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弘法大師空海御影

  京都の本寺である東寺と、讃岐国衛の圧迫を受けて財政的に困窮し、風で倒れた五重塔もそのまま放置されるような状態であった善通寺。それを僧侶達は「末法」の現れと悲憤・悲嘆しました。そのような中で善通寺に追い風が吹き出します。それが「空海伝説」の都での広がりと、それれに伴う支援者たちの形成です。
まず弘法大師伝説について見てみましょう。
空海のことが今昔物語や他の文献にも登場し始めるのは、11世紀になってからです。ある意味、空海は忘れられていました。それが空海伝説の広がりと共に「復活」してきます。そして「弘法大師誕生の寺」として中央でも注目されるようになります。空海の時代から善通寺が生誕地として注目されていたわけではないようです。時間をかけてゆっくりと、弘法大師伝説は語り継がれ広がり、王侯貴族に広がっていったのです。
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 空海の御影信仰とは?   
空海は承和二年(八三五)3月21日に亡くなったのではなく、高野山奥の院で生きなからに入定して、今なお衆生済度のために活動している

という入定信仰がよく知られています。中世に東寺を中心に広がったのは、御影(肖像)信仰で、肖像のなかに空海の精霊が宿っているという信仰です。東寺における御影信仰は、延喜十年(910)の御忌日に、長者観賢によって東寺濯頂院の壁面に描かれた空海の肖像を本尊として行われた御影供にはじまるようです。鎌倉時代にはこれが国家的行事に発展します。こうして御影信仰は、平安後期から鎌倉前期にかけて、朝廷・公家・武家の間に広く行き渡っていきました。
「御影の中に、空海の精霊が留まっている」という信仰が広がると、「空海自身の筆で描かれた自画像こそ、最大の霊力がある」と思われるようになるのは自然です。善通寺には、この自筆自画像=御影があるとされていたました。
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弘法大師御影(善通寺様式)

 これを拝みたいという上皇が現れます。後鳥羽上皇です。
 その時に、善通寺に逗留していた高野山の高僧宥範は、その経緯を次のように記しています。

 空海御影の上洛を善通寺に求めたのは後鳥羽上皇自身であり、善通寺の僧たちは上古以来御影を堂からお出ししたことない旨を申し上げて再三辞退した。が、度々の仰にことわりきれず、御影を奉戴して上京した。上皇は御拝見ののちに、絵師に命じて御影を模写させ、また生野郷の田地六町を寄進した。
 
 寺伝によると、承元三年に土御門天皇がこの御影を拝覧した時、画中の空海がまたたきをしたので、瞬目空海の御影と名付けられたと記します。このような、空海真筆御影に対する信仰が、本寺の東寺や随心院の頭越しに、直接善通寺に対する尊崇に結びついて行きます。これが中世における善通寺の発展に、大きな役割を果たします。 これを契機に、善通寺への寄進等が増えていきます。
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 後鳥羽上皇の寄進から40年後の宝治三年(1249)三月、善通寺領を大きく前進させる国司庁宣が出されます。
その内容は2つで、
その第一は、寺領の近辺を憚らず猟をするものが多いので、猪や鹿が善通寺の霊場に逃げ込み、猟師がそれを追ってきて殺害し、浄界に血を流すことがある。まことに罪業の至りであり、寺辺の殺生は法によっても戒められていることであるから、生野郷の西側に四至を定め、その内を善通寺領に準じて殺生禁断の地とするというものです。

 四至とは東西南北の境界のことで、国衛で定めている境界は、
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東は善通寺南大門作道を限り、
西は多度こ二野両郡の境の類峰の水落を限り、
南は大麻山峰の生野郷領分を限り、
北は善通寺領五岳山南麓の大道(南海道?)
を限るとあり、これのエリアを示したのが上の地図で、なかなか広い地域になります。この地域がそのまま善通寺の領地となったわけではありませんが、寺の霊域と定められ、善通寺の宗教的支配地となったといえるでしょう。

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善通寺御影堂
 第二は、国が所有している田地21町を善通寺の修理料として寄進するというものです。
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この寄進を行ったのは、讃岐知行国主になった前関白九条道家です。道家は鎌倉の三代将軍源実朝が暗殺されたあと、都から下って将軍職を継いだ九条頼経の父でもありました。いわゆる実力者です。道家は善通寺が衰え廃れていることを聞き、驚いてこの寄進を行ったといっています。そうして寄進田地に対しては、次のように命じたとされます。
国衛も本寺も妨げをしてはならず、「只当寺進退と為して其の沙汰致さしむべし」、すなわち一切善通寺の管理・支配にまかせるべきである

 この田地は善通寺の堂塔の修理料として、国の租税を免じられたところという意味で「生野郷修理免」とよばれました。  これを「空海伝説信奉者による善通寺応援団の形成」と私は考えています。
一円保絵図 周辺との境界
善通寺一円保と生野郷修理免


 善通寺がこの地域で直接支配できたのは10数町の免田だけで、あとは殺生禁断という形の宗教的支配と地域内の荒野開発権です。ここにはなお多くの国司支配の公田が残っていて、有力武士の所領地も存在していました。そのため支配権をめぐる争いはその後も絶えなかったようです。しかし、「末法」の最悪状態を抜け出す道筋が見えてきたようです。
 
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善通寺誕生院境内

良田(よしだ)郷郷務の寄進
 文永十年(1273)の蒙古来襲に対して、神社仏閣は国家の求めに応じて救国のための祈祷等を行います。その結果、「神風」の助けもあって撃退されます。このような中で、社寺への「論功行賞」も行われます。善通寺も、弘安三年(1280)11月、朝廷に良田郷西側の寄進と、あわせて大嘗会役や造内裏役など公領・荘園を問わず国中に課せられる国役の免除を申請しました。

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寺の請願書には次のように記されています。
当寺は弘法空海誕生の霊地であり、功徳、霊験他に勝る寺である。その功力をもって先皇後嵯峨上皇の御菩提をとむらうために亀山上皇より良田郷郷務を寄附されて以来、金堂・法華堂の一八人の僧が、金堂においては金剛胎蔵両部の行法を修し、法華堂においては長日法華三昧を勤め、毎月の上皇の御命日には不断光明真言法を勤行している。
 さらに祥月命日の二月十七日には満寺の衆徒によって曼荼羅供ほかを勤修するなど「偏に先皇を訪い奉り、仏道を増進」することに勤めてきた。
 これらの仏事をいっそう盛んにするために、良田郷西側の地について、「大嘗会役夫工造内裏以下恒例臨時勅院事大小国役、国司大勘ならびに別当の妨げを停止し、金堂法華両堂供僧等進退領掌せしめ、永く未来際を限り牢龍(ろうろう)有るべからずの由」の宣旨を下されたい
 この請願でまず、目にとまるのは「金堂・法華堂の一八人の僧」とあり、僧侶スタッフが18人いる大寺であったことです。次に、注目されるのは、国司大勘ならびに別当の妨げを停止し」と国司や本寺随心院の干渉を止めさせる宣旨をいただきたいと述べている点です。ここには、本寺の干渉を受けない、自らの寺領を持つことを主張しています。いわば善通寺の独立宣言です。
 善通寺が弘法空海の誕生地であること、そして「荘厳(仏像・仏堂を飾る仏具・法具)・梵閣・仏像皆是れ空海の御作として奇異の霊験を施す」という空海との特別な関係があるという自覚・覚醒が背景にあるようです。そこには、歴史においては本寺より勝った寺なのだという自負や、それにふさわしい地位を与えられて当然だという「自尊心」も感じられます。

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戦前の善通寺御影堂
 善通寺の申請は弘安四年(1281)八月の官宣旨(朝廷からの命令)によって認められました。これは、北九州に来襲した元と高麗の連合軍が大風雨によって壊滅した翌月のことです。この支配権は良田郷領家職とよばれていて、個々の田地の所有権ではなく、一定の領域に対する支配権です。弘安四年の官宣旨には、この領域の境界が次のように記されます。
東は金倉寺新免絵図通を限り、
西は善通寺本寺領(一円保のこと)境を限り、
南は生野郷境を限り、
北は葛原郷(現多度津町内)境を限る
とあります。領域内の田地は、約四七町余りになるようです。良田郷領家職は、良田荘ともよばれています。こうして善通寺は小さいながらも荘園領主となったのです。このような寺領拡大をもたらしたのは、空海の誕生所であることと、御影信仰が両輪として働くようになった結果だったといえます。
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 善通寺領の発展の当時の政治的・社会的背景は?
  それは第一に、蒙古襲来があげられます。
蒙古来襲の危機が高まると、幕府・朝廷は防衛体制を固めるとともに諸社寺に異国降状の祈祷を命じました。善通寺の古文書のなかに、建治二年(1276)8月21日付けの蒙古人治罰の祈祷を行った報告書があります。
  蒙古人治罰御祈祷事
          御影堂衆
  毎日三時五檀法 金堂衆
          法花堂衆
  大般若不退転読 供僧分
  仁王経長日読誦 職衆分
  薬師経観音経  交衆分
  尊勝陀羅尼千手陀羅尼 行人、
右、勤行の意趣は、公家武家御願円満のおおんため、蒙古人治罰御祈祷致す所也
    建治二年八月二十一日
これによれば、御影堂・金堂・法花堂の供僧が毎日朝・昼・夜の三度五壇法を修して五大明王に敵国調伏を祈るほか、寺僧らが手分けしてさまざまな修法を行い、蒙古人治罰を祈っていたことがわかります。二度にわたって来襲した蒙古軍がいずれも大風によって撃退されたことは、神仏の加護によるものだと信ぜられ、社寺に対する尊崇が高まり、領地などが寄進されました。善通寺の良田郷領家職や艘別銭徴収権の獲得などもこの気運にのったものと思われます。

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もうひとつの理由は、大覚寺統の後嵯峨上皇、亀山上皇、後宇多上皇が、相次いで讃岐の国主となったことです。
 三上皇は院政の主で、そろって真言密教を深く信仰し、善通寺の援助者でした。良田郷の荘園化、禁野関料の権利も三上皇の善通寺保護がなければ、実現が難しかったと研究者は考えているようです。
 特に後宇多上皇は、徳治二年(1307)ごろに東寺造営の大勧進であった泉涌寺(京都市東山区)の素道(そどう)上人に命じて善通寺五重塔の再建を計画しています。崩ずるに先だって作成した21箇条の御遺告の第18条には「善通・曼荼羅両寺および誕生院を興隆」と遺言として残しています。

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 善通寺東院の南大門を入った左手の大楠の近くに三基の宝塔があります。
これは中世の善通寺の発展を支援した後嵯峨・亀山・後宇多三上皇の遺徳をたたえるために建立された宝塔で、三帝御陵とよばれています。この宝塔について善通寺市のHPには次のような文章が添えられていました。
この宝塔は、はじめは旧伽藍(212㍍×212㍍)の西北隅にありましたが、境内縮小のあおりで境内の北西約1.4kmの現・善通寺市中村町宮西に移転されました。この地には現在でも御陵地と呼ばれる一区画があります。その後の享保年間(1716~1735年)に、境内の北西側隣接地、(旧富士見町)の遍照院跡地に再度移転しました。さらに昭和39年2月に現在の場所へ移転しました。このように3基の石塔は移転を繰り返しながらも、祭祀が継続されていたことが伺えます。

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善通寺の三帝御陵
以上をまとめると、鎌倉時代後半の善通寺の寺領の拡大には次のような背景・要員があった。
① 空海伝説=大師信仰の王侯貴族への広がり
② 善通寺の御影信仰と皇族からの保護寄進
③ 蒙古撃退後の社寺への論功行賞
④ 讃岐の国主となった三上皇(後嵯峨・亀山・後宇多上皇)の支援保護
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参考文献 鎌倉時代の善通寺の姿 善通寺史所収
関連文書