善通寺宝物館には、一円保絵図と云われる絵図があります。
寺の伽藍と背後の五岳山、周辺に広がる寺領を描いた縦約80㎝横約160㎝の絵図です。もともとは善通寺の本寺であった京都山階の随心院に保管されていたようです。それが明治40年(1907)に善通寺に持ち帰えられ、現在では重要文化財に指定されています。絵図は小さくたたんで表紙がつけてあり、表紙をあけたところに、次のように記されています。
一円保絵図トレス図
寺の伽藍と背後の五岳山、周辺に広がる寺領を描いた縦約80㎝横約160㎝の絵図です。もともとは善通寺の本寺であった京都山階の随心院に保管されていたようです。それが明治40年(1907)に善通寺に持ち帰えられ、現在では重要文化財に指定されています。絵図は小さくたたんで表紙がつけてあり、表紙をあけたところに、次のように記されています。
「徳治二年(1307)丁未十一月 日 当寺百姓烈参(列参)の時これを進(まい)らす」「一円保差図」
「差図(指図)」とは絵図面のことです。
この記入から、この絵図が鎌倉時代末期の徳治二年に善通寺寺領の農民たちが京都に上り、随心院に提出したものであることがわかります。この地図がどうしてつくられ、京都の本寺に保管されていたのでしょうか?この絵図を見ていくことにします。
絵図は普通の地図とは異なって南が上になっていて、北から南を見る形になります。右が西、左が東です。絵図の東より、やや南側(上側)に善通寺の伽藍が描かれています。ちなみに、絵図の方形は106㍍×106㍍で一坪にあたります。青く塗られているのは、川や用水路のようです。詳しく描かれています。制作意図と関係があるようです。
善通寺一円保絵図
①境内は二町(212㍍)四方で塀に囲まれています。ここが多度郡条里の「三条七里17~20坪」の「本堂敷地」にあたる場所になります。
②東院境内の上方中央の長方形の図は(G)南大門で、傍に松の大樹が立っています。
③南大門を入ったところに点線で二つ四角が記されています。二つめの四角は(K)五重塔の基壇で、まん中の点は(J)塔の心礎のようです。五重塔は延久二年(1070)に大風のために倒れてから、そのあと再建されていないようです。
④中央にあるのは(A)金堂で、『南海流浪記』には
「二階だが裳階があるので四階の大伽藍にみえる」
⑥絵図でみると、善通寺の伽藍配置は門・塔・金堂・講堂とならびますので四天王寺式の配置であったことが分かります。
⑦金堂の右下にみえるのは(F)常行堂で、塔と同じく延久の大風で倒壊しましたが、道範が訪れた時には新しく造営されていました。
⑧『流浪記』には、金堂の左下に描かれている二重の宝塔に、大師の御影が納められているとあります。その後御影を安置する(B)御影堂が建てられました。金堂の左に見える建物がそれです。⑨宝塔は、寛文の絵図では法花(華)堂となっています。
⑩講堂の左にあるのは(C)護摩堂、右にあるのは閻魔堂で、境内の右上隅に柴垣様のもので囲まれているのは(M)鎮守五社明神、その下に(L)鐘楼がみえます。


⑪伽藍の右(西側)中央から直線の道がのびており、その先にあるのが(I)誕生所です。
⑫左右に囲む塀のある門を入ると三方に柴垣を廻らせた境内があり、中央に御堂が建っています。道範が鎮壇法を修して造営し、木彫の大師像が安置された御堂でしょう。左に小堂、右に石塔が二基描かれています。
⑬誕生院の裏の小山は八幡山で、山上には弘法大師の出身氏族である佐伯氏の祖先をまつる祖廟堂があり、遊園地が設けられて、家族連れのピクニックなどに最適の地でした。今は、削られて駐車場になっています。
⑭八幡山のうしろの山が香色山で、麓の安養院は善通寺の子院の一つです。
⑮香色山のうしろの山は筆ノ山、そのうしろの山は行道所のある我拝師山で、他の山々は略されているようです。
次に善通寺の周囲の一円保寺領を見てみましょう。
絵図に引かれている縦横の線は条里の区画です。これを前回に示した寺領条里図とくらべると、ほとんど一致します。ここからは12世紀に国司藤原経高によって善通寺の周辺に集められた一円化寺領が、そのまま一円保になったことがうかがえます。
善通寺一円寺領坪付図
よく見ると善通寺周辺の寺領は詳しく描かれていて、境内の東側の地域(現赤門筋)には、特に家が多く描かれています。この辺りは現在でも市の中心地で、早くから住居地として発展していたようです。
この地域と境内周辺の地名を見ると
「そうしゃう(僧正)」「そうつ(僧都)」「くないあしやり(宮内阿閣梨)」「ししう(侍従)」「あわのほけう(阿波法橋)」
などの僧名を思わせる注記が見えます。
そこに住んでいる僧侶の房があったのではないかと研究者は考えているようです。善通寺には「安養院、玉泉院など四九の子院が寺領内にあった」と伝えられています。子院は有力な僧の住房から発展したものが多く、絵図の僧房の中にも、のちに子院になったところがあるかもしれません。
そこに住んでいる僧侶の房があったのではないかと研究者は考えているようです。善通寺には「安養院、玉泉院など四九の子院が寺領内にあった」と伝えられています。子院は有力な僧の住房から発展したものが多く、絵図の僧房の中にも、のちに子院になったところがあるかもしれません。
「行政機関」を探してみましょう
絵図の左上のところに「田ところ」とあります。これは田所で、寺領の田地を管理する役人です。絵図の右下の曼荼羅寺の上には「そうついふくし(惣追捕使)のりよう所(領所)」という記載があります。惣追捕使も寺領役人で、領内の治安を担当します。
公文とあれば、そこが年貢収納などに当る公文という役人がいたところで、寺領役人の中心地だったことが分かるのですが、この絵図では公文は見当たらないようです。
公文とあれば、そこが年貢収納などに当る公文という役人がいたところで、寺領役人の中心地だったことが分かるのですが、この絵図では公文は見当たらないようです。
絵図左下のまん中あたりに石塔が描かれています。
これは遊塚(ゆうづか)と呼ばれていました。空海が真魚と呼ばれた子供の頃よく遊んだところで、仙遊原と名付けられ、その古蹟を伝えるために建てられた塔です。伽藍の左上にみえる「くらのまち(倉の町)」は年貢類を納める倉のあったところ、左端の木が描かれている坪の下にある「とうし くらのまちりよう(当寺倉の町領)」は、倉の維持に必要な費用を出す領地のようです。
これは遊塚(ゆうづか)と呼ばれていました。空海が真魚と呼ばれた子供の頃よく遊んだところで、仙遊原と名付けられ、その古蹟を伝えるために建てられた塔です。伽藍の左上にみえる「くらのまち(倉の町)」は年貢類を納める倉のあったところ、左端の木が描かれている坪の下にある「とうし くらのまちりよう(当寺倉の町領)」は、倉の維持に必要な費用を出す領地のようです。
絵図の左側下半分に、宗光、光貞、利友、重次など人名のような記載があります。
これは名田で、年貢・公事(雑税・労役)の割り付け単位になったようです。名田につけられた名前は名田からの年貢・公事の納入責任者で、名主といいます。名田が成立したころ(平安末、鎌倉初期)には、実際にその名の名主が年貢の納入責任を負い、名田の管理経営も行っていたようです。しかし、時代が経つにつれて名主の名前も変わり、田地も切り売りされたり、質入れされたりして所有者がばらばらになって、次第に名田の名前はただの地名のようになっていきます。
それでも、旧名田からの租税は名主の家柄のものがとりまとめて納めていたようです。彼らは当時も、村落の中心的地位にいたようです。この絵図は周辺の荘園との水争の解決を本寺に求めて上京する際に作成されたものと研究者は考えています。絵図を持って上京し、随心院に列参したのも彼ら名主だったのかもしれません。
絵図の同じ部分に寺家作と記されているところは寺の直属地です。といっても善通寺が下人などを使って直接経営しているのではないようです。寺領内の小農民(小百姓)に土地を貸し小作化していたようです。名田内の田畠も小百姓によって小作されていたところが多かったようです。
「壱岐湧」
善通寺周辺の田畠は2つの水源から流れ出る水によってうるおされています。
水源の一つは図の右上に①「ありを口(か)」と記されている池で、この周辺は「古代善通寺王国の王家の谷」でいくつもの前方後円墳がならぶ聖域です。大墓山古墳と菊塚古墳の間の谷を流れる弘田川の源流をせき止めた池が有岡大池です。この池が古くから造られていたことが分かります。ここから流れ出す②弘田川は、現在でも誕生所の裏を通って、多度津の白方で瀬戸内海に流れ出ています。
「をきとの」とみえるのは、生野町木熊野神社の南側にある「壱岐湧」とよばれている出水です。その東は字がかすれていて読めませんが「柿俣の井」で、磨臼山の東麓にある出水のようです。3つ目は名前は記されていませんが、現在の②二頭出水だといわれます。絵図からは、水が用水路を通じて西に流され、条里制に沿って北側に分水されている様子がうかがえます。四国学院の図書館建設に伴う発掘調査からは、北流して旧練兵場方面に導水されていたことを推測させる弥生後期の用水路跡もでてきています。これらの湧水が弥生時代以来の善通寺周辺の水田の重要な水源であったことが分かります。古代善通寺の発展の原動力となった湧水群です。
五岳の我拝師山
善通寺文書のなかに、善通寺の住僧たちの訴えを裁いた国司庁宣があります。その第三条に、善通寺の寺領の用水は生野郷の「興殿と柿俣」の出水に頼っていて、もしこの出水からの用水が来なかったら寺領の田んぼは干上がってしまうという訴えがあります。ここからは、出水周辺の勢力からの供水妨害があったことがうかがえます。善通寺の管理権は、東の出水付近までは及んでいなかったようです。
善通寺一円保の範囲
3つの出水は寺領の外、国司支配下の公領生野郷にあります。有岡の大池も国衛の築造でしょう。
そうすると用水の確保は讃岐国司との交渉になります。善通寺だけの交渉では相手にしてもらえず、本寺の随心院にのり出してもらわなければなりません。善通寺寺領の百姓の上京は、その請願陳情のためだったのではないかと研究者は考えているようです。そう考えれば、絵図に両水源とそれからの用水の流れが丁寧に描かれている理由が見えてきます。絵図は、説明資料として作成されて京都に持参され、これに基づいて状況説明が京都の本寺に行われたのではないでしょうか。善通寺周辺が詳しく書かれているのに、曼荼羅寺周辺の寺領の描き方が簡単なのは、両水源からの水掛りに無関係だったからと考えれば、納得がいきます。
善通寺一円保絵図は、誰が書いたのか?
この絵図は五岳山の山容のタッチとかラインに大和絵風の画法が見て取れます。これは素人の農民の絵ではありません。それでは誰が描いたのでしょうか。研究者は「絵図の作成には善通寺が関わっていた」と考えているようです。例えば、この京都陳情から6年後の正和二年(1313)に作られた豊中町本山寺の二天王像の彩色は善通寺の絵師正覚法橋が行っています。善通寺には、専属の絵師がいたのです。それだけの要員と組織があったことが分かります。
善通寺一円保の比定図拡大
また、一円保の領主である善通寺は、農民の実状がよくわかっていたはずです。絵図の作成ばかりではなく、農民らの上京にも協力したのではないでしょうか。鎌倉後期の一円保では、名主層を中心に、用水争論などで力を合わせる村落結合が形成される時期になります。善通寺は領主であると同時に、その「財源」となる村落を保護支援する役割を果たしていたようです。同時に農民たちの精神的拠りどころにもなっていたのかもしれません。
こうして、11世紀後半からの末法の時代に入り、本寺の収奪と国衛からの圧迫で財政的な基盤を失い、伽藍等も壊れたままで放置されていた善通寺に、反転の機会が訪れます。それは一円保という形で寺の周辺に寺領が定着していくのと足並みを揃えるかのように始まります。
参考文献 鎌倉時代の善通寺 善通寺史所収
参考文献 鎌倉時代の善通寺 善通寺史所収
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