまでは、準官寺や東寺の末寺として、順調に発展してきた善通寺です。ところが11世紀後期になると、いろいろな困難が降りかかり、前途に陰りが見えてくるようになったようです。その困難の一つは、本寺である東寺の支配強化(圧迫)にあったようです。
東寺の財政政策の転換は、末寺の善通寺を圧迫しました
 東寺の財政は、丹波国大山荘や摂津国の荘園からの年貢収入もありましたが、その多くは国家から与えられた封戸に頼っていました。東寺の封戸は遠江国一五〇戸、伊豆国五〇戸など約一千戸ほどが与えられていましたが、11世紀の後半になると、律令体制の緩みで封戸収入が全く入らないようになります。そのため東寺は堂塔の荒廃や仏事の減退がひどくなってきたようです。そこで東寺は、財政の中心を封戸から荘園や末寺の納入物に移すことで、体勢を立て直す方針に転換します。こうして、荘園や末寺への支配強化の手始めとして、本寺から別当と呼ばれる全権委任者が派遣されるようになります。

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善通寺東院金堂
東寺からやって来た別当がどんなことを行ったか見てみましょう。

「見納二十二石九斗二升七合、已に別当御運上、別当御方々用途料十六石八斗五升」

この別当というのが、東寺から善通寺管理のために派遣された僧のことです。彼は延与という名で別当職として1071(延久三)年11月に善通寺に下ってきました。着任するやいなや善通寺に納入されていた田地子四七石五斗七升七合のうち、二二石九斗二升七合を京都に送ってしまいます。さらに「別当御方々用途料十六石八斗五升」とあるので、一六石八斗五升を、別当及び別当に付き従っていた人々の用途料として消費しす。そのため善通寺が費用として使用できる地子米は、残った七石八斗だけになってしまいます。別当延与は、畠迪子(年貢)においても、納入された六石三斗のうち三石を京都に運上しています。
 現在風に言うと、支店の売り上げ利益を本社からやってきた支店長が吸い上げて、本社に送金して、支店には資金が残らないようなイメージでしょうか。支店では活動資金すら不足する状況になります。善通寺の仏事や修理ができなくなります。善通寺では、延久二年(1070)に大風で五重塔一基と三間一面の常行堂が倒れていました。塔の再建は無理だが常行堂は何とか建て直そうと、古材木を集めて修造に取りかかる手はずになっていたようです。ところが、延与の地子(年貢)収奪のために、それも不可能になりました。

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善通寺東院の五百羅漢

 このような別当の「非道」に対して善通寺の僧侶達も黙っていたわけではありません。
延久四年の二月に上京して、東寺長者を兼ね、延与の非道を止めさせてくれるよう訴えました。その訴状には次のように書かれています。

「件の延誉(与)非道を宗と為し、全く燈油仏聖(仏供)ならびに修理料等を留め置かず、茲に因って寺中方々仏事、堂舎の修理等ほとんど欠怠す可く(なおざりになり)、その中大師御関日料(御忌日料)なお以て押し止む(支出しない)、況んや余の仏事をや(他の仏事はなおさらである)」
 意訳変換しておくと
この件について延誉(与)の行った非道は、燈油仏聖(仏供)や修理料等などのための資金を留め置かないことである。そのために善通寺の仏事、堂舎の修理などがなおざりになった上に、大師御関日料(御忌日料)なども支出しようとしない。他の仏事はなおさらである」

しかし、別当の本寺優先策が改まることはなかったようです。別当の行っていることは、「末寺(支店)から富を吸い上げて本寺(本社)を守る」という東寺の財政政策に基づいていたのですから。本展の指示通りに支店長は動いていたのです。

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善通寺は、この後もたびたび本寺や国司に対して訴えをくり返しています。しかし、改善はされません。それどころか、12年ほどたった応徳元年(1084)十一月、京都の讃岐国司(遙任)から讃岐の留守所(国衛)に次のような文書が届きます。

「本の如く別当の所勘(管理)に随って雑事を勤行すべし」とあり、国府は善通寺に「本別当を以て寺務・雑事を執行せしむべし。」

との命令を伝えてきました。こうして、財政部門や寺務を完全に東寺から派遣される別当に掌握されたのです。これ以後、善通寺は東寺の末寺(荘園)として支配されることになります。善通寺の寺領からの収入が、京都の東寺に流れるようになります。

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次に別当による経営のための組織改編が行われます。
11世紀末以後の文書には「善通曼荼羅寺所司」とあるので、善通寺と曼荼羅寺が一つとして経営されていたことが分かります。所司の構成員は、天治元年(1214)の「善通曼荼羅寺所司等解」によると権別当二人、上座・寺主・都維那の「職名」が見えます。これらの権別当以下は善通寺、曼荼羅寺の僧が任命されていますが、この上に立つ本別当の地位には本寺である東寺の僧がすわり、両寺を支配したようです。

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11世紀末期のもう一つの大きな問題は、地方政治の変化です。
11世紀になると貴族、大寺社の所領である荘園の増加に対して、中央政府は国司に対して国衛領の減少をくい止め、国の財政を維持するように指示します。特に藤原氏を外戚としないで即位した後三条天皇は、記録所という役所を設けて積極的に荘園整理に着手し、国司の荘園圧迫が強化されるようになります。

 このような荘園圧迫策が善通寺の寺領にも、次のように具体的に及んでくるようになります。
①11世紀初、国司が国役公事と称して、雑役を善通寺の僧侶への課税追加
②11世紀後半、それまで無税であった荒廃した水田を畠地にした「春田」への課税追加
③12世紀初、在家役として、住家や屋敷地、畠地などを単位として、田畠以外の桑・苧麻・漆等の畠作物や手工業品、労役などを取り立て開始。
④曼荼羅寺の域内に住む百姓に対して牛皮・鹿皮・会料米などの雑役や春田分の労役負担。
両寺所司らは、このような国衛の課税増徴が続けば法華八講や彼岸会などの仏事ができなくなってしまうと訴えています。11世紀後半から12世紀にかけて善通寺は難しい状況に追い込まれ、苦難の梶取を迫られていたことを押さえておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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りに、風流歌が踊られるのか?