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 古代善通寺王国の中心であった旧練兵場遺跡の背後にピラミダカルな美しい山容で立つのが香色山です。古代の人々は、この山と背後に重なる五つの峰を五岳(ごがく)山と呼び聖域として見てきたようです。「香色山遺跡群調査」では、この山頂に弥生時代後期の集団墓と平安時代の経塚群が報告されています。

香色山経塚調査報告書

今回は古代末期(11世紀後半)の香色山経塚について見ていこうと思います。
 善通寺の駐車場の後から整備された遊歩道を15分も登れば、山頂に立つことができます。展望は素晴らしく善通寺の東西の伽藍や、その向こうに真っ直ぐに讃岐富士に向かって伸びていく条里制の跡の道路が見えます。戦前は、11師団が丸見えなので「軍事機密」防衛のために一般人は、この頂上には立つことが許されなかったと言われますが、それが納得できる展望です。

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香色山山頂の明王

山頂は木が茂っていないために、風や雨による土砂の流れ出し、至る所に岩盤が露出しています。そして「聖地」らしくいろいろな石造物が建てられています。例えば、空海の生家・佐伯氏の祖廟碑もあります。これも興味深いのですが、今回は素通りして、不動明王と愛染金剛王に目を向けます。



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 この明王の後の石碑には、次のような内容が刻まれています。

香色山山頂の明王建立碑文
香色山山頂の明王建立碑(1792年)

「再埋経画之銘併序(再び経画を痙(埋)めるの銘並びに序)として、「寛政壬子(1792)二月にこの地を掘削した際に、経石の中から嚢に納められた銀製経画三点が偶然発見された。嚢が壊れていたものは経画も傷んでいたが、賓が無事なものは経画も完全に残されていた。その大きさは径三寸(約9cm)・長さ一尺(約30cm)である。同年六月に再び同じ場所に埋め戻し、像(二明王像)をこの上に安置した。」

と刻まれ、碑銘奥書きには次のように記します。
「寛政壬子秋九月・誕生院権僧正寛充誌」

ここからは江戸時代にここから「経塚」らしきものがすでに「出土」していたこと、それを誕生院の僧正が埋め戻し、その上に二つの明王様を建てたことが分かります。ところが平成8年になって、土砂の流出が激しくなり遺跡の状態が危惧されたために発掘調査が行われました。その結果、4つの経塚が出土しました。
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                    一般的な経塚の例

経塚とは仏教における末法思想による危機感から、仏教経典を後世に伝え残すことを目的に、書写した経巻を容器に納め地中に埋納した遺跡です。見晴らしの良い丘陵上や神社仏閣など聖地とされる場所に造られるので、そのような場所では数多くの経塚が群集して発見されることも少なくありません。この近くでは、まんのう町の金剛院で数多くの経塚(鎌倉)が発掘されています。

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善通寺の西に連なる五岳山 一番手前が香色山

香色山経塚分布図
香色山山頂の遺跡群
香色山山頂には、弥生時代の石棺墓や中世の経塚、さらには空海の生家である佐伯直氏の祖廟などいろいろな遺跡が作られ続けてきました。それはこの山が昔から霊山として崇められ、信仰の対象となっていたことをうかがわせます。
 
この調査で4つの経塚が山頂で確認されました。
香色山1号経塚3
香色山1号経塚全体図
そのうちの1号経塚は四角い立派な石郭を造り、その内部を上下二段に仕切り、下の石郭には十二世紀前半の経筒が納められていて、上の石郭からは十二世紀中頃から後半代の銅鏡や青白磁の皿が出土しました。
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香色山1号経塚の上部を取り除いて出てきた下段
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              香色山1号経塚の下段中層の実測図
調査の結果、平安時代の後半頃に造営したもので、下の石郭に経筒や副納品を埋納した後、子孫のために上部に空間を残し、数十年後にその子孫が新たにその上部石郭に経筒や副納品を埋納した「二世代型の経塚」であると研究者は考えています。こんな上下2段スタイルの経塚は全国初のようです。

香色山一号経塚
                 香色山1号経塚の説明版
 1号経塚は上下2段構造が珍しいだけでなく、下の石郭から出土した銅製経筒は作りが丁寧で、鉦の精巧さなどから国内屈指の銅板製経筒と高く評価されています。ちなみに上の段は、盗掘されていました。しかし、下の段には盗掘者は気がつかなかったようです。そこで貴重な副葬品が数多く出てきたようです。
香色山1号経筒 副葬品
          香色山1号経塚の副葬品

調査報告書には副葬品について、次のように記します

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香色山1号経塚の鋼板製経筒 
 
経筒には銅を鋳製して作る銅鋳製経筒と、銅板を丸めて作る鋼板製経筒の2種類がある。今回発見された経筒は鋼板製経筒の典型的な例であるとともに、銅鋳製経筒と比べて小形のものの多い鋼板製経筒の中にあって、銅板の厚いこと・作りの丁寧なこと・紐の精巧なことなど、屈指の鋼板製経筒と言うことができる。
なかでも(蓋の上の)鉦の精巧さは注目に値する。一般的には、銅鋳製・鋼板製を問わず、宝珠形の鉦が付くが、本経筒例では、宝珠の下に受花と反花を置く本格的な宝珠鉦となる。これは時代の古さを示すとともに、この後に四国の経塚に流行する火災宝珠鉦経筒の先駆けをなすものとして注目される。
香色山1号経塚銅板制経筒
香色山1号経塚の鋼板製経筒の実測図

次に太刀を見ておきましょう。

香色山1号経塚太刀
折り曲げられた太刀  
経塚の副納品にはしばしば刀剣類を見ることができる。
その多くは刃渡り30cm以下の短刀である。今回も短刀はたくさん発見されているが、中に太刀が含まれている。経塚からの太刀の出土はきわめてまれで、今までに岡山県小山経塚、広島県宮地川経塚、兵庫県江ノ上経塚と出土地不明の奈良博所蔵品の4例が知られるだけである。瀬戸内沿岸の経塚に特徴的な副納品であることが知られるとともに、四国では初めての出土例となる。 いずれの出土例にあってもU字形に折り曲げられていることが注目される。
副納品の構成  
一般的な経塚の副納品としては、鏡・合子・銭貨などが知られる。ところがこの香色山経塚の下部石郭においては、鉄製の太刀と短刀だけという特殊なあり方が注目される。副納品用と思われる副郭内にも短刀が重なって置かれるのみであった。他に有機質の副納品のあった可能性は考慮しなければいけないが、太刀の出土も見られるところから、利器に重点を置いた副納品構成が伺われる。あるいは願主なり檀越なりの在俗者の性格に関わる特殊性と考えることもできる。

香色山1号経塚太刀
香色山1号経塚の小太刀

  報告書は
①  経筒の精巧さを指摘し「屈指の鋼板製経筒」とします
② 副葬品に太刀があったこと、それも折り曲げられれていること 
③ 以上から有力な願主・檀那の存在がうかがえるとする。
 香色山山頂に、このような経塚が造られた時代は?
 古代善通寺には創建当時、四町四方の境内に金堂や大塔、講堂、法華堂、西塔、護摩堂その他、四十九の僧房があったといわれています。ところが11世紀末頃になると、前回にお話ししたように
①本寺の京都東寺による収奪
②讃岐国衛による負担強化
で、善通寺は圧迫を受けるようになり、それまでの繁栄に大きく影が差すようになりました。
 天永三(1112)年)、善通寺の門外不出の太鼓一面が国衛によって会料の名目で押収されてしまいます。この時に善通寺所司が本寺の京都東寺に宛てた報告の最後には次のように記されています。

「世は已に末世に及び、仏法凌遅すと雖も、大師の御遺跡法燈の光未だ消えず」

この後、寺は土地や農民に対する支配力を失って行きます。やがて貴族の世から武家政権に支配権が移つり、古代の秩序が崩れていき、その上に立っていた古代寺院は衰退していくことになります。

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この経塚群は、この混乱期にあたる平安時代後期に造られているようです。
作られた場所が香色山山頂という古代以来の「一等聖域」という歴史的環境から、
「弘法大師の末裔である佐伯一族と真言宗総本山善通寺が関わったものであることは疑いない。」
と研究者は記します。
  この時期は、善通寺周辺に勢力を置いていた佐伯一族や善通寺の僧侶達にとっては、先ほど見たように悲憤な状態にありました。この社会的な混乱を1052年から末世が始まるとされる「末法思想の現実化」としてとらえる僧侶や貴族は多かったようです。
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 経典を写し、経筒や外容器を求め、副納品を集めて香色山山頂に経塚を築いた集団の当時の心情は、悲しみや怒り、或いは諦念で満たされていたのかも知れません。もしかしたら仏教教典を弥勒出世の世にまで伝えるという目的よりも、自分たちの支配権を取り戻すことを願う現世利益的祈願の方が強かったのかもしれません。この山に登って来て、自らの書写した経典を経塚に埋めた人々の思いはどんな物であったのか。未来のために、あるいは現世のために聖地である香色山山頂に経塚を造り続けたのでは、そんな時代背景があるようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。(2024年11月22日改訂)

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参考文献 香色山経塚 調査報告書
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