讃岐国司藤原経高は、なぜ寺領の集中、一円化を行ったのでしょうか。
平安時代の末の11世紀後半になると律令制度の解体に対して、中央政府は租税改革を行い増税政策を展開します。それまでなかった畠地への課税、在家役の徴収などの新たな課税が地方では行われるようになります。これは、善通寺のようなわずかな寺領からの収入に頼り、国衛の支配に対しても弱い立場にある地方寺院にとっては、この新しい課税政策はおおきな打撃となったようです。
善通・曼荼羅寺の本寺である東寺も、国に干渉して末寺寺領を保護するほどの力はありません。そればかりか本寺維持のために善通寺などの末寺からの年貢収奪に力をそそいでいたことは、前回に見たとおりです。また善通寺や曼荼羅寺としても、寺領耕作農民の年貢怠納や「労働力不足」に悩んでいました。
一方、讃岐にやって来た良心的な国司の立場からすると、租税の取り立てだけがその役目ではありません。国内の寺社を保護し、興隆を図ることも国司の大切な勤めです。まして善通寺のような空海ゆかりの寺です。準官寺として国の安泰を祈る役目を担っている寺院を、衰退させることは重大な職務怠慢にもなりかねません。
このような中で打開策として実施されたのが善通寺寺領の一円化です。
これは古代以来、ばらばらに散らばっていた寺領を善通寺周辺に集めて管理し、財源を確保しようというものでした。この一円寺領の状態を示すのが久安元年(1145)十二月に国・郡の役人と善通寺の僧が作成して国衛に報告した善通・曼荼羅寺寺領注進状です。
東寺末寺 善通曼荼羅両寺事口口中村・弘田・吉原三箇郷内口口口口口口口口口口段二百二十歩常荒二段 (荒廃してしまった畑)畠六十八町二段百八十歩作麦三十七町九段百口口歩口口丁九段常荒十九丁四段河成一丁三段 (河成=川洲になってしまった田畠)四至(境界) (東西南北四方の境界)東限良田郷堺南限口口郷堺西限三野郷堺北限中津井北堺在家拾五家 (一円保の耕作担当農家15軒=労働力)仲村郷 正方 智円 近貞 国貞 清成 正宗 清武 喜楽 嬬弘田郷 貞方 末時吉原郷 貞行 近成 円方 真房善通寺仲村郷五十九丁五段田代二十丁三段六十歩見作九丁九段百八十歩年荒十丁三段二百三十歩 (年荒=休耕地)畠三十八丁七段百二十歩作麦十九丁一段三百歩年荒十四丁二段六十歩河成四段百八十歩在家九家三条七里二坪一丁七 公田二段半見作也 年荒七段半 作大貞末三坪一丁七 公田定見作四段 年荒六段 作大正方四坪一丁七 公田定見作 年荒一段畠七段 作麦六段 作大正方(中 略)十七、一丁 本堂敷地 (三条七里17坪)十八、一丁 同 敷地十九、一丁 同 敷地廿、 一丁 同 敷地(中 略)八里二坪一丁 公田定年荒 作人友重三,一丁 公田八反年荒 在所為貞畠二反麦之四、一丁 公田七反見作一反年荒六反 作人友重畠三反年荒(中 略)右、件の寺領田畠、去閏十月十五日御庁宣に依れば、件の二箇所先例に任せ本寺に付し其の沙汰せしむ可きの状、宣する所件の如し者(ということであるので)、寺家使相共に注進せしむる所件の如し、久安元年十二月 日
図師秦正清郡司綾貞方在判寺使僧胤口在判国使大橡綾真保在判散位中原知行在判
この史料には何郡何条何里何坪と記されていることと、多度郡の条里制が明らかになっていますので、記された耕地場所が分かります。この注進状に記された耕地の条里呼称を、坪ごとの作人と合わせて条理の上にあらわすと次の図のようになります。
この史料と図から分かることをまとめてみましょう。
①史料には三条七里17~20坪が「本堂敷地」とあります。絵図で見ると敷地は4坪で212㍍×212㍍の2町四方の面積が善通寺の伽藍であったことになります。現在の約2倍の伽藍だったことが分かります。②散在していた寺領が、三条七里の善通寺と六条八里の曼荼羅寺の周辺に集められたことがよく分かります。③坪の中に記入されているのが住人ではなく耕作者です④寺領の中に仲村と弘田郷の境があるので、仲村・弘田・吉原の三つの郷にまたがっています。⑤境界(四至)は、東は良田郷、西は三野郡、北は中津井北、南は生野郷に接しています。⑥吉原郷の六条八里十八坪、方一町の本堂敷地が曼荼羅寺。⑦一円保の田地面積を合計すると三七町三段一八〇歩。⑧「常荒二段」とあるのは、荒廃して耕作できなくなった田地。⑨畑地は総面積六八町二段一八〇歩で、常荒一九丁四段、その他氾濫などで川洲になってしまった田畠(川成)が一町三段あります。各坪は大部分が、田と畠の両方を含んでいます。この時代は、全ての土地が水田化されてはいません。畑作地が多く残っていたことが分かります。⑩年荒と記されている所は休耕地。この時代は灌漑未整備や農業技術が未発達で連作ができなかったため、ある期間休耕にする必用があったようです。⑪善通・曼荼羅寺領の場合、休耕しているのは田が21町八段あまり、畠が20町五段もあります。
⑫実際に作付されて収穫のあった見作地は、田が14町三段ほど、畠が28町一段です。⑬在家一五家とあるのは、寺領域に住家をもつ農民が15五家あり、彼らに課せられる在家役が善通寺に納入されていたようです。
一円化寺領のねらいは?
一円化された寺領をみると、土地と労働力がセットになって寺のまわりに配置されたことが分かります。これがもたらすプラス面としては、次の2点が考えられます。
①分散していた寺領が、国司の権力によって善通寺と曼荼羅寺の周辺に集められて支配がしやすくなった
②田畠数も増加し、15軒の農家も土地に付属して、徴収も行いやすくなった。
これだけ見ると、これを実施した讃岐国司に善通寺は大感謝したと思われます。
その思惑通りに進んだのでしょうか?
善通・曼荼羅寺が置かれていた困難な状況は寺領一円化によって一挙に解消したのでしょうか。事態はそれほど簡単ではないようです。
久寿三年(1156)五月に国衛に差し出した文書のなかで、善通・曼荼羅寺所司は散在寺領の時と一円寺領の時との地子物の徴収について、
「右件の仏事料物等、一円に補せられざる時に於いては、寺領夏秋の時、検注を以て地子物を勤仕せしむ。而るに一円せらる後は、彼の起請田官物の内を以て勤仕せしめ来る処に」
と述べています。一円化が行われる以前の散在寺領の時は、寺領を夏と秋の二回調査して年貢の額を決めて徴収していたが、一円化された後は、起請田から徴収された官物の内から納入されるようになったというのです。官物とは、国衛が支配下の公領から徴収する租税、起請田とは、官物の徴収責任者がそこからの官物の納入を神仏に誓って(起請して)請け負った田地のことです。
つまり、一円化寺領からの地子物の徴収は、直接善通寺あるいは東寺によって行われるのではなく、国衛が、起請田として定めた田地(これが一円寺領とされたもの)から官物を徴収し、その内から一定額を寺に地子物として送ってくるということのようです。善通寺は徴税作業に直接に関わることがなくなったのです。
そうすると、善通・曼荼羅両寺の周辺に集められた土地は、名目的には寺領とよばれていますが、租税・課役の徴収などの実質的支配は国衛によって行われていたようです。これは寺領いうものの、実態は公領です。寺領の面積が拡大したようにみえるのも、実は国衛が善通寺に渡す官物の額が従来の寺領地子額に見合うように、起請田の広さをを設定したためではないかと研究者は考えているようです。
保延四年(1228)に讃岐国司藤原経高は、国司の権限によって、散在寺領を移し替えて両寺の周辺にまとめました。その目的を整理すると
①寺領を寺周辺の一定地域にまとめて設定することで、②その地域内に住居を持つ住民に課せられる在家役を寺側に納めさせて、③寺家の修理・雑役不足の問題を解決し、④農民に対する支配力の弱い善通寺による年貢徴収に代わって、国衛が寺領耕作農民から徴収した官物のうちの一定額を年貢として善通寺に送付する⑤以上の「改革」で善通寺の財政を安定させようとした⑥国衛が間に入ることによって、本寺(京都東寺)の過重な収奪をコントロールしようとした
以上の一円化政策について、研究者は
「善通寺と曼荼羅寺が追い込められていた状況を打開する適切な措置」
であった評価します。後の鎌倉時代にはこの一円化が善通・曼荼羅寺の中心寺領の基本的枠組となっていくのです。
しかし一円化政策は、次の二つの大きな問題があったようです。
①寺の収入は、善通・曼荼羅寺が直接一円寺領を耕作している農民から地子を取り立てるのではなく、国衛が徴収した官物のなかから寺側と約束した額を取り分けて送ってくるという形で得られたこと。
これは国司が代わり国衛が約束を守らず、納入物を送ってこなければ、その収入は途絶えてしまうことになります。
②一円化政策は、国司の権限によって行われたことです。中央政府の法令ではありません。彼のあとに就任した国司が、違う考えを持っていたら、同じく国司の権限によって、一円寺領を解消することもできます。
この問題はまもなく現実のものとなったようです。
経高の次の国司は、一円化政策を引き継ぎました。しかし、その次の代の国司は、政策を変更し、一円寺領を解消し、もとの散在寺領に返してしまいました。久寿三年の解状で、善通・曼荼羅寺所司は、引用した文章に続けて次のように言っています。
「散在せらるるの間、その沙汰無きの間、もっとも仏威絶えるに似たり、ここに一円を留め散在さるれば、本の如く彼の留記帳顕然なり。件の地子物を以て勤仕せしめんと欲す。」
一円化政策が取り止めになり、国衛からの納入物の送付という沙汰(処置)が無くなった善通・曼荼羅寺は、寺の留記帳(資財帳)に記載されている元の散在寺領から地子物を徴収しようとしました。しかし寺領一円化の間に、寺は徴税に関わっていませんでした。ふたたび散在した寺領に対する寺の支配力はすっかり弱まっていました。
さらに、一円寺領が取り消されて寺の周辺が元の公領にもどったため、寺領の中に生活していることで寺に与えられていた15家の百姓の労働力が得られなくなります。逆に寺の周辺に居住する僧たちに公領在家役がかかってくるようになります。このため僧たちの多くが、重い負担に堪えかねて逃亡して、残ったわずかの住僧たちによって仏事が営まれる有様になります。この様子を善通・曼荼羅寺所司たちは、
「上件の条々非例の事、国衛の焉めには畿ならずと雖も、御寺の焉めには三百余歳を経し恒例の諸仏事等まで欠怠せるの故、最も愁うべく悲しむべし」
これらの在家役や国役は国衛にとっては、何ほどの額ではないけれども、寺にとっては三百余年も続いた仏事ができなくなってしまうほどの打撃なのだと、非痛な叫びをあげ、悲憤をつのらせています。
僧侶達は「末法の時代」に入ったという時代認識がありました。自分たちの善通寺を取り巻く状況こそが「世も末」に思えたはずです。前回にお話ししたように、その現実への悲憤と逃避のために、香色山山頂に経塚は埋められたのかもしれません。
このように設置当初の一円保は、国司交代の度に設置と廃止を繰り返します。これが制度として定着するのは、もう少し時間が必用でした。
この頃、平安時代も終わりに近づき、都では平氏が保元の乱(1156))、平治の乱(1159)に勝利して、ライバルの源氏を倒し、栄華の道を進もうとしていました。そして讃岐国では、善通寺が、本寺と国衛の支配の間にはさまれて、苦難の道を歩んでいたのです。
参考文献 平安時代の善通寺の姿 善通寺史所収
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